道教研究 ―『抱朴子』を中心とした功過思想の流れ―
 

98L1056G  佐藤 静香
はじめに

 中国には功過思想と呼ばれる考え方がある。それは大まかに言えば、天は人間の「行為」を逐一監視していて、善い行いには賞を、悪い行いには罰をその「報い」として与えるというものである。このような思想は古くから存在し、晋代に記された『抱朴子』という書物においてその基礎を完成させて以来、道教の倫理部門の中心となって、長い間中国人の心理面に大きく影響を与えてきた。本稿では、後世の倫理道徳の基礎ともいうべき『抱朴子』の功過思想がそれ以前どのような姿で存在し、どのように変化して『抱朴子』に至ったのかという流れをつかみ、そうすることで『抱朴子』における功過思想がどういう意味をもっていたのかについて考えていこうと思う。
 

第一章 『書経』にみられる功過思想

 功過思想はいつごろから存在するのか。そして、それは初めどのような思想であったのか。まずは、中国において最も古い古典のひとつとされる『書経』からみていくことにする。

惟天監下民、典厥義。降年、有永、有不永、非天夭民、民中絶命、民有不若徳、不聴罪。天既孚命、正厥徳、乃曰其如台。
天の神は地上のことを監視して、下の人々が正しいことを行うようにつかさどっておられる。それによって天が人々に寿命をあたえられるのに、長いものがあったり、永くないものがあったりしますのは、天が、人々を若死にさせたり、その命を途中でとめたりされるのではなく、人民の中に、徳に従わなかったり、その罪に服しなかったりするものがあるからです。天は人々に寿命をあたえられておりますものの、人々が、その徳を正しくしたならば、天もいったい寿命をどうされましょうや。[1]                   
 ここには、天は人間が徳に従うかどうかで彼らの寿命を増やしたり減らしたりすると考えられていたことが記されており、『書経』が成立した頃にはすでに功過思想が存在していたことが分かる。それでは『書経』と功過思想がどのように結びついていたのか、詳しくみてみたい。
『書経』に一貫した主張として、国家の興亡は「天命」の有無が原因であるという考え方をみることができる。まずはこの思想が具体的に述べられている部分を引用し、これをもとに功過思想とのつながりについて概説する。
今商王受、惟婦言是用、昏棄厥肆祀弗荅、昏棄厥遺王父母弟不迪。乃惟四方之多罪逋逃、是信是使、是以為大夫・卿士、俾暴虐于百姓、以姦宄于商邑。今予發、惟恭行天之罰。
今、殷王の受は、婦人のいうことばかりを用いて、その祭礼をないがしろにして、神に報いをせず。その残った伯父や同じ腹の弟たちを棄てて用いない。かえって国々の多くの罪を犯したものや亡命者をば尊んで長官とし、それらを信じて使い、しかもそれらを大夫や卿士として、百官に対してむごいしうちをし、そうして殷の国中にとりこみの悪事をやらせている。そこで今、予、発は天の紂王に下された罰を奉じて行うのである。[2]
 天は王となる人物に対して、国家を治めよという「天命」を与える。すなわち「天命」とは国家と王自身の生命の存続を保証するものであり、国家を治める権利であるとも言える。そして、彼が天に従ってよい政治を行えば、天は彼から「天命」を奪うことはなく国家は安定する。ところがそうでない場合、すなわち彼が天に従わず暴政をふるうような場合には、天は王から「天命」を奪い、新たに王となる人物にこれを与え先王を滅ぼして国を治めるよう命じる、というものである。つまり、天が王の行為の善悪を判断し、王と国家の存続を決定するのだから、この「天命」の思想はまさに『書経』における功過思想の姿であるといえるだろう。

 それでは、具体的にどのような「行為」に対して、どのような「報い」があると考えられていたのだろうか。

 王がすべき善い「行為」として、上述のふたつの例では徳に従うことや、政祭を正しく行うことなどが挙げられているが、これらがよくまとめられているものとして、洪範篇の「洪範九疇」がある。これは天が夏の聖王として名高い「禹」に与えた地上の常理が記されているもので、これに従って国を治めよという、支配者に対する天からのアドバイスと考えてよい。よって、ここに支配者が行うべき善行の具体的内容が記されていると考えられる。この中の「五事・八政・五紀・皇極・三徳・稽疑」にある王の使命に関する記述、および牧誓篇の例などのような本文にみられる実例をまとめると、自らの人格を高めること、国内を安定させる政治を行うこと、暦や星の動きに合った行事を行うこと、立派な法を立ててそれに対する賞罰を厳正にすること、天を尊び祭祀を正しく行うことであるとする。なお、王の悪い「行為」はこれらを怠ったり、これらに逆らったりすることだとされている。
 
 王の善行に対する「報い」にあたるのが天命、すなわち国家や王自身の生命の存続であるが、これらについての具体的内容を同じく洪範篇の記述をもとにまとめると、気候が安定し、穀物がよく実り、政務はよく明らかに治まり、天下は平安であることであるという。また同篇に、この時代の「五福」として長生き・富・安らかさ・善徳を修めること・天寿を全うすることを挙げている。ここでは国家の安定と自身の生命存続や権威などの個人的な願望は連結したものであったようだ。なお、王の悪行に対する「報い」は、これらと反対の現象が記されている。

 ここまでは天と王の関係を中心に述べてきたが、王以外の一般民衆は、ここにみられるような天命の思想とどのように関わっていたのだろうか。同じく「洪範九疇」によれば、王が定めた法は正しくまっすぐであるから、民衆はこれに忠実であれと説く。そして、そのように王法に忠実である者や善い徳を修めている者には王が五福を、王法に従わないものには刑罰を与えるべきであるとする。また次の例のように、民衆に善事を行わせることは、王が天命を受ける条件でもあった。 

若乘舟汝弗濟、 厥載。爾忱汝不屬、惟胥以沈。
(予と汝らのいまの関係は、ともに)舟に乗りながらわたり終えずに、その積荷を朽ち果てさせるようなものだ。汝らが沈むときは汝ら独りだけではなく、予もあいともに沈んでしまうであろう。[3]
 これは両者の関係を的確にとらえた表現である。人々を法に従わせることができなければ、王は天命を失い、国家も滅びる。このことは、民衆にとっても生命の終わりを意味する。つまり天に対して、王と民衆は連帯して善行を行う責任を負っているのである。これらのことから、民衆にとっては王に従うことが天に従うことであり、そうすることで彼ら自身の生命を含めた、社会全体の平安が保証されると考えられていたことが分かる。

 以上が功過思想に関する最も古い記述と思われる、『書経』の功過思想である。天命を得ることが国家安泰につながると考えた周王朝は、その目的を達成するため、民衆に天命の思想を説いて王朝への服従を要求した。一方民衆にとっても、天命の有無は自らの生命存続に関わる重大な問題だと考えられていたため、人々は王朝に従わざるを得なかったのである。このことは周王朝にとって民衆を統制するための格好の材料であったともいえるだろう。『書経』における功過思想は、国家存続と民衆統制という王朝側の目的のために民衆に説かれた、王朝主導の思想であったといえるだろう。
 

第二章 『墨子』にみられる功過思想
 
 諸子百家の時代になると、自由な発想から様々な思想が生まれるようになる。その中で『書経』にみられるような功過思想を、特によく受け継いでいると考えられるのが『墨子』の思想である。

天子為善、天能賞之、天子為暴、天能罰之。
天子が善行を為せば、天はこれを賞し、天子が暴行を為せば、天はこれを罰する。[4]                     
順天意者、兼相愛、交相利、必得賞。反天意者、別相惡、交相賊、必得罰。
天意に順う者は、ひろく人を愛し、互いに利益を与え、そして必ず天の賞を得るであろう。天の意にそむく者は、人を差別して憎み、互いにそこない、そして必ず天の罰を得るであろう。[5]
 これらの記述からも、『墨子』には明らかに功過思想が存在していることが分かるだろう。それでは『墨子』の思想と功過思想はどのように結びついているのだろうか。まずは『墨子』の思想の中心となっている「天」について、天志篇と非攻篇をもとに概説する。「昊天上帝」とも書かれている「天」は、上述のとおり世界のすべてを司っている存在である。人間の行為をすべて見抜いていて、行為に応じた禍福を与えるという、意志をもった人格神である。ここまでは『書経』に出てくる「天」の観念とほぼ違いがないだろう。しかし、『墨子』の「天」は人を創りだした生みの親であり、人を愛し、これが生き、富み、国が治まることを望んでいる。だから季節、気候、環境などを整えて、万物をひろく育て、人間に便宜を図っているという。このことは『墨子』に特徴的であり、またその功過思想にも大きく影響していると考えられる。次の記述は、この考え方と功過思想の結びつきをあらわしている。
然則天亦何欲何惡。天欲義而惡不義。然則率天下之百姓、以從事於義、則我乃為天下之所欲也。我為天之所欲、天亦為我所欲。然則我何欲何惡。我欲福祿而惡禍祟。若我不為天之所欲、而為天之所不欲、然則我率天下之百姓、以從事於禍祟中也。
天は何を欲し何を悪むのであろうか。天は義を欲して不義を悪むものである。それでは天下の人々を導いて義に力をつくせば、それで自分は天の欲することを為しているのである。自分が天の欲することを為せば、天もまた自分の欲することを為してくれるであろう。それでは自分は何を欲し何を悪むのであろうか。自分は福禄を欲して禍祟を悪む。もし自分が天の欲することを為さないで、天の欲しないことを為すならば、そうすれば自分は天下の人々を導いて禍祟のために力をつくしているのである。[6]           
 これら天志篇の記述をもとに『墨子』における功過思想をまとめると、天下に「義」があれば人間は生存し、富み、治まるのであり、天は人間がこのように幸福になることを望んでいるのだから、当然人々に対して「義」を欲するという。人は天の愛を前提とした存在である以上、天の欲する「義」を行う義務を負うことになる。人々が義務を果たせば天下は治まり、天は喜んで人々に賞を与え続ける。一方、義務を果たさなかった者には罰を与えるという。『墨子』において、功過思想はこのように組み込まれているのである。

 それでは、一般民衆はどう関わっていたのか。天志篇上には、庶民の場合、身分の上の者が下の者に賞罰を与え、天子の場合のみそれ以上の身分の者がいないから、天自らが行うとする記述がある。そしてその仕組みは天が天子に賞罰を行うのと全く同じであるという。しかし同篇中・下には、一人の罪なき人を殺した場合には天が不吉な罰を与えるという、民に対して天が直接関与する例も見られることから、実際には民衆にも功過思想が成り立つとされていたのだろう。

 次に、功過思想の対象となる具体的な「行為」と「報い」について分析していこうと思う。

 まずは「行為」であるが、上述の例にある善を為すことや天意に順うことなどは、「義」を為すことに含まれる。それでは「義」を為すとは、一体どういうことか。その詳細が記されている部分を引用する。

義正者何若。曰、大不攻小也、強不侮弱也、衆不賊寡也、詐不欺愚也、貴不傲賤也、富不驕貧也、壯不奪老也。
義に順って正す者は、どのようなことをするのであろうか。それは大なるものが小なるものを攻めず、強者が弱者をあなどらず、多数社が少数者をそこなわず、詐謀ある者が愚者を欺かず、貴い者が賎しい者におごらず、富者が貧者におごらず壮年者が老年者から奪い取らない。[8]
 墨家における「義」は特別な意味をもっている。天志篇中をまとめると「義」とは人を正し治めること、是非の道理を正しくすること、そして兼愛することだということができる。さらに天志篇上には、古代の聖王が天の賞を得たのは、上は天を尊び、中は鬼神につかえ、下は人を愛したからだとする記述もある。つまりここでの善い「行為」とは「義」を為すこと、すなわち天を敬い、上の者が下の者を愛して道徳的に治めよとの天意に従うことであると考えられる。なお、悪い「行為」については、全く逆の行為が記される。

 それではその「報い」にあたる天の賞とは何を指すのか。天志篇中に、古代の聖王が天の憎むところを避けたので、季節や天候が安定し、餓えることなく、病気や災害に見舞われることもなかったといったことが書かれている。また個人的なものとしては、天志篇中に富貴であること、明鬼篇下に寿命を与えられたことが若干記されている。ここには特に『墨子』に特徴的なものは見当たらず、『書経』を継承した部分が強いといえるだろう。なお、天の罰については全く逆の状態が記される。

 以上が『墨子』にみられる功過思想である。墨子は、人々が「義」を行うことによって世の中が良くなると考えた。そこで、人は「天の愛」を受けて生きていると説くことで、人々に「義」を行わせるための動機付けとしたと考えられる。一方民衆にとって、善い「行為」をすることは自らの運命と社会全体の安定を保証するものであり、また彼らが天の愛を得て生きていることに対して、当然支払うべき代償とされているものだった。『墨子』における功過思想は、理想社会実現のため民衆に善行を行わせることを目的に説かれたものであった。
 

第三章 『太平経』と初期道教教団における功過思想

一、『太平経』にみられる功過思想

 様々な思想家が生まれた諸子百家の時代が過ぎて漢代になると、状況は一転して儒教による思想統一が行われるようになる。そしてその後長くに渡って、中国は儒教中心の社会を構成していくことになるのであるが、最も古い道教経典のひとつとされている『太平経』もこの漢代に世に現れた。そしてそこには既に功過思想が存在した。それらはどのようなものであったのだろう。

天見善、使神随之、移其命籍、著長壽之曹、神遂為其功。[8]
悪能自悔、轉名在善曹中。善為悪、復移在悪曹。何有解怠。[9]
司命近在胸心、不離人遠。司人是非、有過即退、何有時失。輒減人年命。[10]   
 これらは『太平経』に功過思想が見られることをあらわす部分である。それではこれらを訳すとともに、『太平経』の功過思想の仕組みを概説していくことにする[11]。神は人間の行為を監視しており、人間は行為に基づいて「善曹」や「悪曹」などの寿命を扱う役所の帳簿に記載される。どの曹に入るかによって、寿命の長さが変化する。しかしこれは固定されたものではなく、悪人でも心から反省すれば名を善曹に転じることができ、善人でも悪事をすれば悪曹に移されてしまうという。ここには『書経』や『墨子』にみられなかった、善と悪を足し引きする功過相除の考え方がみられる。酒井忠夫氏によれば、漢代においては官吏の業績に対する評価も功過相除で行っていたというから[12]、それとも関係があるのかもしれない。また『太平経』の司命神は天だけでなく、人間の体内にも存在しているとする。これも従来の功過思想には見られなかった点である。

 『太平経』の功過思想を考える上で欠くことができないのが、「承負」という観念である。この「承負」がどのようなものであるか、『太平経』は次のように説明する。

力善行反得悪者、是承負先人之過、流灾前后積、来害此人也、其行悪反得善者、是先人深有積蓄大功、来流及此人也。
務めて善行を行いながら悪報を受けるものは、その先祖の過ちを「承負」したものであり、これまでに行ってきた禍ごとが積み重なって、その人を害するのである。悪事を行いながら善報を受けるものは、その先祖が大きな功績を積んでいて、それがその人にまで及んだものである。[13]
 このような「承負」の思想は、善に対する賞の「承負」よりも、罪に対する罰の「承負」の方により重点を置いて説かれている[14]。小南氏は「(『太平経』は)古い時代からの承負が積み重なって現在の、混乱と災厄に満ちた世界があるのであり、こうした環境の中で生きねばならない人々が、承負の重荷から逃れるための唯一の道が道教を信じることだと説いている」と述べている[15]。また神塚淑子氏も『太平経』が「上古に理想的な世の中が存在して、その後、中古、下古と下るにつれて(中略)人々の犯す罪も次第に大きくなり、社会全体・人類全体の罪の総量も肥大化してい」き、「今や帝王のいかなる努力によっても修復が不可能なほど承負は蓄積してしまっている」ということを強調しているとする[16]。さらに巻六七の「六罪十治訣」には、明らかに罪とされていること以外に人は罪を犯しているということが書かれているなど、全体的に人の罪に関する記述が目立って多いとも指摘する。そして「これら(罪に関する記述)は、ややもすると悪に赴きがちな世俗の人間に対して、罪の応報の恐ろしさと天の慈愛という両面から、悪を戒め善(悪事の懺悔を含めて)を勧めたものと見ることができよう」と述べている[17]。これらが正しければ、『太平経』は、人間とはもともと罪を背負った、或いはどうしても罪を犯してしまう存在であるから、そのような状態から救われたいと願うなら、たとえどんな人でも『太平経』にしたがって善事を行うべきである、といった内容を説いているということになり、ここに『太平経』における功過思想の一面をみることができるだろう。

 それでは、この功過思想における具体的な「行為」や「報い」を整理していこうと思う[18]。『太平経』では、天意に従い、人意に逆らわないことが善であり[19]、天意とは人をはじめ動物・植物など、生き物全般の生を遂げさせることであるという[20]。また、孝・忠・順といった儒経的な倫理道徳を行うことも大切だと説く[21]。これらはおそらくこの時代に儒教が官学化されたことの影響であろうが、神塚淑子氏はこれらのうち、特に孝が重要視されていることに注目している[22]。

 次は「報い」についてであるが、ここでは主に寿命が問題とされていることは、三章の冒頭に挙げたいくつかの例からも想像できよう。大淵氏はそもそも『太平経』の最終目標は太平の世の実現であるとし、「太平」については「人それぞれが十分にその生を遂げている状態」であるとする[23]。つまり社会全体の平和は当然ながら、その前提としてひとりひとりが生を害されることなく、健やかに長生きをすることが善行に対する「報い」なのである。そしてこのように善行を積み重ねれば、人間は究極的に不死となることも可能とするが[24]、数に限りがあるとされている[25]。よって、一般的には長寿が目下の目標だったと考えられる。なお、悪事を重ねた者は「悪曹」に入れられてしまうため、病気になったり早死したりするという[26]。

 ところで小南一郎氏は、魏晋南北朝期に「古代的な集団の中に融合していた個人の意識が徐々に析出をし、初めて自立した自己の意識が確立した」ことで、「罪と罰との意識に大きな変化が生じた」とし、その兆候は前漢代の司馬遷の『史記』や、この『太平経』にもみられると述べている[27]。罪と罰との意識とは功過思想を意味すると考えられる。その変化とはどのようなことを指すのか。以下、小南氏の指摘を概説する。『書経』や『墨子』では、国家と個人は不可分であり、国家全体の平安が彼らの目的であった。このように、集団的に功過思想を考える状況では、「行為」と「報い」の対応をそれほど厳密に考える必要はなく、「徳ある集団が盛んになり、道に外れたことを為している集団が亡びてゆくとして、大局的な観点から、天の賞罰がとどこおりなく行われていると考えることも可能であろう」という[28]。ところが仏教の影響によって人々に個人の意識が芽生えてくるにつれて、自己の「行為」に対してより個人的かつ具体的な「報い」を求めるようになる。これが小南氏の指摘する変化である。確かに『太平経』では国家全体の安否の他、行為者各々の寿命の増減という非常に個人的なことまで「報い」として考えられていた。これは国家のみを単位とした『書経』や『墨子』の功過思想とは異なるものである。行為者が、自分の寿命を延ばすという個人的な利益のために、個人単位で「行為」を行うという新しいタイプの功過思想が、『太平経』において芽を出したのである。

 しかし、人々が自分の「行為」に対して明確な「報い」を求めるようになった時、彼らは宗教の限界に直面することになる。すなわち、科学的に考えれば当然だが、「行為」に対して明確な「報い」が返ってくるケースは非常にまれであり、現実は大抵そうではないということに気付き始めるのである。そしてこのことは「はたして天は本当に正しく人々の行動を見守って、厳格に賞罰を与えているのだろうかという、天の絶対性に対する信頼の揺らぎ」[29]という、功過思想そのものへの不信感を生み出すことになるという。

 このような事態において、『太平経』は「承負」の観念によってこの問題を解決しようとした。既に述べたように、「承負」とは前の世代が犯した罪を後の世代が背負いこまねばならないとする考え方である。つまり、身に覚えの無い「報い」に関しては、その先祖の「行為」が原因であるとし、天の賞罰を疑うべきではないとしたのである。小南氏は「古くからの天に対する信仰によっては、そうした人々の心中の課題に十分には答えられなくなっている状況」において、『太平経』などが人々に受け入れられたのには「この善悪の行為に対する応報の問題、人々の運命を支配している道理についての疑問に、新しい形で答えようとするものであったことも、その主要な原因の一つであったに違いない」と述べている[30]。この「承負」の観念は、自らにもたらされた結果に対するすべての責任を自らの行為に求めるわけではないから、個人主義的な功過思想を完全に合理化できるものではないが、少なくとも天に対する信頼の回復を心のどこかで願っていた人々を納得させ、功過思想に対する不信感を払拭するには十分な論理であったと言えよう。

 以上が『太平経』に見られる功過思想である。ここでは、古くからある国家単位の功過思想に加えて、「承負」の観念をもとに個人単位の功過思想が新しく成立した。ここから『太平経』の功過思想にはふたつの意図が考えられるといえよう。ひとつは、『太平経』が人々に罪の意識を説いて彼らに善行を行わせることによって、太平の世を実現しようとしたことであり、もうひとつは行為者である民衆が、自らの「行為」によって長寿を得ようとしたことである。

二、初期道教教団における功過思想

 道教教団の起こりとされる太平道は、上述の『太平経』をもとにつくられている。よって、当然ここにも功過思想がみられるわけだが、同じく初期の道教教団とされている五斗米道にも、太平道と非常に似た功過思想をみることができる。これらの初期道教教団の功過思想は『三国志』張魯伝の注『典略』から知ることができる。

太平道者、師持九節杖為符祝、教病人叩頭思過、因以符水飲之、得病或日浅而愈者、則云此人信道、其或不愈、則為不信道。脩法略與角同、加施静室、使病者處其中思過。(中略)為鬼吏、主為病者請祷。請祷之法、書病人姓名、説服罪之意。
 これをもとに、『三国志』『後漢書』などに書かれている太平道と五斗米道それぞれの教理を概説する[31]。病気を、自らが過去に犯した罪に対する神の罰であると考える太平道の治病法は、病人に対してまず呪言や符による儀礼を行い、それから過去に犯した罪について懺悔告白させ、最後に符水を飲ませるというものである。そうしてすぐに病気が治ったものは信仰が厚いとし、そうでない者は不信心であるからだとしたという。五斗米道においても、治病の方法に関しては太平道とほぼ同じである。まず、病人に静室の中で悔い改めをさせる。そして過去の罪を認め、二度と罪を犯さないことを誓う「三官手書」を作らせて神々に奉じることで、病気を治してもらうというものである。上述のような懺悔告白と病気を直接関係づけるといった思想は『太平経』にはほとんどみられないことから、このことは太平道や五斗米道に始まったものであるということができるだろうと大淵忍爾氏は指摘している[32]。

 ところで、治病を目的に教団に集まってきた人々にとっては、当然のことながら悔い改めが善い「行為」であり、癒えることがその「報い」であった。一方、悪い「行為」がどのようなものであったのか詳しいことは分かっていないが、『後漢書』劉焉伝や『神仙伝』張道陵伝には、五斗米道において義舎から必要以上の米肉を取った者や道路整備を怠った者、つまり教団内の規則とされていることを破った者は、罰として病気にさせたという記述があり、また『三国志』張魯伝注『典略』には教団はこのような方法で禁酒や禁殺も行っていたらしいとある。これらは個人的かつ具体的な要素を含んでおり、『太平経』において芽生えた、個人単位の功過思想を受け継ぐものであるといえるだろう。

 だが、これらの教団における功過思想では、さらに善行を積んで福を得ようとする積極的な意志はみられない。悔い改めとは、あくまで過去に犯した罪に対する埋め合わせの分の善事にすぎない。病を罪に対する神の罰とすることは病人=罪人が成り立つのであり、よって病人であるという時点で、彼らは善事を行う義務ともいうべきものを背負うことになるのである。大淵忍爾氏は、信仰や当時の社会的な道徳・きまりとされていたことを、信者に「神による冥罰という目に見えざる力を背景にして自発的に行動せしめん」ことが、このような功過思想を説く教団側の狙いであったと指摘している[33]。

 以上が太平道や五斗米道にみられる功過思想である。教団側は信者たちの信仰心を高め、統制しやすくすることを目的に、彼らに功過思想を説いて罪の意識を植え付けた。一方信者たちにとっては、治病という個人的な願いを達成することが善行に努める目的であったと考えられる。そしてそれは『太平経』の功過思想と同じ仕組みであるといえるだろう。すなわち「行為」を行わせる側だけでなく、「行為」を行う側も明確な目的を持っていたのである。
 

第四章『抱朴子』にみられる功過思想

一、『抱朴子』とその著者葛洪について

 『抱朴子』という書物を著したのは、東晋の葛洪(二八三~三六三)という人物である。『抱朴子』の功過思想を考える前に、まずは葛洪がどのような人物であったのか、また『抱朴子』とはどのような書物であるのか、『晋書』巻七二列伝第四二や『抱朴子』外篇巻五十自序にある記述をもとにまとめておく。[34] 

 葛洪、字は稚川、丹陽郡句容県[35]の人である。先祖は後漢の光武帝が王朝を建てる際に功があり、葛家はそれ以来名門の家柄となる。祖父系は呉の高官で、学問を好み、経国の才があった。父悌もやはり呉の高官を務めたが、高徳の士としての評判が高く、人格的に優れた人物であったという。

 葛洪は、二八三年に悌の三男として生まれた。早くに父親が亡くなったために家は貧しく、毎日薪を切って売り、その代金で紙や筆を買い、田畑でたく柴の火を燈として勉強したとある。また紙がなくなると、一度書いた紙に反復して写したので、他の人には何が書いてあるかさえ分からないという有様であった。これらの記述からは、彼の家が経済的に困窮した様子がうかがえる。しかし大淵忍爾氏によれば、それほど豊かでない清廉な官僚が早くに亡くなってその家庭が困窮するというケースは、その当時決して少なくなかったらしく、葛家の場合も全くの一農民に転落するほどでもなく、ある一定水準の社会的地位と経済的水準を有していたということである[36]。彼は特定の師につくことはなかったが、十六歳から『孝経』『論語』『易経』『詩経』などの儒書をはじめ、史書や百家、短い雑文に至るまで、様々な書物を博覧したという。大淵氏によると、これは葛洪に特異なことではなく魏晋貴族の一般的傾向であったらしい[37]。一方緯書、天文、暦数、術数関係の書には興味が湧かず、途中でやめてしまったという。彼はこのころから神仙思想にも興味をもちはじめ、鄭隠に師事した。鄭隠の師である葛玄と葛洪の祖父は、いとこ同士である。よって、洪が若くして神仙思想に興味をもったのも、その家庭環境の影響であると考えられている[38]。

 後におこった張昌の乱で、洪は義軍をおこして戦ったところ、そこでの功が認められて伏波将軍[39]に任じられたが、彼はそれを辞退した。それは彼が以下のような人生観を持っていたためである。富や権力は得難いうえ、すぐに逃げ去ってしまう。また、自分の性格(後述)では官僚としての地位を得るだけでも難しく、そのうえ神仙道を修めるとなればなおさら大変である。そこで、これからは神仙道のみを極めようと考えたのである。彼はその後、世の中にまだ多く未見の書物があることを知り、それらを求めて旅に出る。大淵氏によれば、仙道修行も目的のひとつであったという[40]。初め彼は洛陽を目指していたが、事情があって広州に留まることになった。この広州滞在中、彼は多くの道士に会い知識を養った。また、後に師事することになる鮑靚に彼が出会うのもこの地である。

 二十七歳の時、洪は広州を離れて故郷に戻り、本格的に著述活動を行う。こうして『抱朴子』が三一七年に完成する。その年に東晋の元帝が即位し、洪は前功によって関内候[41]に任命され、しばらくの間は役人生活を送った。これが彼の本意でなかったであろうことは、大淵氏の指摘の通りであろう[42]。しかし晩年になると、丹薬をつくって長生きをするために、家族とともに再び故郷を離れ広州の羅浮山にこもって丹薬を練った。その後、洪の崇拝者のひとりである鄧嶽が彼を訪ねていったところ、葛洪は座ったまま眠るように死んでいたという。顔色は生きていた時のままで体も柔らかく、納棺して持ち上げると非常に軽かったので、尸解仙になったのだと噂されたという。

 次に、葛洪の性格について触れたいと思う。葛洪は、生まれつき体が弱く、非常に内向的な性格であった。そのため社交的なことを好まず、容姿や世間体には全くの無頓着であったという。しかし、内心では細やかな気遣いができる人であったらしく、困っている人があれば、それと分からないように手を差し伸べ、自分が施しを受けたときには、それと分からないように恩に報いるようにした。そして、決して自らの知識をひけらかしたりしなかった。世間の人たちが好む人物批評は争いごとの原因であると言って、自らしようとはしなかった。また彼は、賄賂や強奪によって不当な利益を得、上に媚びて下を苦しめる人々を憎み、そのような人々との交流を拒んだ。このようなことから、彼は温厚で思慮深く素朴な人柄であったが、強い正義感を持った徳のある人物であったといえるだろう。

 『抱朴子』は葛洪が二十歳を越えたころ、つまり広州に旅立つ少し前から、十数年かけて書き上げたものである。その内容は内篇二十篇と外篇五十篇に分けられ、そのうち外篇は儒教的な教えを、内篇は神仙術を中心に説いたものである。一見して分かるように、内篇と外篇とではその思想に大きな隔たりがあり、それを無理に統一しようとすると、混乱を生じかねないと考えられるので、いまは内篇のみを扱うことにする[43]。

 ここで、『抱朴子』内篇のテーマである仙人というものについて、少し解説を加えたい。そもそも仙人の歴史は古く、戦国時代に華北地方の方士たちによって語られたのがその始まりであるとするのが通説である[44]。現存最古の神仙に関する記述である『史記』封禅書によると、斉の威王・宣王や燕の昭王のころから、しばしば人をやって海に入らせ、蓬莱・方丈・瀛州の三神山を探させるということが始まったらしい。この三神山は伝書によると渤海の中にあって、そこには仙人が住んでおり不死の薬もあるらしいのだが、人間が行こうとすると風が船をはばんで、どうしても行くことができなかったという[45]。『韓非子』説林篇・外儲説篇や『楚辞』天問篇などにも不死に関する記述がみられる。また、秦の始皇帝が神仙説に傾倒していたというのは有名である。『史記』始皇帝本紀によれば、始皇帝は方士徐市らに命じて、仙人が住んでいるという蓬莱・方丈・瀛州の三神山に不死の薬をもらいに行かせたという。しかし、これらは仙人になる方法を具体的に説くものではなく、漠然とした願望に過ぎなかった。大淵忍爾氏の指摘するように、この時代までの仙人はすでにそこに存在するものであり、人間がなれるものではなかったのである[46]。

 仙人になるための方法が具体的に説かれるようになったのは、漢代になってからである。この時代は神秘的な思想が流行した時代でもあった。始皇帝と並んで、前漢の武帝も神仙説を好んだことで知られている。『史記』封禅書によると、李少君という方士が武帝に祠竈辟穀卻老方という説を述べた。それは、竈をまつれば鬼神を呼び寄せることができ、鬼神を呼び寄せることができれば丹砂を黄金にすることができ、金で食器を作ると生命が延び、仙人に会うことができ、その上で封禅をすれば不死、すなわち仙人になることができるという。その実例が黄帝であり、また自分は以前に神仙に会って、棗の実を食べさせてもらったから、非常に長生きをしているというのである。武帝はこれを信じて、彼の言うとおりに実行したという[47]。ここでは、どうすれば人間が不死になることができるかを説くばかりでなく、実際にそれを実行して仙人になったり、長寿を得たりした人々の話を、黄帝や自分自身をも例に挙げて説明しており、まさに仙人がなれるものとして書かれている。そして漢代以降、『列仙伝』『神仙伝』をはじめ、神仙になったとされた人々をテーマとする書物が多く記されるようになったのである。

 葛洪は多くの書物から得た、或いは自らの足で集めた神仙に関する情報を駆使して『抱朴子』を著した。そこには金丹を中心に服薬・行気・房中など様々な方法が記されているのだが、『抱朴子』における功過思想も、実はこれらと同様に仙人になる方法のひとつに利用されている。それはどのような思想であったのだろうか。

二、『抱朴子』にみられる功過思想

 『抱朴子』の功過思想は対俗篇と微子篇にみることができる。それらの記述をもとに、基本的な仕組みを以下にまとめておく。[48]

 天地には過ちを司る神がいて、人が悪事を働けばその人の寿命を減らす。悪さの程度によって減らす数は異なり、そうして寿命が減ってくると心配事が増えたり病気になったりする。ついに寿命が尽きると人は死んでしまう。しかし、悪事は善事によって埋め合わせをすることができるとする。このことは既に『太平経』にあるので、『抱朴子』のみにみられるものではないが、『抱朴子』においてはその計算方法が非常に複雑である。一一九九善も一悪ですべてもとに戻ってしまう、心の中で思っただけでも罪になる、悪事をしなくても自分の善行を言い触らしたり、施しに対して報酬を求めたりするような場合は、善行に入らないとする等曖昧な部分が多く、はっきりとした規則性はまだみられない。だが悪事を慎んで善行に励めば、必ず寿命を増やすことができ、仙人になることも可能であるという[49]。

 次に、「行為」や「報い」の具体的な内容であるが、微子篇には善悪それぞれの「行為」が具体的に記されている。

善行
積善立功、慈心於物、怒己及人、仁逮昆蟲、楽人之吉、愍人之苦、愍人之急、救人之窮、手不傷生、口不勧禍、見人之得如己之得、見人之失如己之失、不自貴、不自誉、不嫉妬勝己、不佞諂陰賊。

善行を積み手柄を立て、物に慈悲深くなければならない。わが身をつねって人の痛さを知り、昆虫にも憐れみをかけよ。人の幸運を喜び、人の苦労を哀れめ。人の急場を助け、人の貧窮を救え。手は生き物を傷つけてはならぬ。口は災難を招くようなことを言うな。人が得をしたのを見れば自分が得したように思い、人が損をすれば自分が損したように思え。偉ぶるな。自慢するな。自分よりすぐれたものを嫉妬するな。うわべだけへつらって陰で相手を傷つけるようなことをするな。

悪行
憎善好殺、口是心非、背向異辭、反戻直正、虐害其下、欺罔其上、叛其所事、受恩不感、弄法受賂、縦曲枉直、癈公為私、刑加無辠、破人之家、收人之寶、害人之身、取人之位、侵克賢者、誅戮降伏、謗訕仙聖、傷殘道士、彈射飛鳥、刳胎破卵、春夏嫽獵、罵詈神靈、教人為惡、蔽人之善、危人自安、佻人自功、壊人佳事、奪人所愛、離人骨肉、辱人求勝、取人長錢、還人短x、決放水火、以術害人、迫脅尫弱、以惡易好、強取強求、x掠致富、不公不平、淫佚傾邪、淩孤暴寡、拾遺取施、欺紿誑詐、好説人私、持人短長、牽天援地、x詛求直、x借不還、換貸不償、求欲無已、憎拒忠信、不順上命、不敬所師、笑人作善、敗人苗稼、損人器物、以窮人用、以不清潔飲飼他人、輕秤小斗、狭幅短度、以偽雜真、採取姦利、誘人取物、越井跨竈、晦歌朔哭。  
善人を憎み、殺生を好み、口先はきれいでも腹は真っ黒。表と裏で言うことが違い、まっすぐなものをねじまげる。下々を虐げ、お上を欺く。主人に叛き、恩を受けても感謝もしない。法律を悪用して賄賂を受け、悪人を野放しにし、正直者を罪に陥れる。公の務めは投げ出して私腹を肥やし、無実のものに刑罰を加える。人の家を破産させ、その宝物を没収する。人の命をとり、その地位を奪う。賢者を侮辱したり、降参人を死刑にしたり。仙人を悪口し、仙道修行者を傷つける。弾丸で飛鳥を射落とし、孕んだ獣の腹を裂いて胎児を取り出し、戯れに鳥の卵をたたき破る。春・夏に野山に火をつけて狩をし、祟りなどあるものかと神霊を罵る。人に悪事を教唆し、善行を蔽い隠す。人を危険に陥れることで心安らぎ、人から盗むことで大手柄をした気になる。人のめでたい事をぶちこわし、人の愛する対象を奪い取る。人の骨肉を離間し、人を辱めて勝った気になりたがる。良質の貨幣を借りておいて悪質の貨幣で返す。堤防を切り火をつけるなど、術でもって人を害する。弱い者を脅し、悪い品を良い品に換え、無理に取り立てて、切り取り強盗同様にして富を積む。不公平で、淫らで邪ま、孤児を馬鹿にし寡婦をいたぶる。落し物を懐中に入れたり施し物をだましとったり、人を詐欺にかけたり。好んで人の秘密をしゃべり、人のあらさがしをする。天神地 を引き合いに出して他人を呪い、自分だけが正しいと主張する。借りたものを返さず、交換する約束だったのに代償を払わない。貪欲で飽きることがなく、忠告してくれる人を憎み拒む。お上の命令に従わず、師匠を尊敬しない。人がよく働いているのを嘲笑い、人の作物をいため、人の器物を壊し、人の暮らしを苦しくさせる。汚物をこっそり人に飲ませたり食わせたり。秤の目、枡目をごまかし、反物の幅や長さをつめ、にせものを本物にまぜて不正の利得をし、或いは人をだまして品物を取り上げる。井戸をとびこえ竈をまたぎ、晦に歌ったり、朔日に泣いたり。[50]

 条目自体は非常に細かいが、儒教・仏教・道教の戒律が入り混じった、いわば日常的な社会道徳であるといえよう。

 「報い」は主として寿命の調節が中心である。対俗篇には、同じ仙人でも天仙・地仙・尸解仙などの種類があり、善行の数によってこれらのランク分けが為されることが書かれている。これらは『太平経』における善曹や悪曹などと同じような仕組みを持っており、全体的に個人主義的な傾向であるといえる。『書経』以来主流であった国家単位の功過思想は、『抱朴子』において完全に姿を消し、個人単位の功過思想にその地位を明け渡すこととなった。

 ところで、個人単位の功過思想が成り立つためには、その信憑性が非常に問題となるのであった[51]。『抱朴子』は、どのようにしてこの矛盾を説明したのであろうか。

凡人之受命得壽、自有本數、數本多者、則紀算難盡而遅死、若所稟本少、而所犯者多、則紀算速盡而早死。
すべて人の持って生まれた寿命には、本来の数が決まっている。もともと数の多いものは寿命が尽きにくく遅く死ぬ。もし持ち前の数が少なくて、犯した過ちが多ければ、寿命もすぐに尽きてしまい早く死ぬ。[52] 
 この部分から『抱朴子』には、人の運命は生まれながらに決まっているものとする宿命論が取り入れられていることに気付く。このことはこれまでの功過思想にみられない、『抱朴子』独自の要素である。大淵忍爾氏はこのことについて、このような傾向は王充の影響と考えるのが妥当であるとし、さらに葛洪がこのような考え方を『抱朴子』に取り入れた理由として、古代の聖人や賢人と称される人々(周公や孔子のこと)が長生きしなかったのはなぜかという問題を、世人に対して合理的に説明するためには、それまでの非命論だけでは不十分だと考えたためであろうと述べている[53]。葛洪は功過思想とは一見無縁の宿命論を敢えて取り入れたのであり、それは『太平経』における「承負」の観念以上にその合理化を可能にする結果となったのである。

 このような個人単位の功過思想が、『抱朴子』では仙道のひとつという観点から説かれているということは既に述べたが、「行為」にあたる条目が、仙道を志す者に定められた戒律にしては宗教色の濃いものが見られず、多くは一般的な社会道徳であることから、これらは仙道を志す者のみがすべき「行為」とは言えず、その内容はむしろ「一般の士庶人」を対象とするものであるとするのは、衆目の一致するところである[54]。そして「一般の士庶人」でもこれらの社会道徳を行うことによって、仙人になることが可能である、という新しい考え方を『抱朴子』において提案することになった葛洪の業績をいずれも高く評価している。というのも、仙人になるための正規の方法とされていた練丹や服餌は、経済的時間的余裕と固い決心が要求されるため、仙道は主に上流階級の人々と結びついて発展しており、一般庶民がそのような方法で仙道を修めるのは到底不可能だと考えられるからである。楠山氏が「平常な日常生活を送りながら仙人となる道が、ともかくここに開かれた」と述べているように[55]、『抱朴子』において初めて、特別な地位や経済力を持たない普通の人々にも、仙人になる、或いは長生きすることが可能となったのである。葛洪はなぜこのような思想を説いたのだろうか。

 酒井忠夫氏は「葛洪の功過、禍福の考え方は、高価な薬材を購入して金丹・仙薬を造り出そうとする、財力の豊かな豪族の立場からのそれであることは明瞭である」とし[56]、また楠山氏は、葛洪が「弟子を養成していた様子もなく、まして教団を組織することなど全く念頭になかったと見るべき」であり、「その意味で葛洪は、あくまでの孤高の修道者であった」とし[57]、いずれも葛洪自身を民衆の側におくことには反対の立場をとっている。彼が内篇において、金丹による方法を非常に重んじていたのは事実である。しかし四章一節で述べたように、葛洪自身もそれほど社会的に高い身分であったわけでもなく、経済的にも決して裕福といえる状況ではなかった。金丹篇や黄白篇には、彼も師の鄭陰も貧しくて金丹などの仙薬を手に入れることができなかったことが書かれており、一般の道士にとって仙薬を手に入れるのは非常に困難な状況であったと考えられる。また、前述した彼の品行[58]はまさに『抱朴子』の善行と一致しており、一般道徳の遵守という方法によって仙人になろうとする、地道な道士の姿と重なり合うものだといえるだろう。これらのことから、私は『抱朴子』を記した葛洪自身も、このような方法で仙人になれることを信じたかったのではないだろうかと考える。彼が自ら説く金丹や服餌などの方法は、社会的にも経済的にもそれほど恵まれているとはいえない葛洪にとっては、容易に手が届くものではなかったはずである。だが、社会的地位と仙道との両方を得ることを早い段階で諦めた彼は、金丹に憧れながらも、仙人になることができる別の方法をどこかに求めていたのではないだろうか。それが社会道徳を行うことで長寿を得ようとする、新しい立場からの仙道を生み出すことになったのではないかと思うのである。

 それではこのような考えを仙道としてではなく、純粋に功過思想という観点からもう一度考えてみることにする。『抱朴子』において仙道がこのような立場から説かれたものであるならば、葛洪は功過思想を自分も含めた道士の立場から説いたものだということができる。そしてそのことは、『抱朴子』以前の功過思想との大きな違いであると言うことができるだろう。これまでの功過思想はこれを説く側が、「行為」者側である民衆の統制・支配を目的に説いたものであり、それにはなんらかの強制力を伴っていた。ところが『抱朴子』においては、行為者側の「仙人になる」という非常に個人的な目的のために、「行為」者自身の側から説かれたものなのである。ここでは「行為」者の積極的な意志が動機となっているのであり、行為者自身が説いているのだから決して強制力を伴うものではない。ここにおいて功過思想は、権力者の支配のための道具から、「行為」者である道士の利益追及の方法にその立場を転換させたということができるだろう。
 

第五章 『抱朴子』以降の功過思想

 『抱朴子』はその後の道教教理の基礎を築くことになり、そこに書かれた功過思想も当然受け継がれ、後世の善書や功過格などに集約されることになる。善書とは功過思想の論理によって勧善止悪を説いた道教経典で、『太上感応篇』[59]などに代表される。そこには儒・仏・道が混合した一般道徳が記されており、一般庶民を対象に説かれたものであることが知られている。そして功過格[60]とは、善書を実践的なものにするための表である。人々が日常に行うような具体的行為を善と悪とに分けて点数化し、日々の行為をそれに照らし合わせて計算し判定することができるようにする。日・月・年ごとに功過の点数を決算し、その結果プラスになれば幸が、マイナスになれば不幸があるとする。こちらは『太微仙君功過格』[61]が有名である。

 これらの善書や功過格が、道教信者であるかないかに関わらず、中国人一般の倫理観を構成する際の骨子となり、その後長い間彼らの行動に大きく影響したことは、衆目の一致した考えである[62]。吉岡善豊氏は「功過格の成立は、中国人が自己の運命は自己の手によって、吉にも凶にも変更することができることを自覚したもので、彼らの精神生活史上、画期的な成果である」と述べ、民衆は自らの運命という個人的な利益を目的に、功過格の実践を行っていたとしている[63]。また、これらの書物の作り手は「権力的支配機構のエリートコースからはみ出して、むしろ被支配階層である民衆の側に立って」いる人々であり、自らこれらの道徳を実践している行為者でもある。これらのことから、善書や功過格といった書物は「上から、あるいは他から与えられたものではなく、みずからの社会生活を維持するための倫理規範として、民衆自身がえらびとったものである」と吉岡氏は指摘している[64]。まさにこれは『抱朴子』において葛洪が道士の立場から、道士自身の利益のために説いた功過思想と一致した構図だといえよう。そしてこのような性質を持っていたからこそ、善書や功過格はその後広い範囲に普及することができたのだと思う。
 

まとめ

 以上、『書経』・『墨子』・『太平経』や初期道教教団・『抱朴子』という、功過思想が顕著に表れていると考えられる書物に関して、そこに書かれた功過思想の特徴とその変化をみてきた。その中で、私は「功過思想がどういう立場で、何を目的に説かれたのか」という点に特に注目してその流れを追ってみた。

 『書経』や『墨子』にみられる功過思想は、主として「周王朝」や「墨子」などが行為者である民衆を統制する目的で説いたものであり、民衆にとって「行為」の実践には義務的な意識が常にあったということができるだろう。しかし個人主義の萌芽によって、民衆も自身の「行為」に対して、はっきりとした目的を持つようになる。それがあらわれ始めるのが、『太平経』や初期道教教団にみられる功過思想である。これらの教団が功過思想を説いたのには信者を統制する目的があったのも事実であり、信者たちは罪の意識のため「行為」に対して義務的な意識を持っていたであろうが、それと同時に彼らは長生という、非常に個人的な目的のために善い「行為」をしていた。そして『抱朴子』になると、その傾向はますます強まる。ここでの功過思想は道士の立場から説いたものであり、彼らは延年或いは不老不死という、専ら自分自身の利益追求のために善い「行為」を行った。そして、このような傾向は善書や功過格に受け継がれ、一般民衆が自らの幸福追求のために善い「行為」を行う動機となったのである。後世の驚くべき影響力を持った民衆的な道教思想はこのようにして生み出された。よって無意識的にではあったにせよ、『抱朴子』において功過思想を大きく変えることになった葛洪の業績は、道教史上やはり非常に大きいと思う。
 

〈参考文献〉

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大淵忍爾 『道教史の研究』 一九六四 岡山大学共済会書籍部

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酒井忠夫 『増補中国善書の研究上』 一九九九 国書刊行会

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福井康順 『中国古典新書 神仙伝』 一九八三 明徳出版社

福井康順 『道教思想研究』 一九八七 法蔵館

福永光司 『道教思想史研究』 一九八七 岩波書店

宮川尚志 『周漢思想研究』 一九九八 大空社

村山吉廣 『中国の思想』 一九七二 社会思想社

吉岡義豊 『老荘の思想と道教』 一九四二 森北書店

吉岡義豊 『道教の研究』 一九五二 法蔵館

吉岡義豊 『世界の宗教九・道教 永世への願い』 一九七〇 淡交社

小柳司気太 「道教要論」『大思想エンサイクロペヂア・思想名著解題』収 一九三〇 春秋社

小南一郎 「罪と罰」『岩波講座・東洋思想一三巻・中国宗教思想一』収 一九九〇 岩波書店

楠山春樹 「『抱朴子』の倫理思想」『道教・第二巻 ・道教の展開』収 一九八三 平河出版社

麥谷邦夫 「長と短」『岩波講座・東洋思想一三巻・中国宗教思想一』収 一九九〇 岩波書店

神塚淑子 「『太平経』の世界」『講座・道教第一巻・道教の神々と経典』収 一九九九 雄山閣出版

平木康平 「『抱朴子』の世界」『講座・道教第一巻・道教の神々と経典』収 一九九九 雄山閣出版

福井康順 「道教成立以前の二三の問題」『東洋思想研究』収 一九三七 岩波書店

相良克明 「徳の語の意義と其の変遷」『東洋思想研究』収 一九三七 岩波書店
  
高雄義堅 「明代に大成されたる功過格思想」『龍谷大学論叢』収 一九二二 龍谷大学論叢社

吉岡義豊 「初期の功過格について」『東洋文化研究所紀要』二七収 一九六二日光書院
 

〈本文注〉

[1]原文、訳ともに『新釈漢文体系・書経上』高宗肜日篇より引用。以下、『書経』の引用はすべてこの本からのものとする。

[2]牧誓篇より引用。

[3]盤庚篇より引用。

[4]原文、訳ともに『新釈漢文体系・墨子上』天志篇中より引用。

以下、『墨子』の引用はすべてこの本からのものとする。

[5]天志篇上より引用。

[6]天志篇上より引用。

[7]天志篇下より引用。

[8] 『太平経合校』六二五頁より引用。

[9]『太平経合校』五五二頁より引用。

[10]『太平経合校』六〇〇頁より引用。

[11]以下の説明は『初期の道教』一〇一~一三六頁にある訳を参考にした。

[12]『増補・中国善書の研究上』四二三頁参照。

[13]『太平経合校』二二頁より引用。 訳は『罪と罰』二〇四頁より引用。

[14]『太平経合校』八六頁に「其の承負せる天地開闢以来の流災委毒の謫」、また同書一六五頁に「今の下古において、帝王万万人の道徳有り、仁思天心に称うと雖も、凶絶えざる所以は、乃ち承負せる流災、乱れて以来独り積むこと久しければなり」とある。なお、これらの書き下し文は「『太平経』の世界」八七~八八頁より引用。

[15]「罪と罰」二〇五頁より引用。

[16]「『太平経』の世界」八七~八八頁より引用。

[17]「『太平経』の世界」八五~八六頁より引用。

[18]以下の説明は『初期の道教』一〇一~一三六頁にある訳を参考にした。

[19]『太平経合校』一五八頁参照。

[20]『太平経合校』五七二、六二一頁参照。

[21]『太平経合校』五四三頁参照。

[22]「『太平経』の世界」八四頁参照。

[23]『初期の道教』一〇三頁より引用。
 
[24]『太平経注訳』中 三六九頁参照。

[25]『太平経合校』四三八頁に「夫れ度去する者、万に未だ一人有らず」とある。なお、この書き下し文は「『太平経』の世界」八一頁より引用。
 
[26]『太平経合校』五九八頁に「悪人は早く死し、地下に掠治せられ、其の当に為すべからざる所を責めらる」とある。なお、この書き下し文は「『太平経』の世界」八五頁より引用。

[27]「罪と罰」一九六頁より引用。

[28]「罪と罰」二〇三頁より引用。

[29]「罪と罰」二〇二頁より引用。

[30]「罪と罰」二〇四頁より引用。

[31]以下の説明は『道教史』一一七頁、一二三頁にある訳を参考にした。

[32]『初期の道教』一二四頁参照。

[33]『初期の道教』一五八頁参照。

[34]『中国古典新書・抱朴子』『鑑賞中国の古典九 抱朴子・列仙伝』『中国の古典シリーズ四 抱朴子・列仙伝・神仙伝・山海経』にある訳を参考にした。

[35]現在の江蘇省江寧県。

[36]『道教史の研究』七四頁参照。

[37]『道教史の研究』七〇頁参照。

[38]『道教史の研究』七〇頁参照。

[39]漢の武帝の時の水軍を率いる武官の名。(『大漢和辞典』参照。)

[40]『道教史の研究』八一頁参照。

[41]功を賞するための名目だけの諸侯。(『中国の古典シリーズ四 抱朴子・列仙伝・神仙伝・山海経』より引用。)

[42]『道教史の研究』八九頁参照。

[43]内篇と外篇の問題に関しては様々な見解があるが、今は省略する。

[44]『道教史』七四頁参照。

[45]以上『史記』封禅書の説明は『道教史』七三頁にある訳を参考にした。

[46]『初期の道教』参照。

[47]以上『史記』封禅書の説明は『道教史』九〇~九一頁にある訳を参考にした。

[48]以下の説明は『中国古典新書 抱朴子』『鑑賞中国の古典九 抱朴子・列仙伝』『中国の古典シリーズ四 抱朴子・列仙伝・神仙伝・山海経』にある訳を参考にした。

[49]但し、仙人になれるかどうかは先天的に決まっているため、すべての人がこのような修行によって仙人になることができるわけではないが、先天的に仙道と縁の無い者は、はじめから仙道などに興味を示さないと彼は述べ、仙道を志す者は先天的に縁のある者だと塞難篇にある。なお、この訳は『中国古典新書 抱朴子』を参考にした。

[50]原文は微子篇、訳は『中国の古典シリーズ四 抱朴子・列仙伝・神仙伝・山海経』から引用。

[51]本稿三章参照。

[52]原文は対俗篇、訳は『鑑賞中国の古典九 抱朴子・列仙伝』三三頁から引用。

[53]『初期の道教』五七一~五七二頁参照。

[54]「『抱朴子』の倫理思想」六〇頁、窪氏の『道教史』四九頁、大淵氏の『初期の道教』六二〇頁参照。

[55]「『抱朴子』の倫理思想」六一頁から引用。

[56]『中国善書の研究』四二八頁から引用。

[57]「『抱朴子』の倫理思想」六一頁から引用。

[58]本稿四章一節参照。

[59]『太上感応篇』一一六四年頃に南宋の李石によって著された善書。その内容は、『抱朴子』をもとにしていると一般に考えられている。(『初期の功過格について』一〇八頁参照。)

[60]『初期の功過格について』一一七頁に掲載されている功過格の一例を貼り付けた。

[61]『太微仙君功過格』別名『道蔵本』ともいわれるもので、おそらく功過格の最初のもので、金大定年間に作られたという。(『初期の功過格について』一一四頁参照。)それ以後の功過格の原型として、非常に重要視されている。

[62]『道教要論』六六頁、「初期の功過格について」一〇七~一〇八頁参照。

[63]以上『永世への願い』一七〇頁参照。
 
[64]以上『永世への願い』一六七頁参照。