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中国古代の聖獣伝説─龍思想に関する研究─ 

99L1089R 永井朋子


 今日では漫画などに古代中国の宗教や五行思想に絡んで登場する中国古代の思想、四神に興味を持ち始め、四神とはどのような思想なのか、実際にはどのように信仰されていたのか調べ進めていくうちに、四神の中でも最も名が知れ、親しまれている龍に強く惹かれた。序章では四神思想について述べ、第一章では中国のみならず世界各地で見られる龍に関する事柄を、第二章では一章で述べた様々な龍と比較しつつ、中国における龍思想を、第三章では龍の起源に関して代表的な説をいくつか取り上げ、第四章ではそこから導き出されるであろう古代中国の思想、他地域とは異なる古代中国人の自然観について考察する。

目次

序章
 テーマ選択の理由

第一章 世界各地に分布する龍
(一) 悪の化身 西洋のドラゴン
(二) 善悪二面性を併せ持つ インドのナーガ(龍神)

第二章 中国の神獣・龍
(一)  皇帝のシンボル
(二) 龍の信仰

第三章 龍の起源説
(一) 龍と蛇
(二) 恐竜とワニ
(三) 自然現象

第四章 結論



 

序章

 古代中国に発祥する思想のひとつに四神思想というものがある。四神とはすなわち、青龍、白虎、朱雀、玄武(亀と蛇とがからみ合ったもの)と言われる4種の神獣を指し、それをそれぞれ東西南北に配して守護神とし、四方から中央を守るのである。古くは前1世紀頃の古代中国の経書『礼記』曲礼篇上に「朱鳥を前にして玄武を後にし、青龍を左にして白虎を右にし、招搖上に在り」 1と記されている。また『淮南子』天文訓には五行思想に基づき、中央に黄龍を配したものが加えられている2。さらに時代は遡り、戦国時代前期、曾国の乙という名の国君の墓から出土した漆器の箱の蓋3には、中央に北斗、周囲に二十八宿にあたる星名とともに、両端に龍と虎の図案が描かれていた。その後、前漢時代末期には器物や壁画に、後漢時代に入ると四神鏡や画像石4は盛んに用いられるようになる。

 四神思想は東アジア地域にまで影響を及ぼし、5世紀前半の高句麗では、死者を守護するように墓室装飾に四神図がみられるようになる。高句麗古墳の天井壁画には星宿とともに、四神図が描かれている5。高句麗を通して四神思想、四神図が伝来することとなった古代日本でも、墓室装飾として用いられる。奈良県に所在するキトラ古墳、1972年に発掘された7世紀末から8世紀初め頃と推定される高松塚古墳からは、ともに壁画に描かれた四神図が発見された。また墓室装飾のみならず、薬師寺如来像の台座には四神図が鋳出されており、最も古い文献としては『続日本紀』に、「文武天皇の701(大宝元)年正月に大極殿で行われた朝賀の儀において、正門の左に日像、青龍、朱雀、右に月像、玄武白虎を飾った幡を立てた」という記載があり、この時代の日本文化に四神思想の影響をみることができる。また現在でも、四神旗は神社で祭場、社頭の装飾などに用いられている。

 古代中国には青龍、白虎、朱雀、玄武を四神として信仰の対象とするだけでなく、龍、亀、麒麟、鳳凰、想像上の動物4種を四霊とみなし信仰する思想があった。『礼記』礼運篇には「麟・鳳・亀・龍、これを四霊と謂う」と記載があり、『家語』ではこの四霊に中央として聖人を加え、五霊と称している。また四霊は四瑞とも称される。四瑞とは聖人が出現する前兆、すなわち瑞祥として現れると考えられていた4種の神獣を指し、孔子が誕生した際には、麒麟が出現したとされている。

 私は、空想上の動物を神獣として信仰する古代中国の思想に関心があり、その中でも龍は四神、四霊ともに含まれており、それのみならず空想上の動物として唯一、十二支信仰のなかに数えられていることに興味を覚えた。そこで、世界各地に分布する龍伝説のなかでもインドのナーガとヨーロッパのドラゴンを。中国ではどのように龍が成立し、信仰されているのか。そこから導き出されるであろう中国の古代思想、自然観について考察を試みたいと思う。
 

第一章 世界各地に分布する龍

 第一章では、前述した通り、中国の龍に類似する代表的なものとして西洋のドラゴン及びインドのナーガを取り上げようと思う。三者ともそれぞれ想像上の動物であり、蛇に似た形態を持つという特徴がみられる。そこで中国の古代思想、自然観を考察する上で、ドラゴン、ナーガがそれぞれどのように信仰されてきたのか、相違点を比較してみたい。

(一) 悪の化身 西洋のドラゴン
 序章で前述したように、龍は古代中国において四神・四霊などの一つに数え挙げられ、神獣や瑞獣とみなされてきた。また中国では、龍は天子を意味するものであり、天子に関する事柄に用いられ、さらには英雄や豪傑をたとえるものでもあり、特に優れていることを指している。ところがヨーロッパにおいては、伝説上の怪獣・ドラゴンは中国の龍に近い形態を持つ動物であるにもかかわらず龍とは異なる立場に位置し、強い力・暗黒・暴力を象徴するものとされている。ヨーロッパで描かれる典型的なドラゴンは、頭に角を持ち、胴は緑や黒っぽい色の鱗におおわれた蛇、あるいはトカゲのような爬虫類のもので、西洋における龍の名「ドラゴン」はギリシア語の「ドラコーン」を由来とし、「ドラコーン」とはすなわち蛇を意味している。獅子の前脚と鷲の後ろ足、サソリの尾などを持つものとして描かれており、また特徴として、コウモリのような翼を有している。この翼を用いて天空を飛翔し、口から火と煙を吐くとされている。また太古の昔、人類登場以前に存在していた恐竜に似た姿をしてもいる。このようにドラゴンはいくつかの動物が組み合わされた形態を持っていた。

 強い力・悪を象徴する西洋の龍=ドラゴンは、神話や物語、伝説の中では神々と対立する存在として登場する。その多くが神々の敵として悪魔視されており、その姿を変えることなく人間を襲うドラゴンは、聖人・英雄に悉く退治されてしまうのである。ギリシア神話の中ではヘラクレス、ゼウス、アポロンをはじめとする多くの神々・英雄たちによるドラゴン退治の話が語られている。特にキリスト教では、ドラゴンは秩序を乱す悪(=異教徒)として邪悪、醜悪なものと見なされていた。『新約聖書』ヨハネの黙示録には、巨大な龍または年を経た蛇が天上で天使ミカエル等と戦った末に敗れ、全人類を惑わす者、悪魔・サタンと呼ばれ、地上に投げ落とされ、地下深くに閉じこめられたと記されている。この中に登場する龍は、火のように赤い大きな龍で、七つの頭、七つの冠に十本の角を持ち、一度に天の星の三分の一をなぎ払ってしまうような尾を有する強大な怪物であった。聖書においてのドラゴンは、何か実在の生き物を表わす言葉として使用されているのではなく、むしろ邪悪・悪魔といったイメージの象徴的な意味を表わすものとして描かれている。その他、イタリア、スペイン、ドイツ、北欧などヨーロッパ各地の至るところに神々・英雄によるドラゴン退治の物語が残っているのみならず、数多くの絵画や彫刻などにもモチーフとして用いられてきた。

 ヨーロッパより以前、古代オリエント文明においても龍退治の話が存在している。龍退治は主に天地創造において語られているが、バビロニアの叙事詩『エヌマ・エリシュ』の中においては、英雄マルドゥークが龍とされるティアマトを殺し、天と地を創造したと記している。さらにティアマトが大蛇、巨大な龍などの様々な怪物を産み出したとも書いている。後のキリスト教に影響を与えたペルシャのゾロアスター教の経典『アヴェスタ』には、三頭に六つの眼と三つの口を有し、千の超能力を持つ、邪悪な龍、アジ・ダハーカが登場する。ゾロアスター教は善神と悪神との対立を説いており、善神の勝利を信ずる。アジ・ダハーカは終末における善と悪の戦いで、神の敵対者であるアンラ・マンユの配下として、ともに最後まで善に抵抗する悪として登場している。さらに『アヴェスタ』においても龍を退治する英雄が、ペルシャの英雄叙事詩『シャー・ナーメ』でも勇者ロスタムが荒野に棲む龍と戦う話が書かれている。神々は強い力の象徴とされるドラゴンを退治することによって、自らの権力、力の強さを誇示することに利用したのである。また龍であるとは断言できないが、エジプト神話においては、天の支配者・太陽神ラーとその協力者である天候神セトによって、淵ヌンに住む冥界の大蛇で暗黒の象徴とされるアポピスが征服される話が語られている。

 ドラゴンは海や川の水中を始めとし、池や泉にまで至る水際や地中、洞窟などを棲み家とする水棲の動物とされ、「水」に関連づけられることがあるが雨を降らすことはできず、神々が自らの能力を示威するかのように、ドラゴン退治を行った結果、大地に恵みの雨をもたらすことができるのだと考えられていた。その上、稲妻や大雨による洪水などの災害は龍がもたらすものと考えられていたため、嵐・天候を司る神が、最強とされる巨大な龍・イルルヤンカシュを退治する話がヒッタイト10に残っており、その話をモチーフにしたものが石灰岩に刻まれている。

 悪の象徴と否定的な存在としてみなされる一方で、古代ローマでは龍の描かれた軍旗が用いられていた。強い力を象徴する龍を軍旗に用いることは広い地域で見られるもので、東はエジプト、西ではケルト族11において特に盛んに使われていた。船に龍頭をかたどったものや、イギリスでは、ワイヴァーンと称される二本の足と翼を持ったドラゴンが霊力を持つ聖なる動物として扱われており、旗に用いられただけでなく、現在でもロンドン市の紋章にワイヴァーンが使用されており、イギリス王室の紋章にも見られる。その他柱、鉄道会社などの紋章として彫られたワイヴァーンを至るところで見ることができる。ドラゴンと似た形態を有してはいるが、性格は全く異なるものである。さらに古代イランにおいては、尾をくわえ輪になったウロボロス型の龍が、永遠を象徴するもの、また墓の守護者として墓石に使用されていた。

 またドラゴンは中世ヨーロッパで行われていた錬金術において、水銀と結びつく、神聖な第一物質とみなされ、「錬金術師たちが獅子、鷲、鴉(または一角獣)と併せてドラゴンを四性の一とした。」12とあり、ドラゴンはサラマンダー(火蜥蜴)とともに四元素13のうち火を象徴するものとされている。以上のように、肯定的な象徴として捉えられていたドラゴンの例がいくつか残ってはいるが、およそ西洋においてのドラゴンは邪悪な悪の化身とみなされ、神々・英雄によって退治される対象者であるという思想が主流である。
 

(二) 善悪二面性を併せ持つ インドのナーガ(龍神)
 インドのナーガは神の協力者である。ナーガは龍神または蛇神、龍蛇ともされている。ナーガは大蛇を神格化したもので、半蛇半神の姿で、時に多頭で現され、聖獣とされる。インドに棲息する毒蛇コブラの神であり、四肢はなく、角と髭いずれも有しておらず、合成獣である龍やドラゴンと違って、動物との混成はみられない。ナーガは仏教において重要な役割を持つ。ナーガは仏法の守護神であるとともに、雨を恵む水の神でもあり、時に雲を起こし、雨を降らせて五穀豊作をもたらす。竜宮に住み、神通力を持ち、変幻自在で、人間の姿に変わることも可能とする。ナーガとは古代インドの文章語、サンスクリット語で、蛇を指す。しかし、仏典が中国に持ち込まれ漢語に訳された際に「龍」、ナーガ・ラージャは「龍王」と訳され、ナーガが中国における龍と同一視されるに至った。

 その一方でインドにはヴリトラと呼ばれる悪龍が存在し、人々に危害を及ぼし、人畜五穀に大きな災禍を加えるものとして恐れられていた。仏教以前の古代インドでは、当時インドを支配していたバラモン族を中心とするアーリア人14によって、多神教であるバラモン教が信仰されていた。バラモン教はヒンズー教の前身とされている。バラモン教の経典の一つ、『リグ・ヴェーダ』にヴリトラ龍とインドラ神との戦いが述べられている。その中でヴリトラ龍はアヒと呼ばれており、アヒとはすなわち蛇を指し、アヒは世界の始まりと同時にその身体に全世界の水を巻き付かせ、流れを止めてしまった。そのアヒを稲妻によって殺したインドラ神が水を穿ち、大地に雨を降らせたのである。アヒは水の神であったにもかかわらず、それ自体が信仰されることはなく、ヨーロッパにおけるドラゴン退治を行った神々・英雄と同様に、アーリア人の主神であった武勇の神・インドラが雨を恵むのであり、人々はインドラ神に雨を祈願し、信仰の対象としていた。後にインドラ神は仏教にも取り入れられ、梵天15と並ぶ仏教の護法神・帝釈天となる。

 邪神とみなされた龍であったが、アーリア人の侵入以前にはインドの原住民によって樹木、リンガ(性器)崇拝などと併せて蛇神崇拝が行われていた。その後インドに侵入してきた異民族は蛇神を龍神信仰として取り入れ、龍王はアイラーヴァタまたはマニバドラなどと称され、龍神は尊神として信仰されるに至る。また西北インドを征服したクシャーナ族16においても民間信仰から取り入れられた龍神は崇拝の対象とされていた。蛇神崇拝は後の仏教、主に西インドで広く信仰されているジャイナ教17の民間信仰に大きな影響を与えている。

 インドの民族宗教であるヒンズー教は多神教であり、バラモン教から多くを受け継ぐとともに、仏教や民間信仰から多くの影響を受けている。バラモン教において、さして高い地位に位置していなかったシヴァ(ルドラ)神、ヴィシュヌ神がヒンズー教では最高位の主神として迎え入れられた。シヴァ神崇拝は蛇神、特にリンガ崇拝をその中に取り入れている。さらにインド神話には、シヴァに従わない修験者によって猛毒のコブラ蛇を投げつけられたが、シヴァはそれを恐れもせずに身体を装飾するかのように巻き付け、修験者から崇められたと語られている。シヴァ神は大自在天として仏教の中に姿を見せている。

 一方ヴィシュヌ神は、七つや五つまたは九つといった頭を持つアナンタもしくはシェーシャなどと称される多頭の蛇を使者のようなものとし、モンスーンの期間中には長円形にとぐろを巻いたアナンタの上に眠り続け、雨を降らせる。その後、ヴィシュヌ神はアナンタに座し、その頭上には多頭の蛇がヴィシュヌ神を守護するかのように首をもたげる。この姿に似たものは仏教の中にも見られ、アナンタはアナンタ竜王(難陀竜王)と名を変え、仏陀の守護神として登場する。

 さらにヴィシュヌ神、アナンタと切り離せないものとして、神鳥ガルーダが挙げられる。ヴィシュヌ神は横たわり、座す時にはアナンタを用いるが、移動を行う時にはガルーダの背に乗って天空を飛翔するとされ、ガルーダも後に迦楼羅として仏教に取り入れられている。ガルーダは鷹のような鋭い爪と嘴、大きな翼と尾を有し、悪をくじく戦いの神と信仰され、ナーガの天敵であり、蛇を喰らうといわれる。ガルーダとナーガはともにヒンズー教の中で聖獣とみなされており、一対となって正と悪、天界と冥界、東と西、男性と女性をそれぞれ象徴している。ヒンズー教の美術品として、ナーガを背にしたガルーダ像や多頭のナーガにまたがったガルーダ像が東南アジア、主にインドネシア、アンコール・ワットに残されている。

 聖獣としての龍のみならず、『リグ・ヴェーダ』のヴリトラ龍とインドラ神の戦いと同様に、ヒンズー教においても毒龍カーリヤとクリシュナ神の戦いの物語が存在している。カーリヤ龍は蛇の王とされ、ガンジス川または海に棲み、五つの頭と毒気を持ち、五つの口から炎とともに吐き出す。クリシュナ神はヴィシュヌ神の化身のひとつであり、ヒンズー教の二大叙事詩のひとつ『マハーバーラタ』に牧童として登場する。同じく仏教の中にも悪龍が登場する。仏法に従わず、雨を呼び起こして五穀に大きな災害をもたらすとされる龍王が存在しているのである。

 ナーガ信仰はインドのみならず、東南アジアを中心とした地域にその姿をみることができる。イスラム教の伝播によりヒンズー教の衰退を余儀なくされた東南アジアでは、ナーガやガルーダをモチーフにした美術品がインドネシアやカンボジアのアンコール・ワットなどの遺跡に残されているように、以前はヒンズー教徒がその多くを占め、それとともに仏教もが取り入れられ、それぞれ独自の文化が息づいていた。またネパールにおいてもナーガ信仰が行われており、ヒンズー教や仏教からの影響を多く受けている。首都カトマンズはナーガが住まう地といわれ、ナーガをカトマンズ盆地の守護神として祀っている。ネパールはインドからの移住者によって支配され、その王朝が栄えた。当時の王宮跡や寺院にはモチーフとなったナーガが多く刻まれており、今日でも五穀に恵みの雨をもたらす水の神として信仰の対象となっている。さらにラオスでもナーガが信仰され、やはり、昔栄えた王宮や寺院などにナーガを刻んだものが見受けられる。ナーガは河や海、水源の支配者であり、雨を自由に操る能力を有すると考えられ、今日でもラオス、タイの龍船祭を始めとして、ネパールなど各地で降雨を祈願する祭りが行われている。

 各地でナーガを対象とする雨乞いが行われているように、ナーガ信仰は善の性質をより多く持つ。インドに棲息する猛毒コブラは人々に死をもたらす動物として恐れられていたが、古代人はそれを崇めることで危険を遠ざけられると考えていた。インドの原住民18によって行われていた蛇神崇拝などの民間信仰は、徐々に異民族の中に取り入れられていったが、当初、侵入者であるアーリア人にとって敵対する原住民の信仰は邪悪なものとして扱われていた。そのため、悪としての性質を持つ龍も神話や伝説とともに生き続け、ナーガが善悪二面性を有するに至ったのだろう。
 

第二章 中国の神獣・龍

 第二章では、中国において龍がどのように捉えられ、信仰されてきたのか。第一章で西洋の龍、アジアの蛇について取り上げたと同様に、中国の龍の形態、性質、自然との結びつきを中心に考察していきたい。

(一) 皇帝のシンボル
 すでに序章で述べたことだが、中国における龍は四霊、四神思想を始めとするように、聖獣、守護神などとみなされ、信仰対象として親しまれている。中国の聖なる神獣・龍、西洋の邪悪なる怪獣・ドラゴンといった通り、対照的な性質であることを両者の相違点における特徴とする。龍とドラゴン、全く異なる性格を有しているにもかかわらず、一般的に西洋のドラゴンは龍と訳され、同一の動物として認識されている。このことからも推測できるように、両者とも似通った形態を有している。まずここで混乱を避けるためにも、この章では西洋の龍を「ドラゴン」、中国のものを「龍」と呼ぶことに統一する。ドラゴンと同様に中国の龍もいくつかの動物を組み合わせた複合動物である。鋭い爪のついた四本の足を持つ、鱗でおおわれた蛇のような胴体を基本とし、頭には二本の角と髭をそなえている。龍の形態に関して、「九似説」と称される鹿の角やみずち19の腹、鬼または兎の眼、虎の掌など、九つの動物のある部分を併せ持つともいわれている20。当然のことながら神獣・龍も天を自由に飛翔する能力を有する。しかし、その多くの龍は胴体に翼をつけていることはない。翼を持つ龍は応龍と称され、分類される。さらに空を飛ぶ龍を飛龍ともいう。龍は飛翔できるだけではなく、水中深くに潜り、さらには自由自在に姿を変えることができるという。複数の動物を合成し、多くの能力を持ち、吉祥とされ、人々の様々な願望を表した姿をしているのである。さきに序章で述べた『家語』においてはあらゆる生きものを虫と称し、鳳・麟・亀・龍・人を五霊と定めた上で、それぞれに中央を含めた五方位を配して諸虫の首としており、その中でも龍は鱗虫の長であると記している21。鱗虫とは魚類のことである。また、『淮南子』では龍をあらゆる生き物の祖とし、それぞれの祖を羽虫は飛龍、毛虫は応龍、鱗虫はみずちの意も持つ咬龍、介虫は先龍であると記載している。羽虫は鳥類、毛虫は獣、介虫はかたい外皮をもった動物を指す。

 龍は強い力を象徴しており、ドラゴン、ナーガ三者ともに共通していることだが、龍は神の配下である。中国の古代神話、伝説には禹の行った治水についての話が語られている。禹の父は鯀といい、父子は帝であった堯と舜に仕えていたとされている。死んだ後三年を経ても鯀の死体は朽ちることなく、その腹の中から様々な神力を身につけ、龍となって禹が誕生したと伝えられている。黄河などの大河を抱える中国にとって、河の氾濫は生活を脅かす大問題であり、政を行う上で治水は重要なことで、そのためか、禹が治水を成功させたことにより舜は帝の位を譲ったのである。ここで中国初の王朝とされる夏王朝が幕を開ける。禹が行った治水には、その助けとして応龍や一群の大龍小龍が登場し、また龍は禹一族のトーテム22とされている。

 さらに中国神話において伏羲・女  という二人の神が天地を創造したとされるが、この神々の上半身は人、下半身は蛇の胴体を持つという。古代人にとって龍は鳳とともに重要な地位に位置していた。同じことはその後、漢代以降の皇帝にもみられるようになる。天子の顔を例えて龍顔、龍犀と称し、龍母という皇太后の尊称、天子の即位を龍飛というように、中国では龍は専ら皇帝のシンボルとされている。特にその中でも二つの角と五つの爪を持つ龍は皇帝を象徴するものとして神聖視されており、民間で用いることを禁じ、龍袍ともいわれるように皇帝の衣服や紫禁城の至るところ、さらには殿内に残されている皇帝の所有物とされる様々なものに二本角と五本爪の龍が使用されていた。龍は皇帝自身そのものでもあり、皇帝もしくは王朝の守護神でもある。第二章で、仏典に記載されたナーガが中国に持ち込まれた際に、龍と訳されたと述べたが、ナーガが仏教の守護神とみなされているように、中国でも龍が似た性格を持ち、その上ナーガ、龍の両者が大蛇に似た形態をしているために龍と同一の聖獣として認識されたと考えられる。

 日本においてもよく使用されているが、「逆鱗に触れる」「画龍点睛」「登龍門」などといったように龍の字のついた言葉がたくさん存在している。上に挙げた三つは中国で生まれた言葉である。「逆鱗に触れる」は中国の故事によるもので、龍の喉の下に逆さに生えた鱗が一枚だけあり、もし人がこれに触れると、龍は必ずその人を殺したということから、君主や目上の人の激しい怒りをかう意を持つ。「画龍点睛」は物事を完成させるための大切な一点の意味だが、やはり中国の絵の名手が描いた龍に最後に睛(ひとみ)を描き入れると、たちまち龍が天に昇ってしまったという故事から、「登龍門」は立身出世のための関門の意であり、黄河の上流にある龍門を登ることに成功した鯉が龍になったという故事によるものである。このように、中国には龍に関する説話や物語などが数多く言い伝えられている。

 聖なる獣・龍ではあるが、中国においても龍退治の物語が存在している。『淮南子』には、空に穴が開き、天地のバランスが崩れてしまったときに、女  が五色の石を練り上げて作ったものを用いて空を修繕した。それとともに大雨を降らせていた黒龍を殺し、大洪水を止め、冀州を救ったと記されている。民話には黒い龍が村の谷川の水をすべて飲み干し、涸らしてしまったためにその龍は殺され、岩に姿を変えたという。また中国には四海や河、湖などを守護するとともに暴れ者として河を氾濫させるといわれる龍王が存在し、その龍を退治する英雄が登場するのである。とはいえ、その多くの龍は神の配下や吉兆を示す神聖なものであり、さらには長寿、円満など人々の願いを象徴した、信仰の対象としてみなされているのである。

 (二) 龍の信仰
 第二項では、龍が実際にどのように信仰されているのかを見ていきたい。

 龍もドラゴン同様、水中や海、河川、湖などを棲処とする。ただ物語やファンタジーに登場するドラゴンは、その多くが暗いイメージのまとわりつく洞窟を棲処とするが、龍にはあまりみられない。水棲の動物であるためか、龍も「水」と結びつけられる。西洋ではドラゴン退治を行った神々が雨を降らせる存在であるのに対して、中国では龍が雲を起こし、恵みの雨をもたらす神であり、雨乞いの対象とされる。龍は水のシンボルともいわれ、人々のみならず総ての生き物にとって死活問題である海や河川の支配者として水や雨を自在に操り雨を呼び起こし、さらには洪水の原因となると考えられている。そのため龍を敬い、崇めるのである。仏教では龍王を祀る王廟をつくり供物を供え、ヒンズー教や密教にも雨乞いが行われているが、中国においても古くから農民によって龍の踊りや呪文を唱えることで雨を祈願したという。乾いた土に水をかけその泥で龍型をつくり、その土龍に降雨を祈り、唐の玄宗皇帝は大干魃時に、龍だけを描いている絵描きに龍を描かせ雨乞いをしたと伝えられる。

 また中国各地で龍に関する行事が行われ、一年を通してみることができる。旧暦一月龍灯、旧暦二月龍抬頭、旧暦五月分龍節、雲南省では旧暦五月に龍王を祭って供物を捧げ、旧暦七月には龍母の昇天を、旧暦の八月には龍公の昇天を見送る。ラオス、タイ同様に、中国の大河でも夏の始まる頃に龍頭祭が催される。青海省の省都西寧は、かつてのシルクロード南ルートであり、チベット族やモンゴル族、回族の人々が多く生活している。この地には黄河という大河が流れ、青海湖がある。ここにおいても旧暦の七月に龍に関する祭祀、「海祭り」が行われている。ラマ僧によって楽が催され、海に捧げる供物が用意され、「赤、青、白、黄色の「龍達」とよばれる紙片もこの炎に向かってなげいれるや、炎のいきおいで空高く舞い上がる。うまく舞い上がると五穀豊穣や家畜の繁栄などが約束される兆しとして喜ばれる」23。その後「法舞」という舞が行われる。虎や龍、牛などの動物をかたどった面をつけたラマ僧によって舞が舞われ、護法神としての役割を持つ。チベット族でも「龍舞祭」が行われる。ここでも火が燃え、そこに龍達(ロンダー)や供物の五穀が人々の手によって投げ入れられる。「火炎の気流にのって空高く舞い上がる龍達は、龍が天に昇るようにさえ見える」24という。さらに龍舞、「大きな円形を描き龍がとぐろを巻いているように龍の舞」25が舞われ、龍女を意味する女体像が登場する。また、湖南省や貴州省に暮らすミャオ族では龍王が信仰されている。秋の稲収穫後または春の耕し前に、龍を呼び出す儀式を行う。そこには伝統的な色と方位との関係がみられる東の青龍、南の赤龍、西の白龍、北の黒龍、中央の黄龍が登場するのである。黄色は中国にとって特別な意を持つ色であり、神話に語られる禹の姿は龍であったと先に触れたが、その龍は黄龍であった。

 龍は長寿または不死と結びつき、天高く飛翔することから天地を行き来することができ、天上への乗り物と考えられた。龍は春分には地上から天に昇っていき、秋分には下りてきて淵に入るという。このことは空に瞬く星と関係しているのだろう。序章で記述した戦国時代前期の曾候乙墓から出土した漆箱の蓋には、北斗七星にあたる星名とともに二十八宿26がみられ、東方と西方に青龍七宿と白虎七宿が対として表わされ、その後南方と北方に朱雀七宿と玄武七宿がそれぞれ加えられたが、四方にわけた天に四神をあてはめる思想の原型がすでにあったことを示している。文献に関しては漢代に司馬遷によって書かれた『史記』律書には、四方に配された二十八宿についての記載がある。この東方の青龍にあたる七宿は西洋においてはサソリが連想された。その中でも一番明るい光を放ち、サソリの心臓とされるアンタレスは中国では心(なかご)とも大火あるいは火とも称されているが、特に春分のころに空に輝き、秋分のころには姿を見せなくなった故に、淵に入るとされたのではないだろうか。すなわちこの季節は農業にとって作物を生育させるために必要不可欠な恵みの雨がもたらされるために、龍と雨乞いとが関連づけられたのだろう。

 「十二支は殷代にさかのぼれる」27という。その中でも唯一十二支に登場する、想像上の動物である、辰。「辰」は北極星や北斗七星を指し、また東方青龍七宿のひとつである房(そい)星のことでもあり、青龍の本体のことを指している。このことからも四神思想と星宿が密接に関わりを持っていることが推測できる。「四神」という思想は曾候乙墓の漆箱からもみてとれるように、その原型はおよそ戦国時代に成立していた。様々な造形に表現され、現存の動物を土台にしてイメージした「四神」を象徴する神獣として青龍、白虎、朱雀、玄武が配されるのは、漢代の中期、武帝以降のことである。武帝は神秘主義的性格の強い儒教を国教とし、陰陽五行説に基づく四神図像が成立した。それ以前の漢代には四神ではなく、三神の例が多くある。「戦国末から前漢初の図像資料のなかには、亀と蛇の交尾形である玄武が描かれていないものも多く、玄武が最後に四神の仲間入りしたことだけは明らかである」28という。四神は天体で、もともと天の四方に配された星宿の名であり、それが徐々に下へとさがり、地の四方の守り神となった。中国人は中央を加えた五方を基本として考えており、四神思想は五行思想29に基づいている。また方格規矩四神鏡からは、四角い大地と円い天がその上にあるとする「天四地方」が見てとられ、大地の四方に柱=四極が天を支えているという思想が反映されている。
 

 第三章 龍の起源説

 第三章では、古代中国人がどのような思想に基づき、どのように自然と接していたのか結論を導くために、龍がどういった経緯で成立したのか、明確な答えが得られる問題ではないと思われるが、様々な起源説が存在する中でも、特に蛇、ワニ、恐竜など爬虫類を中心とする動物を起源とするもの、また河や雷など自然現象を起源とする説を取り上げる。

 (一) 龍と蛇
 現存する動物の中で、龍に一番近い形態を持つとされるものは蛇であろう。ドラゴンについて述べた項にあるように、西洋の龍・ドラゴンは一般的に緑や黒っぽい色の鱗におおわれた蛇、もしくは蜥蜴のような爬虫類の胴体を持つとされる。『新約聖書』に登場するドラゴンは年を経た蛇として書かれ、エジプト神話のアポピスは大蛇で蛇の王であった。また「ドラゴン」の由来とされる「ドラコーン」はギリシア語で蛇を意味する言葉であるし、その多くは蛇が変化したものとして表わされている。さらにエジプトで発掘されたツタンカーメン王の黄金のマスクには蛇が装飾されており、「エジプトの象徴のハゲワシとコブラ」30とあるように蛇は信仰の対象でもあった。わたしは第一章でエジプトを地理的に捉えた上で西洋のものとして扱ったが、エジプトにはウラエウスという蛇形の聖獣がおり、「エジプトではウラエウスが中国の龍とおなじように王権のシンボルであった」31とあるように毒蛇コブラを神格化し、信仰の対象としていた。善のウラエウスと悪のアポピス、それぞれの性質を持つ蛇がエジプトには存在し、そのままの姿のコブラを信仰する文化は西洋には見られないもので、ドラゴンというよりも、善悪二面性を共有するインドのナーガに共通点が多く見られる。同じくナーガも毒蛇コブラを神格化したものであり、インドを始め東南アジアに広く分布するナーガ信仰は、インドの原住民によって民間信仰として行われていた蛇神信仰が徐々に龍神信仰として形を変え、取り入れられた結果による。ヒンズー教の神、シヴァ神が身体に巻き付けたもの、ヴィシュヌ神が従えているものは蛇であり、ヒンズー教に登場する毒龍カーリヤも蛇の王であった。

 ドラゴン、ナーガと同様に中国の龍も基本体は蛇の胴体に似た、鱗におおわれたものとして描かれている。洪水になると、河を生きたまま流れる姿がみられたため、蛇が洪水を起こすとも考えられていた。龍の形態に関して九似説に蛇の項とみずちの腹とあるように、みずちは蛇に似た形態を持つ想像上の動物であり、龍はその身体に蛇の部位を多く持つ。さらに中国において天地の創造神である伏羲・女カの下半身は蛇であった。

 蛇に関する信仰は世界各地で見られるもので、日本も例外ではない。中国の四神思想や龍信仰から多くの影響を受け、それらを吸収するとともに他地域と同様に独自の文化をも誕生させている。日本神話においても蛇退治の話が存在する。素佐之男命(すさのおのみこと)と八岐大蛇(やまたのおろち)との一戦である。大蛇は年を経て巨大化した蛇で、ここに登場する大蛇は、身体に四肢を持たず、蛇形を保ったまま頭のみが龍と化したものとして描かれる。「この神話は、異文化の部族同士の争いを神格化したもので、大蛇の尾から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を得たということは、一方を鉄文化を持った部族とする説もある」32という。この神話は『リグ・ヴェータ』に書かれた、インドの侵略者アーリア人によるインドラ神と原住民による蛇神崇拝がアヒとして描かれ、対立した物語に類似点があるように思われる。

 以上に示した通り龍の起源は蛇にあり、龍は正当さを主張するために用いられ、「龍は政治化された蛇である」33とする説がある一方で、「蛇にあると思っていた龍の起源はまったくの誤りであった。龍は馬や猪あるいは鹿などのトーテムを中心として形成されたものであった。蛇が龍の中に取り入れられた部分もあるが、蛇がその中心的母体となって龍になったわけではない」34といった説もある。ナーガの起源は蛇であるのは明らかである。龍の起源をドラゴン、ナーガの両者と同一のものと見なすのであれば、龍の起源は蛇であろう。しかし、ナーガは中国に伝播するにあたって、龍と類似する性質を有していたことも関係して同一のものと認識されただけであって、中国の龍とナーガは異なるものである。アジアにおける龍神崇拝は蛇神崇拝を基としたものであるが、仏法がもたらされるより以前にすでに中国には龍が存在していた。とする一方、蛇そのままの形態を持つナーガが中国において龍と同一視されたのは、龍もナーガ同様、蛇を起源とする動物だからだろうか。また形態こそ類似するものではあるが、善と悪、全く異なった性質を持つ龍とドラゴンは同一のものではない。それぞれ独自の起源を持つのだろうか。

 (二) 恐龍とワニ
 次に挙げるのは、主に中生代に繁栄した大型爬虫類、恐龍を起源とする説である。「近代になって恐竜の化石の発見が多くなるにつれて判明したことは、この巨大な爬虫類が竜の基本形態に似ているし、その怪異な姿は西洋人の想像した竜とよく似ている」35ことによる説で、その巨大な生物は様々な能力を持つと考えられ、信仰されるに至った。「たかだか今より二千年か三千年くらい前までは、たとえ稀であっても、恐龍が出没しなかったとは言い切れないはずだ。五千年前や、一万年前には、もっとひんぱんに出現していたとしたなら、遅く登場した人類は目撃しえたはずで、人類の遺伝子へきっちりその恐怖とともにインプットされていても、おかしくはない」36という。恐龍を起源とする説においても信仰理由はそのものに対する恐れであり、畏怖によって神格化された。インドで毒蛇コブラがその危険さゆえに崇められた理由と同様であると言える。龍が恐龍であるならば、序章で十二支の中で辰は唯一の想像上の動物であると述べたが、すでに絶滅し、実在しない生物ではあるといえ、「かつては確実に存在していた故に、十二支の中に数えられ」37たのである。

 同じく爬虫類のワニを龍の起源とした説がある。絶滅した恐龍に一番近い形態を持つ動物はワニであろう。特にドラゴンは恐竜に似た形態をしており、四肢を持つといった特徴が共通点としてみてとれる。とするならば、ドラゴンはワニを起源としていると言うことができる。古代エジプトでは蛇を始めとする様々な動物が神聖なものとして扱われており、ワニもその中のひとつであった。そのエジプト文明を栄えさせたナイル川には凶暴なナイルワニが棲息している。インドやエジプトのコブラと同様に、「ナイルではワニの存在が恐怖の具現者として絶大であったために、そのまま神格化したのである」38中国にも揚子江流域あたりにワニが棲息していたとされ、龍の起源となったとも言われている。『ワニと龍』の中では、「蛟」39はすなわちワニを指し、後漢時代になり気候の寒冷化が進む以前には揚子江にも棲息していたが、姿を消したために、龍へと変化したのだと述べている。このような理由を挙げ、「ワニが「龍」であって十二支の中の動物だ」40とも言っている。とすると、龍の起源が恐竜であれ、ワニであれ、全くの想像上の動物だとは言い切ることができない。実在していたからこそ、十二支のひとつに数えあげられたのだと言うことができる。

 以上のように生物を起源とするものをいくつか取り上げてみたが、その他にも同じ爬虫類では蜥蜴、ほ乳類では馬や牛、鹿、猪、または魚類など様々な動物を起源とする説が数多くある。わたしは龍の起源は、次に取り上げる自然現象から生まれたのではないか、という説が有力であるように思われる。いくつかの動物を組み合わせた形態を持つ龍は、人々の願望、あこがれの象徴であり、様々な能力を付与するためにも複合されるに至ったのだろう。

 (三) 自然現象
 自然現象を起源とする説で、まず取り上げるものはその起源を河とする説であり、「中国では、蛇行する長大な河が、竜、龍のイメージを」41持ったことから龍思想が生まれたという。ナイル川がエジプト文明を育んだように、中国においても中国北方を流れる広大な黄河が古代文明を築いた。河は生活や農業、人類の営みと密接に関わりを持つ。洪水が起これば全てのものは水に流され失われてしまう。逆に河が枯渇してしまっても人間は生きていくことができない。自然は恵みをもたらすとともに、脅威でもあった。伝説の中で夏の始祖、禹が治水を行ったことから帝の地位についたように、古代の政治においては治水を成功させることが最重要課題であった。そのため、水・河の神を崇め、河が常に平穏であり、恵みをもたらしてくれることを願ったのだろう。

 大河は文明の繁栄において重要な役割を持ち、黄河文明よりも早くに誕生した、人類初とされるシュメール人が築いた古代メソポタミア文明もティグリス、ユーフラテス河と切り離して考えることはできない。やはりこの河も恵みを与えもし、氾濫も引き起こした。シュメールの印章42には龍退治をモチーフにしたとされる図が描かれている。その後この神話は第一章で記した、「南メソポタミアの覇者となったバビロニアに引きつがれ」43て、英雄マルドゥークと龍ティアマトとして登場している。

 次に龍の起源を雷とする、古代の人々は空に閃く稲妻から龍をイメージしたのであろうとする説である。気の遠くなるような時間を経た今日でも、自然のシステムが変化することはなく、稲妻、雷鳴と同時に雨がもたらされ、この現象は春分から秋分にかけて特に多くみられる。雷と雨は結び付いた自然現象であり雷すなわち龍が雨を呼ぶと考えられ、稲妻の形が龍の姿を連想させ、雷鳴は龍の吠える様子とも想像されたのではないか。また雷はときに嵐と伴い、河を氾濫させる原因でもあり、自然の脅威の力は恐怖でもあった。そのため、龍は人々に恵みをもたらすと同時に畏怖の念をも抱かせる神として崇められ、雨乞いの対象、雨・水の神となるに至った。さらに雷は神鳴りの意味も持っている。とすると、西洋のドラゴンは雷を起源とはしないのだろうか。ドラゴンは雨を降らす能力は持っておらず、そのドラゴンを退治した神々が雨をもたらすのである。バビロニアの英雄マルドゥークは雷と嵐を武器としていた。その一方、ヒッタイトでは稲妻や嵐は龍がもたらすものと考えられていた。雷が立ち去った後には、必ずといって良い程太陽が顔を覗かせる。ペルシャのゾロアスター教やエジプトでは水の神ではなく、太陽を神として信仰していた。

 雷と同様に、自然現象である龍巻を起源とする説では、「竜巻は雷雨にともなわれる場合が多いし、地表の地物を巻きあげたり、水面では魚類などを巻きあげて魚などの雨を降らせたりする」44ことによって龍が生まれたという。しかし、龍巻はめったに見られるものではない。また雷、龍巻と関連して、千変万化である雲を起源とする説がある。「地上の水蒸気が天上の雲を生み、雨または豪雨となって地上にもどる。この豪雨は巨大な土石流をひきおこし山野を疾駆する。雲はときに雷雲となって、稲妻を閃かせ雷鳴を轟かす。また雲は風をよび龍巻となって大地を移行する」45

 次に「竜の機能すなわち、竜の天に昇り、われわれの生活にもっとも関係の深い農業に必要な雨を降らす霊物として天然現象を竜の原型として考えられる」46とされる天上の星を起源とする説である。すでに第二章、龍の信仰で述べたが、四神は天の星としての守護者から地に下り、四方の守護者となった。春分から秋分にかけて姿を表わす一等星、アンタレスが古代中国では龍と連想され、農作物の生育において必要とされる雨が降雨する季節に出現する星でもあり、雨をもたらす神として雨乞いの儀式が行われるようになったという。また人々は天上世界にあこがれを抱いていた。龍は天上への乗り物とされ、不老長寿、不死延命を願う神仙思想と結びつけられた。すなわち天に輝く星々が天上へ導くもの、龍であった。しかし、「星座を竜に見立てるには、まずその前に竜の観念がなければならない」47とされ、空に輝く龍が雨・水の神となった理由としては認められるが、そこから龍が生み出されたとは言い切れず、「議論が逆である」48と考えられる。

 龍の飛翔や変幻自在といった能力は自然に由来するものであり、人間を超越した自然の力が人の想像力を掻き立たせ、龍を生み出した。あらゆる生き物にとって水は生きていく上で最も重要なもので、よって信仰の対象となり得たのだろう。ここに似た形態を持つ蛇などの動物が結び付き、さらに様々な動物の形態が組み合わされていき、その動物の特徴までもが取り込まれ、現在にみられる龍が誕生したのだろう。
 
 

第四章 結論

 世界各地至るところで「龍」に関する神話や伝説、物語などが数多く存在する。ドラゴン、ナーガ、龍、三者それぞれが起源を持ち、各地で似たような形態を有する動物が想像された。ナーガおよびエジプトの蛇信仰はコブラが神格化した姿であり、ドラゴン、龍の起源が蛇やワニを始めとする爬虫類のものであれ、河や雷の自然現象であれ、すべてに共通することは、崇拝されるに至った理由はそのものに対する恐怖と畏怖が背景に存在していることである。また強大な力を持つ動物であることも共通点であると言える。そのため、龍を退治することで西洋の神々・英雄は自らの力を示すことに利用し、中国においては皇帝を守護する者として、その存在を認められた。退治される対象であっても嵐や稲妻とともに洪水をひきおこす原因として、神獣であっても雨をもたらすものとして、水をシンボルする動物であり、水・雨と関連して考えられている。第三章で前述した通り、人類文明の繁栄において河は重要な役割を担い、文明の栄えた地には必要不可欠なものとして大河が流れている。四大文明と定義されるメソポタミア文明にはティグリス、ユーフラテス河が、エジプト文明にはナイル川が、インダス文明、黄河文明にもそれぞれ、その文明の名を持つ大河が横たわる。

 では、なぜドラゴンは邪悪と悪魔視され、龍は神獣として、全く異なった信仰が行われるに至ったのだろう。それは西洋世界を中心とする人々と古代中国人との自然に対する考えの違いが原因である。退治されるドラゴンはすなわち、人間が自然をも支配しようとした考えの表われであり、河を象徴するドラゴンは敵対者とみなされた。中国においても河の氾濫をひきおこす龍は恐れられてはいたが、その恐怖は畏敬の対象となり神として崇められたのである。古代中国人は、人間をはるかに超越した力を有する自然を征服しようとはせず、自然の法則に従い、自然とともに共存し生を営んできた。『老子』においては「自然の存在を総体的にとらえて、いわば自然の意味とか精神と言ってもよいような一種の自然界の理法を尊重している」49、「中国では、天は自然であると共に主宰者でもあって、そういうものとしてまた人と密接に関係しているという形で、長い歴史をつらぬいてきた」50、このような思想を生み出してきた中国では自然を象徴する龍が敵対者とみなされることはなかったのである。

 またドラゴンと龍の捉えられ方が異なるに至った理由には、古代においては生活そのものであった、それぞれの土地で行われてきた農業の状況が大きく関わっている。「東洋の灌漑水に依存する稲作・漁撈51地帯では、ドラゴンは神であり、そこでは人々は自然を畏敬し、異なるものと共生融合し、あらゆるものは再生と循環をくりかえすと考えた」52が、「これに対し、天水に依存するドラゴンを殺す麦作・牧畜地帯の西洋文明は、自然を支配し分析する近代科学を発展させ、人類に幸せをもたらした」53。しかし、人類が発展したことにより地球の自然は壊れ始め、今日では様々な環境問題を抱えている。自然を敬い、共生してきた中国古代の思想に、今こそ立ち返り、見つめ直すときがきている。