清朝の中の中華思想

98L1047H 逆瀬川弘次

 まえがき

 『清史稿』の中に「邦交志」という巻がある。その序文には、西欧諸国の中国への侵入とそれに対する中国人の怒りが込められている。「邦交志」の存在は珍しい。今までの中国正史には、そのような巻はない。当然である。「邦交志」は中国と対等関係の国について書かれているからである。中華思想を保持していた中国に対等な国は存在せず、「邦交志」の存在もあり得ない。

 中華思想は、西欧列強にとって嫌われる存在であった。西欧諸国は、中華思想に対し、そして中国に対し、おごり高ぶっている、と言い表す。

 では、『清史稿』の中の「邦交志」は何を意味するのか。

 西欧列強(日本も含む)により清は崩壊していく。二百五十年以上続いた大国が無残にも消滅する。このとき中華思想も一緒に消滅した。「邦交志」の存在は、中華思想の消滅を意味する。

 清朝は、中国最後の征服王朝である。中華思想の中では、清=夷狄である。だが、清朝滅亡の理由は中国伝統とも言える中華思想にあった。

 夷狄である清と中華思想の関係を今から見ていく。

 引用部分では旧字体を用いたが、JIS漢字にない一部文字は常用漢字を用い、さらに西暦は「一九九五」と表記し、西暦以外の数を表す場合は「二十五」・「二百三十」と表記した。
 

第一章 中華思想について

一、中華思想の形成

 中華思想とはどういうものなのかを見る前に、どのように中華思想が形成されたのだろうか。

 中華思想は春秋時代に形づくられたとされる。そして、その形成には漢民族の形成と周の文化が大きく関連している。

 では、まず漢民族の形成について見ていく。

 『孟子』離婁下篇に、

 孟子曰、舜生於諸馮、遷於負夏、卒於鳴條。東夷之人也。文王生於岐周、卒於畢郢。西夷之人也。地之相去也、千有餘里、世之相後也、千有餘歳。得志行乎中國、若合符節。先聖後聖、其揆一也。
 (孟子曰く、舜は諸馮に生れ、負夏に遷り、鳴條に卒る。東夷の人なり。文王は岐周に生れ、畢郢に卒る。西夷の人なり。地の相去るや、千有餘里、世の相後や千有餘歳。志を得て中國に行ふは符節を合するが若し。先聖・後聖、其の揆一なり、と)
とある。ここには、夷狄が中国の文化の担い手、リーダーになり得ることを示している。

 紀元前二二一年の秦の始皇帝の中国統一以前の中国には、「東夷、西戎、南蛮、北狄」の諸国、諸王朝が洛陽盆地をめぐって興亡を繰り返した。そして、この興亡の中から漢民族が形成された。すなわち、漢民族とは、諸種族が接触・混合して形成した都市の住民のことであり、文化上の観念であって、人種としては「蛮」「夷」「戎」「狄」の子孫であり、夏・殷・周もこれら夷狄によって作られた国である(1)。

 そして中華思想は、周王朝の実態が弱まり、権威が薄くなった春秋時代に生じたが、その時代は漢民族が前から引き続き、さまざまの民族の血を取り入れて構成されつつある時代でもあった。ところが、政治的に周王朝の実態、権威がなくなっても文化的まとまりをもってきた漢民族は、周王朝の存在を否定するものではなく、たとえ形だけになっても周王朝の権威を尊重していた(2)。

 『春秋左氏伝』の僖公二十八年に、

 皆助王室、無相害也。有渝此盟、明神殛之、俾墜其師、無克祚國、及而玄孫、無有老幼。君子謂、是盟也信。謂晋、於是役也、能以德攻。
 (皆、王室を助けて、相害ふこと無かれ。此の盟に渝ること有らば、明神、之を殛し、其の師を墜し、克く國に祚すること無く、而の玄孫に及ぶまで、老幼有ること無からしめん、と。君子曰く、是の盟や信なり、と。晋を謂ふ、是の役に於けるや、能く德を以て攻む、と)
 これは、晋の文公が楚に当たるために、諸侯の力を借りようと盟約を結ぶ。その時の諸侯との盟約について述べられている。ここで注意すべき点は、周王朝の権威は無くなっても、周の王室を助けることが大義名分をなし、それが楚に対抗する有効な理念だと意識されていることである(3)。

 このように、周の権威がなくなった後も、漢民族としてのまとまりを持ち続け、さらに周を尊ぶのは何故か。それが、周の文化の中心である徳や礼のためであると考えられる。そして、中華思想では特に「礼」が大きく関係している。

 中華思想の起源を見る前に、周の社会システムの中で「礼」がどのような役割を果たしていたかを見ておこう。

 田村和親氏は周王朝の最大の特色を、周室と諸侯、諸侯と群臣とが周室を中心にした巨大な分節社会(封建制)を形成していることであり、しかもこの社会は、同血族社会ではなく、異性の者が分封されていたこと。さらにこの社会は、周王―諸侯―氏(卿・大夫)……と下部に至るに順って、即ち、周室を本とし、その分派が末端に及ぶに順って、その所有する財産(例えば領土面積・人民数など)が次第に逓減する所に在るとしている(4)。
 
 『礼記』表記第三十二に、

 周人尊禮尚施、事鬼敬神而遠之、近人而忠焉、其賞罰用爵列。
 (周人は禮を尊び施を尚び、鬼に事へ神を敬して之を遠ざけ、人を近づけて忠あり、其の賞罰は爵列を用ふ。)
とあり、さらに、『礼記』緇衣第三十三には、
 子曰、夫民、教之以德、齊之以禮、則民有格心。教之以政、齊之以刑、則民有遯心。
 (子曰く、夫れ民は、之を教ふるに德を以てし、之を齊ふるに禮を以てすれば、則ち民、格る心有り。之を教ふるに政を以てし、之を齊ふるに刑を以てすれば、則ち民、遯るる心有り。)
とある。周において、国の秩序を守るために政治の力や刑罰によって規制するのではなく、「礼」を重んじることで、人民のほうから近づいて来ると考えられていることがわかる。また、『礼記』曲礼上第一に、
 道德仁義、非禮不成。教訓正俗、非禮不備。分爭辨訟、非禮不決。君臣上下、父子兄弟、非禮不定。宦學事師、非禮不親。班朝治軍、涖官行法、非禮威嚴不行。禱祠祭祀、供給鬼神、非禮不誠不莊。是以君子、恭敬撙節退讓、以明禮。
 (道德仁義も、禮に非ざれば成らず。教訓俗を正すも、禮に非ざれば備はらず。爭を分ち訟を辨ずるも、禮に非ざれば決せず。君臣上下、父子兄弟も、禮に非ざれば定まらず。宦學し師に事ふるも、禮に非ざれば親しからず。朝を班ち軍を治め、官に涖み法を行ふも、禮に非ざれば威嚴行はれず。禱祠祭祀、鬼神に供給するも、禮に非ざれば誠ならず莊ならず。是を以て君子は、恭敬撙節退讓、以て禮を明かにす。)
とあり、このように、周時代における「礼」は、分節社会(封建制)の秩序を構成するために重要な役割をしていた。

 次に儒教における「礼」について見てみたい。

 春秋時代、周の文化を再現することを理想とした人物がいた。それが孔子である。
 『論語』八佾に

 子曰、周監於二代、郁郁乎文哉。吾従周。
 (子曰く、周は二代に監みて、郁郁乎として文なるかな。われは周に従わん。)
とあり、孔子が周の文化を高く評価していることがわかる。そして孔子は、「君子居之、何陋之有(君子これに居らば、なんの陋かこれあらん)」と説くのである。さらに、『孟子』滕文公上に、
 吾聞用夏變夷者。未聞變於夷者也。
 (吾夏を用て夷を變ずる者を聞く。未だ夷に變ずる者を聞かざるなり。)
とある。ここには明らかに華・夷の差別が存在している。華・夷の別の出現、これが、中華思想が周を経て、春秋時代に形成されたと考える理由である。

 周の時代、「礼」は社会構造の秩序を構成するものであった。それが、儒家の中では華・夷を区別する基準になっているのである。しかも、ここで重要なことは、華・夷の差別が種族的なものや血族的なものではないことである。すなわち、夷も華の「礼」を身につければ、華の仲間入りができるのである。

 那波利貞氏は、中華思想の特質について、地理的・文化的な要素から自国を世界の中心とする考え方は、中国以外の国(バビロニア・インドなど)にも存在していた。しかし中国には、他国とは明らかに違う要素が存在していた。それが、道徳的政治思想・王道政治という要素であり、この考え方は、他の国には見られないものであるとしている(5)。

『礼記』曲礼上第一に、

 禮聞取於人、不聞取人。禮聞來學、不聞往教。
 (禮は人に取らるるを聞けども、人を取るを聞かず。禮は來り學ぶを聞けども、往きて教ふるを聞かず。)
他の国にはない道徳的政治・王道政治によって、礼は自然と広く行きわたる。このような政治が二千年以上も前から理想とされてきたのである。
 

二、中華思想について

 先に述べたように、中華思想は漢民族の形成と大きく関わっていた。つまり、中華思想は漢民族の持つ思想であると言っていいだろう。その漢民族を世界の中心とし、他の周辺民族を「東夷、西戎、南蛮、北狄」と分けて蔑視することが中華思想である。そして、中華思想における差別は地理的なものではなく、文化的なもの(礼)である。書経の中に、漢民族の世界観を表したものを見ることができる。
 『書経』禹貢篇に、

 五百里甸服。百里賦納總、二百里納銍、三百里納秸、四百里粟、五百里米。五百里侯服。百里采、二百里男邦、三百里諸侯。五百里綏服。三百里揆文教、二百里奮武衞。五百里要服。三百里夷、二百里蔡。五百里荒服。三百里蠻、二百里流。東漸于海、西被于流沙、朔南曁聲教、訖于四海。禹錫玄圭、告厥成功。
 (五百里は甸服。百里の賦は總を納れ、二百里は銍を納れ、三百里秸を納れ、四百里は粟、五百里は米。五百里は侯服。百里は采、二百里は男邦、三百里は諸侯。五百里は綏服。三百里は文教を揆し、二百里は武衞を奮ふ。五百里は要服。三百里は夷、二百里は蔡。五百里は荒服。三百里は蠻、二百里は流。東は海に漸み、西は流沙に被び、朔南は聲教の曁ぶまでにて、四海に訖る。禹玄圭を錫り、厥の成功を告ぐ。)
とある。王の治める土地から外側に向かって、甸服(畿内)―侯服―綏服―要服―荒服の五等級にわけられ、甸服の民は生産で、侯服の民は軍事で奉仕することが書かれており、綏服の民は政治や教化によって服従している。要服と荒服は周辺であろう。これを五服と言い、この五つの等級の中で中央に含められるのは綏服までであろうと考えられる(6)。さらに、『礼記』王制第五に、礼の模範を見せ、それでも礼に従わない者がどうなるかを書いた部分がある。
 命國之右鄕、簡不帥教者移之左、命國之左鄕、簡不帥教者移之右、如初禮。不變移之郊、如初禮。不變移之遂、如初禮。不變屏之遠方、終身不齒。
 (國の右鄕に命じて、教に帥はざる者を簡びて之を左に移し、國の左鄕に命じて、教えに帥はざる者を簡びて之を右に移し、初の禮の如くす。變ぜざれば之を郊に移し、初の禮の如くす。變ぜざれば之を遂に移し、初の禮の如くす。變ぜざれば之を遠方に屏け、身を終ふるまで齒せず。)
とある。ここでわかることは、礼の模範を見せても、その礼に従わない者は、都から遠い方へ移住させられ、最終的には問題にされなくなるということである。礼を身につけない者は遠い場所に住むというのは、明らかに文化的な基準をもって差別している。このような華・夷の差別を表す例が『春秋左氏伝』にある。
 『春秋左氏伝』閔公元年に、
 戎狄豺狼、不可厭也。諸夏親暱、不可棄也。
 (戎狄は豺狼なり、厭かしむ可からざるなり。諸夏は親暱なり、棄つ可からざるなり。)

 僖公二十二年、
 平王之東遷也、辛有適伊川、見被髪而祭於野者。曰、不及百年、此其戎乎。其禮先亡矣。
 (平王の東遷するや、辛有、伊川に適き、被髪して野に祭る者を見る。曰く、百年に及ばずして、此れ其れ戎とならんか。其の禮先づ亡びたり。)

 定公十年、
 裔不謀夏、夷不亂華。
 (裔は夏を謀らず、夷は華を亂さず。)

 襄公十四年、
 我諸戎飮食衣服、不與華同。贄幣不通、言語不達。
 (我れ諸戎の飮食衣服は、華と同じからず。贄幣通ぜず、言語達せず。)

 襄公十四年の記載は、戎の者が自らの事をこのように述べている例である。

 さらにこの他にも、僖公二十一年の、「蛮夷、夏を猾るは周の禍なり」や僖公二十年の、鄭には勲・親・近・賢の四徳が具わっているのに反して、「狄に聾・昧・頑・嚚の四姦具われり」と述べている例などがある。

 しかし、差別と反対に夷狄との交易や盟約、夷狄との婚姻も行われていた。そのことを示す部分を、『春秋左氏伝』の中で見ることができる。

 例えば、僖公三十二年に、

 夏、狄有亂。衞人侵狄。狄請平焉。秋、衞人及狄盟。
 (夏、狄に亂有り。衞人、狄を侵す。狄平ぎを請ふ。秋、衞人、狄と盟ふ。)
さらに、隠公七年に、「戎朝于周(戎、周に朝し)」とあり、戎が周に朝(貢)したことを思わせる部分。僖公二十二年には周が夷狄から后をめとったとする部分。荘公二十八年・成公十三年の晋が戎や狄と通婚し、彼らとの間に密接なつながりを持っていたとする部分。隠公二年の、戎と友好関係があったことを示す部分などである。

 那波利貞氏は、

 中華思想の主な要素が、支那は世界の中心地なりと謂ふ地理的なものと、支那は世界に於ける文化の中心なりと謂ふ文化的なものと、支那君主は王道政治を以て世界萬邦に君臨しその徳澤は世界の隅々にまで光被せること日輪の遍ねく照らすが如きものなりと謂ふ政治的のものとの三者なる結果は、其の發するや極端に相背馳する二方面の傾向を有することとなつた。一は極端なる保守排外の傾向にして一は極端なる開放博愛の傾向である。
と述べている(7)。中華思想の一面である保守排外の傾向は、「我々は世界の中心である」とする中華の自負心・自尊心が傷つけられた時に現れる。そして逆に、国家の自負心・自尊心が傷つけられる事がない時、開放博愛へと傾く。中華思想の保守排外の傾向が強いとき、自国と「夷・戎・蛮・狄」の差別は強烈になる。「裔は夏を謀らず、夷は華を亂さず」や「狄は聾・昧・頑・嚚の四姦具われり」と述べることなどはその表れである。そして、開放博愛の傾向が強い時、夷狄との婚姻・盟約が行われる。簡単に言えば、自分が危険だと思ったならば自分を守り、自分が安全だと思ったならば仲良くする。こう考えると、中華思想はなんとも単純なもののように見えてくる。

 漢民族が形成され、日常生活において礼の考えが重視され習慣となる。その漢民族の習慣は周辺の国とは違うものであった。漢民族からすれば、周辺の者たちは、「被髪して野に祭る者」のようであったのだろう。まだ、自分と他者との文化の違いを見ただけならば、周辺の国と友好関係を保つことができたのかもしれない。しかし、周辺の国が中華を圧迫する。その時、自己を守る必要が生じた。そこで、自らの文化を自らが尊いとする事で、周辺国家との格差を作った。そこで生まれたのが、「夷・戎・蛮・狄」の存在だった。ここに中華思想の二面性の完成を見る。

 那波氏は、「支那人は古来、異民族に対して寛容なる態度を示し、之を排斥しておらぬ」とし、その理由を支那人と異民族との婚姻が数多く行われているからだとしている(8)。すなわち、わが身に危険がない時は、周辺と友好的に接する事ができるのだ。いや、身の危険とは関係無しに友好的であったのかもしれない。そして、王の徳は全世界を包み込み、「禮聞取於人、不聞取人。禮聞來學、不聞往教」のように、中華の礼を学びに来る者は自由に受け入れる。

 昔の人が、自分の住む地域を「中心」と考えるのは自然であろう。中華思想は、簡単に言えば自己防衛の手段だ。攻められるから闘い、平和であれば闘うことは無い。ごく単純なのだ。
清朝時代、中国は「眠れる獅子」と呼ばれる。自らを誇り高く保つ事で自らを守ってきた。そうすることで、中国の徳と礼は世界へと広まる。しかし、むかし中国に住んでいた人々は「自分が一番」と思うだけでなく、なぜ「一番」なのかを考えた。その答えが中華思想であり、そこに中華思想が二千年以上も生き長らえた強さがあるのではないだろうか。

 
第二章 清朝の歴史について(清朝建国期)

 一、中国東北部の歴史

 中国東北部、その地域は未開発の森林原野におおわれている。そして、その土地に住む人々は狩猟が主な生活手段であった。満洲と呼ばれる中国東北部で、伝統的な社会や風土を形成していたのは、ツングースやモンゴルであった。そして、この中国東北部から、中国最後の王朝である清が生まれる。

 古来、満洲の地には、様々な民族や部族が住み、互いにあるときは対立し、あるときは融合同化しながら暮らしてきた。かれらは大別すればツングース系、モンゴル系、そして漢民族に分類された。ツングースは狩猟、モンゴルは遊牧、漢民族は農耕をそれぞれ特徴としていた。つまり満洲では、長い時代にわたって狩猟、遊牧、農耕という三つの文明がしのぎを削ってきたのである。三系統の民族のうちで、満洲の歴史上最も活躍してきたのがツングース系民族であった。満洲から起こった高句麗、渤海、金、そして清の各王朝は、いずれもツングース系民族によって作られている。

 漢民族も早い時代から満洲に入っていたようだ。前漢の時代には、遼東、遼西に二郡を置いた。満洲南部の遼東と遼西は、遼河の下流に広がる沃土に恵まれていた。そのため、漢民族はこの地域に定着を試みた。しかし、漢民族はその地域より北上する事は無かった。その理由は、気候の問題であり、遼東と遼西以外の地域では農耕が出来ないからだとされる(9)。前漢以後、漢民族の満洲への侵入はほとんど途絶えてしまう。再び、漢民族が侵入してくるのは、明の時代になってからであった。

 中国を元が支配していた頃、金が北京を首都として満洲・内蒙古・華北の一帯を治めていた。金はツングース系民族によって立てられたが、この頃、満洲のツングースは一般に女真と呼ばれていた。また、この金の時代は中国文化を積極的に取り入れていく。しかし、中国文化の導入は、女真としての精神を失い、中国人士大夫の生活を模倣して贅沢になり、女真族の文化さえも忘れ出す。そのうえ女真人は、政府の保護に慣れて怠惰になり生活の困窮を訴える者も続出した。女真人の中国文化心酔を食い止めようという試みはあったけれども、その勢いを止めることは出来なかった(10)。
 

十三世紀にモンゴルに滅ぼされてから統一を失い、十五世紀初めから明の支配を受ける。この時の女真は、満洲の地で狩猟や遊牧を続けるだけの民となっていた。女真は女直とも呼ばれるが、明代ではこれを三つに区分し、南方にいるのを建州女直、北方にいるのを海西女直、さらに奥地や日本海近くにいるのを野人女直と呼ぶようになる(11)。

 明は女真を三つに分け、さらに各部族集団を衛所制度の下に編成した(12)。各部族の長は、明の皇帝から官職を与えられていたが、実際には各民族の自治に任せておくという間接統治が行われている。そして、分けられた部族は、明の指定した交易所で各自が所有する勅書に基づき個別に交易する権利を認められていた。このように、女真を個別支配することは、女真の勢力を細分化するためであり、明との抗争を防ぐための政策であった(13)。

 小峰和夫の『満洲』に、

 女真族は共通して狩猟民族であったから、部落は一つの狩猟集団であり、かつ戦闘集団でもあった。当然ながら馬と弓の扱いに長けていた。(中略)部落には絶対的な権力をもつ酋長が存在し、村民はかれによって統率されていた。酋長は一種の特権身分であり、だいたい特定の家系によって世襲されていた。狩猟採集経済においては、どうしてもほかの部落や部族との縄張り争いが避けられなかったので、かれらは常時武装し、ほとんどの部落が柵や濠を備えていた。
 もともと女真族は、狩猟を基礎に採集、遊牧、農耕などを生業とし、基本的には閉鎖的な自然経済のなかで暮らしていた。しかし、すでに元の時代においても、女真族は中華=北京とのあいだに多少の交友関係をもっていた。これが明代になると、交易関係の本格的成立によって、女真族はしだいに自然経済から抜け出すようになった。明との交易では、狩猟によって捕獲される貂、狐、虎、豹などの毛皮、採集によって得られる人参、薬草、真珠、玉、金などがおもな提供品となった。これらのいわゆる天産物は、すべて酋長によって狩猟や採集の権利が独占され、許可を得た者はかならず収穫の一部を酋長に上納しなければならなかった。明との朝貢貿易が盛んになるにつれ、これら天産物の価値はみるみる上がり、これをインパクトとして女真族の社会は大きな変革期を迎えることになる。
とある(14)。

 明との貿易によって、女真族は経済的に発展し、しだいに大きな勢力が形成され、やがて部族国家が誕生する。それが、開原の東北にあるイェへ、開原の東南のハダ、瀋陽の東方の建州、吉林市の北方に位置するウラ、松花江の支流の輝発河畔のホイファである。海西女直のイェへ、ハダ、ウラ、ホイファはあわせてフルン四国と呼ばれた。松浦茂氏によると、フルン四国の中でも、ハダが中心となって女直全体を統制したようだ。また、ハダの最盛期はワン=ハンの時であり、このワン=ハンがハン(汗)を名乗ったことが、当時のハダの隆盛を表す証拠だとしている(15)。

 各部族の長が官職に任命される時に勅書が渡される。この勅書は官職の証明書であると同時に貿易(朝貢)の許可証でもあった。そのため、勅書の争奪が起こり、実力者の手に勅書が集中して行く。勅書の争奪は、貿易権の集中独占と国家権力の確立も意味するものであった。
ワン=ハンを首領としたハダは最盛期を迎え、海西女直の勅書を一手に集める。その勢いは海西だけではなく建州にまで及んだ。だが、一五七二年にワン=ハンが死んだ後、ハダは急速に衰え、イェへの勢力が増して来る(16)。

 この勅書の争奪をめぐる女直集団の激しい抗争を『満洲実録』では次のように記している(17)。

 時各部環満洲國擾乱者。有蘇克素護河部・揮河部・完顏部・棟鄂部・哲陳部。長白山訥殷部・鴨緑江部。東海窩集部・瓦爾喀部・庫爾喀部。呼倫國中烏拉部・哈達部・葉赫部・輝發部。各部蜂起。皆稱王争長。互相戰殺。甚且骨肉相殘。強凌弱。衆暴寡。
 (そのときに方々の国が乱れていた。マンジュ国のスクスフ部・フネヘ部・ワンギヤ部・ドンゴ部・ジュチェン部・長白山地方のネエン部・鴨緑江部・東海地方のウェジ部・ワルカ部・クルカ部・フルン国のウラ部・ハダ部・イェヘ部・ホイファ部のいたるところで、盗賊が蜜蜂の如く群れをなして起こった。それぞれハン・ベイレ・大臣を僭称し、村・一族を率いてたがいに戦い、兄弟の内でさえ殺しあいを行なった。一族が多く強いものが無力で弱いものを虐げたり強奪して、大いに乱れていたのである。)
 各々の部が覇権を争い、兄弟や一族の間ですら激しい権力抗争が展開する。まさに女直社会は旧来の秩序が崩れ、実力本位で競い合う大変動の時代だった。このような状況の中、ヌルハチが女真を統合していく。

  二、ヌルハチの出現

 秩序の乱れた大変動の時代の中、ヌルハチは女直の統合を目指す。

 十六世紀の建州女直は、五つの部から成り立っていたが、その五部を統一し、マンジュ国(グルン)と称した。マンジュ国成立後、ヌルハチの勢力は強大になり、それと同時に、ヌルハチの存在は海西女直の脅威となる。そこで一五九三年、海西女直のイェへ、ハダ、ウラ、ホイファのフルン四国を中心に北方の嫩江方面にいたモンゴルのホルチンとシボ、グワルチャ、南北の長白山地方のジュシュリ、ネエンの九国の連合軍が結成され、ヌルハチを襲撃してきた。だが、ヌルハチはこの軍をグレで大破した。その後、ヌルハチの権威は急速に高まり、周辺地域の住民はあいついでヌルハチに従うようになった。

 一五九九年、海西のイェへとハダが抗争を続けているのに乗じてハダを滅ぼす。ハダは、文化的にも経済的にも女真の中の先進国であったから、その併合はマンジュ国の国力や文化を大きく進展させた。さらに、一六〇七年にはホイファを倒し、一六一三年にウラを滅ぼした。また、野人女直のワルカ部・ウェジ部・フルハ部などの諸部族を次々と平定していく。

 この当時、ヌルハチと同等の勢力のあったシュルガチの死、ヌルハチの長男であるチュエンの死を境に、権力はヌルハチへと集中していく。満洲の内部統一をほぼ達成したヌルハチは、一六一六年、彼が五十八歳の時にハンに即位する。即位と同時に、先祖の女直が十二世紀に建国した金朝にちなんで、金(後金)の国号を制定している。

 三、ヌルハチと明朝の対立

 ヌルハチの勢力拡大には、明の遼東経営の統括者、李成梁が大きく関与している。ヌルハチは強大な統率力を発揮して特産の人参、貂皮、狐皮、虎皮、真珠などを掌握した。これらの品物は、李成梁を通じて中華市場に輸出し、互いに莫大な利益を得るようになった。李成梁と結んだヌルハチは、貿易を独占し莫大な利益を得ることができたのである。

 もともと女直にとって、明との交易や朝貢は、経済的に非常に重要なものであった。境界の辺門における馬市では、彼らは東北の山地特産の朝鮮人参や貂皮などの毛皮を漢人に売りつけ、かわりに中国の食料や衣料などを買い入れていたのである。当時の明は万暦時代であり、文化は爛熟し、経済界は景気がよく消費ブームに沸いていたので、毛皮や人参などの奢侈品や高価な薬に対する需要は旺盛であった。だが、ヌルハチと明との間で、利害の対立が激しくなる。

 女直が明に輸出している品目で最も比率を占めているのが、貂皮と人参であったが、特に人参における売買のトラブルが一六〇〇年代に多発している(18)。また、この時期は明との間で国境問題も激化していた。そして「棄地啗虜」と呼ばれる事件がおこる。この事件によって、一六〇八年に李成梁は、遼東経営の統括者としての任を解かれてしまう。李成梁の解任で、明との関係は円滑を欠き、明とヌルハチとの対立は表面化する(19)。

 ヌルハチは決意する。一六一八年、息子と重臣に向かって、明との戦争開始を伝える。戦争突入の前に、ヌルハチは「七大恨」を宣言する。これは明が侵した七つの罪が記されている。これを天に向かって告げ、戦争に勝利することを祈ったのだ。

 「七大恨」の内容とその説明文を次に記す(20)。 

 吾父祖於明國禁邊寸土不擾。一草不折。秋毫未犯。彼無故生事於邊外。殺吾父祖。此其一也。尚欲修和好。曾立石碑盟曰。明國與満洲皆勿越禁邊。敢有越者。見之即殺。若見而不殺。殃及於不殺之人。如此盟言。明國背之。反令兵出邊。衞葉赫。此其二也。自清河之南。江岸之北。明國人毎年竊出邊。入吾地侵奪。我以盟言殺其出邊之人。彼負前盟。責以擅殺。拘我往謁巡撫使者綱古里・方吉納二人。挾令吾獻十人於邊上殺上。此其三也。遣兵出邊。爲葉赫防禦。致使我已聘之女轉嫁蒙古。此其四也。將吾世守禁邊之釵哈・(即柴河)。山齊拉・(即三岔)。法納哈(即撫安)。三堡耕種田穀。不容収穫。遣兵逐之。此其五也。邊外葉赫。是獲罪於天之國。及偏聽其言。遣人責備。書種種不善之語。以辱我。此其六也。哈達助葉赫。侵我二次。吾返兵征之。哈達遂爲我有。此天與之地。明國又助哈達。必令反國。後葉赫將吾所釋之哈達虜掠數次。(中略)明國助天罪之葉赫。如逆天。然以是爲非。以非爲是。妄爲剖斷。此其七也。
 (第一の恨み。明の李成梁は一五八三(万暦一一)年にアタイ・アハイを討伐したときに、いあわせたヌルハチの祖父ギオチャンガ・父タクシをいっしょに殺害した。

 第二の恨み。マンジュと明とは一六〇八(万暦三六)年に講和して、今後はたがいに国境を侵犯しないと天に誓い、それを石碑に刻んで国境沿いに立てたが、明はそれを違反して、一六一三年から大砲と鉄砲を装備した兵一千名をイェヘに駐屯させている。

 第三の恨み。一六〇八年に和平を結んだ後も、明人による国境の侵犯はなくならなかった。そこでヌルハチは天命元(一六一六)年にフルガンに命じて、越境した五〇人余りを殺害させた。明朝はその措置に激怒して、ヌルハチが広寧に送った使者など一一人を鉄鎖につなぎ、フルガンを引き渡すように迫ったので、ヌルハチは拘束していたイェヘの一〇人を身代わりに殺害して、この問題を収拾した。

 第四の恨み。一五九七(万暦二五)年にフルンの諸部はヌルハチのもとに使いを遣って、数年前に九か国が連合して攻め込んだ非をわびた。そのとき双方はヌルハチとイェヘのブヤングの妹との婚約を取り決めて、それを天に誓ったが、イェヘはいつまでもそれを履行せず、一八年経た一六一五(万暦四三)年に、カルカ部のマングルタイに嫁がせてしまった。ヌルハチはこのようなイェヘの背信は、明のさしがねによるものと感じていた。

 第五の恨み。明は一六一五年に突然国境線を変更して、柴河・撫安・三岔児三地方の住民を立ち退かせ、その年に植えた作物を収穫させなかった。

 第六の恨み。一六一三年にイェヘが明朝に応援を求めて、後金はイェヘを滅ぼした後には必ず明を攻撃すると唆したので、明はただちにイェヘに兵を送った。ヌルハチは自ら撫順に出頭して、イェヘの言うことは偽りであって、マンジュがイェヘを攻めるのは、すべてイェヘ側に責任があると弁明したが、明はそれを信じなかった。翌年に明は下級官僚を高官に仕立てて使いさせて、詔書に叩頭するように脅したり、またさまざまな暴言をはいて辱めた。

 第七の恨み。ヌルハチは一五九九(万暦二七)年にハダを滅ぼして、その住民をマンジュ国内に移住させたが、明朝はそれに干渉してかれらをもとのハダ領内に戻らせた。ところがそれを見て、イェヘはハダの人民をイェヘ領内に連れ去った。)

 「七大恨」は、明に対する宣戦布告であると言われている。しかし、「七大恨」は明朝ではなく、天に向かって宣言している。すなわち、明は「天」に背いている。だから我々が征伐しに行く。そして、「天」に背いている明に負けるわけがなく、さらに明は「天」に背いているのだから我々が討つのも当然であり、これから我々が行う戦争は「天」に背かない正しい行為なのだと自らを正当化している。

 ヌルハチの「七大恨」と同様の例を過去にも見ることが出来る。金(一一一五年~一二三四年)の時代のことである。女真族完顔部の酋長であった阿骨打が、一一一四年に遼の寧江州へ進攻する時、天・地に対して、遼が犯した罪を宣言し加護を祈っている(21)。

 満洲族はもともとシャーマニズムの世界に生きていた。シャーマニズムの世界の中で「天」は特別な存在であり、善悪を判断し、幸福も罪をも与えるのである。そして、「七大恨」を見て分かるが、ヌルハチも、正しい行為をした者を「天」は称賛し、不法・不正な行為をした者には、罰が与えられると考えている。ヌルハチが「七大恨」を告げたのは、満洲族の伝統的な信仰によるものであり、ヌルハチは生涯を通じて天に従うことを信念として行動する(22)。

 ヌルハチは七大恨を宣言して出発する。まず、明との境界に近い撫順城を攻撃。ついで境界沿いの清河などをおとしいれた。一六一九年、サルフの戦いで明軍を大破した。この戦争が明清交代を予期させる戦となった。そして、明の開原城を攻め落とし、さらにモンゴルのカルカ部を支配下に入れた。その後、フルン四国の中でただ一つ残っていたイェへも滅ぼし、これによって全満洲族を統一することができたのである。

 こうしてヌルハチは全満洲を統一するのだが、明との対立において、なぜヌルハチから軍事的な衝突を開始したのだろうか。まず、経済的な困難である。李成梁の失脚により明との貿易はうまくいかなくなった。狩猟民族である満洲族にとって、明との貿易は重要なものである。さらに、満洲の地で農耕のできる土地は限られており、唯一十分な収穫を期待できる遼東・遼西の地域は明に支配されていた。そのため、ヌルハチの後金にとっての経済的基盤は明との貿易だったのである。また、この他の理由として、明の政治的な腐敗や遼東防備が弱体していたことをヌルハチが気づいていたことなどが挙げられる(23)。ヌルハチが最初に攻撃した場所を撫順に定めたのもこれでわかる。撫順のある遼東と遼西には、豊かな農地と豊富な労働力、食糧があった。

 ヌルハチは遼東を支配すると、満洲人を次々と遼東へ移住させる。そして、漢人の所有していた土地を取り上げ、満洲人へと分け与えた。さらに、後金に服属した漢人には、満洲人の慣習である辮髪を強制した。漢人への辮髪の強制は、満人と漢人の民族対立を生じさせた。凶作に見舞われると、漢人の反抗が激化し、反抗を助長するものは容赦なく殺された。漢人に対する弾圧政索はヌルハチが死んだ後も続いた。
ヌルハチはその後も遼西へと侵入するが、一六二六年、六十八歳で没した。

 ヌルハチの死後、ホンタイジがハンの位についた。満洲族の慣習では、漢民族のように長男が後継者になるのではなく、ハンが死ぬとその度ごとに有力な諸王が会議を行って後継者を決める。ヌルハチの後継者として、八人の名が挙がった。その中にホンタイジの名もあった。八人の地位はほぼ対等であり、その中から会議を行ってハンが選ばれる。だが、会議によってうまくハンが決定すればよいのだが、実際にはそうはいかない。ハンをめぐって八人の間でライバル関係が生まれ、互いの人間関係は複雑になっていく。ホンタイジはこうした権力争いの中からハンに即位することになる(24)。

 このホンタイジの時、大清国が成立する(一六三六年)。ホンタイジは、満洲人、モンゴル人、漢人から推挙されて皇帝の位につき、今までの女真人の中のハンではなく、満洲、モンゴル、漢の三民族の上に立つ皇帝となったのだ。この頃から、ヌルハチが行っていた漢人への弾圧政策はやめ、明に投降してきた文武の官人や知識人を積極的に受け入れるようになる。このときすでに、多数の漢人が清に支配されていた。そのため漢人支配のために中国的な制度を採用し、中国文化を尊重しなければならない状況になってしまう。しかし、清の国家の基本はヌルハチの代から続く八旗制であった。

 一六二七年、ヌルハチは朝鮮に出兵し、それから朝鮮との交易関係を保ってきた。だが、朝鮮は後金を夷狄とみなし、快く思わなかった。ホンタイジが大清皇帝として即位してもその態度は変わらなかった。そこで一六三六年、朝鮮に侵入し属国とした。

 その後も明との攻防は続くが、一六四三年にホンタイジは病死する。五十二歳であった。後継者としてフルンが即位する。これが、世祖順治帝の誕生である。フルンの即位と同じ年に北京入城(入関)を果たす。

 第二章では、中国東北部の歴史と清朝入関前の歴史について見てきた。

 清はもともと狩猟民族である。そのため、経済基盤を明との貿易に頼っていた。しかも、中国東北部で農耕可能な土地は限られており、それらの土地(遼東・遼西)は明に支配されていた。経済的基盤の確保が、清が中国本土に侵入してきた理由であろう。

 経済的基盤を得るために領土を拡大してきた。それと同時に多くの人々を領内に取りこんできた。特に漢民族の数は多く、満洲族の伝統を強制しても反抗するだけであった。そのため、中国の伝統文化を尊重し、満洲人が漢民族の中国文化に同化しなければならない状況となる。

 こうして清は多民族国家へと変化する。そして八旗制が、この多民族国家内の国内秩序の基盤だった。八旗は清朝独自の軍事組織で、政治・社会組織としての性格も兼ね備えている。八旗はヌルハチによって作られたが、ヌルハチが八旗を作らなければならなかった理由がある。満洲は建州女直の五部、海西女直の四部、野人女直の四部の計十三部に分かれていた(25)。しかし、これらの十三部は「血縁的な、或いは民族的な結合関係は認められない」(26)のだ。すなわち清は、同じ満洲族であっても民族の上で特別な結合関係を持たない、複数の部族から成る複合部族国家だったのであり、八旗制は、このような複数部族国家を結合するためのものであった。そして八期制度は、その後の清朝支配の中でも中心となる。
ヌルハチが亡くなりホンタイジが即位する。後金国は、狩猟民族・遊牧民族・農耕民族の上に立つ王朝、大清国となる。石橋崇雄氏は、これまでの清朝の歴史的位置づけについて二つの面から論じられていると述べており、「中国最後の『征服王朝』として位置づけられる面と、明朝に続く中国最後の伝統的専制王朝として位置づけられる面の二つである。しかも前者の場合には、部族社会・遊牧社会に立脚する王朝としての意味が含まれ、後者の場合には、前者と対置される漢族社会・農耕社会の中国的な王朝としての意味が含まれているといえよう」としている(27)。清は入関後、征服王朝とは別の、もう一つの王朝の面を加えることになる。

 清の多民族国家への変身は、漢族社会の中国的な王朝へと変化することであった。清と中国文化との交わりは清の中国支配以前からあり、清が生き残るためにはそれが重要であった。そして、中国文化を取り入れ、漢民族化することも同様である。

 朝鮮が清を夷狄とみなしたように、清は中華からすれば夷狄の国家である。しかし、征服王朝の一面と中国的な王朝の一面があったからこそ、二百五十年以上の長期にわたる国家として存在できたのであろう。
 

第三章 清の中国支配と正統性

 漢民族が古くから持ちつづけてきた思想がある。自らの国を中心とし、その外の地域を夷狄と見なす中華思想である。

 明の崇禎帝時代、皇帝は官僚を信用せず、自己中心的な行動を取る。結果、宦官に依存することになり、政治は腐敗していった。相次ぐ戦乱のために増税を繰り返された一般人民は、強い不満を抱いていた。

 このような状態だった明の時代を受け継いで、清は支配の安定を図らねばならなかった。だが、ここで清は中華思想の大きな壁に直面することになる。清は中華から見れば夷狄である。中華思想をもって、夷狄の王朝・夷狄の君主を否定する動きが現れる。漢民族国家である明の後を受けただけに、なおさら強い差別を受けたであろう。満洲族は過去に、支配した漢民族に満洲族の伝統を強制して失敗している。同じことを繰り返すわけにはいかない。しかも、中国本土を支配するには、この問題を避けて通ることは不可能である。

 清はどのようにしてこの中華思想と対峙し、漢民族を支配していったのであろうか。
 

一、ホンタイジの皇帝即位

 ホンタイジは大清帝国を成立させ、大清皇帝を名乗る。大清の国名や皇帝を名乗ることは、中国文化を取り入れたことになる。では、なぜ中国風の国名と皇帝を名乗ることになったのであろうか。まず、中国風の国名と皇帝を名乗ることで、多民族国家である清を円滑に支配しようとした事があげられる。ホンタイジが大清国を成立させる以前、既に領内に多くの漢人や蒙古人を受け入れ、その結果、八旗制も大幅に拡充された(28)。さらに、ホンタイジは権力の集中を図るために、中国的な皇帝と王という関係を導入し、満洲民族特有のハンと諸王との間に明確な区別を設けようとした(29)。しかし、後継者選びはあいかわらず諸王の合意によって行われたため、順治帝の即位時に再び抗争が起こる。

 石橋崇雄氏は、ホンタイジの皇帝即位を契機にして、古来中国で国家最高の典礼としてきた皇帝祭天の礼である天壇での祭祀を初めて行っているとし、この祭祀において注目すべき点を、「従来の堂子(30)における祭天典礼と新たに始めた天壇における祭天典礼とを同質のものとして、満洲族本来の信仰であるシャーマン教の祭祀と中国的な祭祀との両立を図っていること、堂子における祭祀を国家的な祭祀から旗人の各家における私的な祭祀に切り替えようとしていること、皇帝即位の際における一連の儀式において中国的な典礼と共に必ず遼の旧俗の影響で金代の女真がシャーマン教による拝天の祭儀に付随して行っていた「射柳」を継承する、弓を射る儀礼を実施していること」としている(31)。

 ホンタイジは、中国文化を取り入れ、漢民族化しようとしたわけではなく、満洲文化と中国文化との融合を試みている。

 皇帝即位は、清朝独自の支配体制を築く第一歩であった。

  二、「皇帝」の支配

 清は、漢代の即位儀礼を忠実に受け継いだとされる(32)。清が、漢代の即位儀礼を受け継いだことは注目すべきである。なぜなら漢の時代、「皇帝」に対する考え方が大きく変化したからである。

 「皇帝」の名称を始めて使ったのは、秦の秦王政である。以後、中国は二千年に渡って皇帝制度を存続し、「皇帝」の名は中国の支配者としての地位を確立する。しかし、時代の流れとともに「皇帝」に対する考え方も変化した。

 まず、秦の時代の「皇帝」とはどのようなものだったのか。

 史記秦始皇本紀第六に、

 丞相綰・御史大夫却・廷尉斯等、皆曰、昔者五帝、地、方千里、其外侯服・夷服、諸侯或朝或否、天子不能制。今陛下興義兵、誅残賊、平定天下、海内爲郡縣、法令由一統。自上古 來、未嘗有。五帝所不及。臣等謹與博士議曰、古有天皇、有地皇、有泰皇。泰皇最貴。臣等昧死、上尊號、王爲泰皇、命爲制、令爲詔、天子自稱曰朕。王曰、去泰著皇、采上古帝位號、號曰皇帝。他如議。制曰、可。
 (丞相綰・御史大夫却・廷尉斯等、皆曰く、昔者五帝は、地、方千里にして、其の外
に侯服・夷服あり、諸侯或は朝し或は否ざるも、天子、制すること能はざりき。今陛下、義兵を興し、残賊を誅し、天下を平定し、海内は郡縣と爲り、法令は一統に由る。上古より 來、未だ嘗て有らず。五帝も及ばざる所なり。臣等謹みて、博士と議して曰く、古、天皇有り、地皇有り、泰皇有り。泰皇最も貴し。臣等昧死して、尊號を上つり、王を泰皇と爲し、命を制と爲し、令を詔と爲し、天子自ら稱して朕と曰はん、と。王曰く、泰を去り皇を著け、上古の帝位の號を采り、號して皇帝と曰はん。他は議の如くせん、と。制して曰く、可なり、と。)
とある。ここに「皇帝」の名の由来が示されており、秦王政の行ったことは「天子」を越えるものであるとしている。

 始皇帝は、天下統一において法家の思想に影響を受けており、韓非を尊敬し、同じ法家の李斯を側近に置いた。法家は、儒家の礼を尊重する考え方を棄て、法と刑罰によって人民を支配することで君主権力の強化を図った。法家における君主は、その上に存在するものはなく、他者からの制約を受けない絶対的な存在であり、秩序の統率者であった。「皇帝」を名乗った始皇帝は、法家によって絶対的な権力を与えられた。

 時代は漢になり、この頃から「皇帝」を「天子」と呼ぶことが増える(33)。「天子」とは、封建制度をもって国を統率した周の「天子」のことである。このことは、秦から漢の間に、儒教の影響を受けていることを示している。

 儒家は、理想的な国家統治の考え方として王道論を唱えた。有徳の君子が天命、すなわち上帝の命を受けて君主となり、その徳によって人民を支配する。儒家において天と君主は分離しており君主に徳がない場合、天によって罰が与えられ、別の有徳者に天命を下す。

 法家によって絶対的な権力を与えられていた「皇帝」が、儒教の考えを受け変化が生じた。「皇帝」に「天子」としての地位も与えられたのだ。だが、この二つの名前は同一のものではない。「皇帝」には、国内政治における君主としての地位と権威を示す意味が与えられる。そして「天子」には、夷狄に対する中国の君主の権威を示す意味が込められていた。「天子」は、有徳者として天から天命を受けたのであり、その徳は全世界に及ぶ。

 秦代の「皇帝」は、「皇帝」が絶対的な存在だったため、その上に立つものは存在し得ず、その徳は郡県制内に留まるものであった。しかし、漢代の「皇帝」は、「天子」を付加させることで、徳による夷狄への支配も可能にした(34)。同時に天によって選ばれた者である「天子」を名乗ることで、上下の差別関係を明確化することになった。

 明代の皇帝も同様である。「皇帝」として国内の秩序を保ち、「天子」の徳をもって国内外を支配下に置いた。そして清も同様に、と言いたいところだが、清朝の「皇帝」は以前よりも変化したと言えるのではないだろうか。なぜなら、「皇帝」の中に「ハン」の意味も含まれているからだ。

 清の支配構造を見ると、中央では郡県制による直接統治が行われている。そして藩部では、民族、宗教、慣習が著しく違うために間接統治が行われている。藩部にはモンゴル人もいるため、彼らの上に立つために「ハン」を名乗ることが有効だった。

 清は中国古来の「皇帝」観を利用した。中国本土に侵入する前に、多くの漢民族を取りこんでいたことが原因であろうが、結果、清朝独自の「皇帝」が生まれた。中国内地では「皇帝」、藩部では「ハン」、全世界では「天子」として存在したのだ。

 こうして、清の皇帝は大きな権力を保持することになる。この事は同時に、「皇帝」を名乗る者も、その名に相応しい人物でなければならないことを意味する。そして「皇帝」は、さらに有能な徳を持つ者に「皇帝」の位を譲る義務がある。

 ヌルハチの代から、ハン位継承には抗争がつきまとってきた。清になって清朝独自の「皇帝」が生まれたことは、皇位継承法も今までの弊害を無くした新しい方法を作り出す必要性が生じてくる。
 
  三、皇位継承

 順治帝は、漢民族を明の旧制を踏襲することで支配する一方、満洲族を中心に考えた政策が強行され、薙髪や衣冠等については異論を認めないことを宣言している。だが、『世祖章皇帝実録』に、「且漸習漢俗。於淳樸舊制。日有更張。以致國治未臻。民生未遂。是朕之罪一也(且に漸く漢俗に習はんとす。淳樸の舊制に於いては。日、更張する有り。以て國治を致すに未だ臻らず。民生未だ遂はず。是れ朕の罪の一なり。)」と死ぬ間際に残す程、漢文化を取り入れたことに後悔の念を持っていた。順治帝は明の制度を踏襲し、その制度を受け継いだのが康熙帝である。そして康熙帝は、清で皇太子制によって皇帝に即位した初めての人物であった。だが康熙帝の場合、順治帝の死と皇太子の決定と皇帝即位がほぼ同時に行われたので、皇帝が健在中に皇太子を立てるのとは全く違う(35)。とにかく諸王の合意によって皇帝を決める継承法に比べると明らかに変化している。

 康熙帝は、順治帝と同様に中国の制度を多く取り入れ、皇位継承も中国風に皇太子制を取ることになった。だが、康熙帝から次代への皇位継承は失敗と言えるだろう。同じ人物を二度皇太子に立て、同人物を二度皇太子から降ろしている(36)。結局、康熙帝は死ぬ間際に後継者を告げた。その後継者が雍正帝である。雍正帝は後継者選びに新しい方法を取り入れる。皇太子に指名した者の名を記し、厳重に封をした後、乾清宮の正面に掲げてある「正大光明」の額の裏に置き、皇帝の死後に開封して公表する密建の方法である。

 皇帝を継承するものは、有徳有能な人物でなければならず、そのために密建制は有効だと言える。中山八郎氏は密建制が有効だとする理由について、「皇帝が皇子の誰を後継者とするかは皇子等の言動の評価によって決まるわけで、一度密建されたものでも、その後の言動の如何によって簡単に書き改められるから、素質のよい皇子達は政界の渦中に巻き込まれずに、学問修養に打ち込んで人間的実力の涵養に励み、静かに時政を傍観してその利弊得失を的確に把み、政治的識見を涵養にするに努め、再び康熙帝の皇太子の様に取り巻きの者に誤られたり、野心家に利用されたり、自らの地位に奢って狂疾に陥ったりすることがなかった」からだとしている(37)。

 前述したが、満洲族は諸王の中で最も優れている人物を諸王の合意によってハンとした。この決定方法は、ライバル関係を生みやすく、事実、後継者選びでは必ず抗争が起きていた。だが、これが狩猟民族的であり、実力主義の決定方法だと言える。

 中国風の「皇帝」を名乗り、皇位継承も中国風の皇太子制にすることは、上下の差別化を強くし、皇位継承時に生まれるライバル意識と抗争を消すことになる。すなわち、満洲族の狩猟民族的・実力主義的な気質を失いかねない。そこで雍正帝は、中国風の皇太子制に実力的気質を盛り込もうとした。それが密建制であり、そうすることで争いはなくすが互いのライバル関係を保持し、「皇帝」が満洲族のアイデンティティーを忘れないようにしたのである。

  四、清の支配体制

 清には一つの大きな問題があった。中華思想である。清は夷狄であるという信念が漢民族には存在していた。夷狄による王朝・夷狄による皇帝を否定する考えに、清がどのように対処したのだろうか。

 まず、征服王朝としての清をかき消そうとする。すなわち、ホンタイジが皇帝を名乗ったことからも分かるように、中国風のものを受け入れることである。支配体制の多くの面で明の制度を受け継ぎ、入関後も明代からの中国内地構造を維持したことは、清が明の後継者であることを証明したかったからであろう。さらに、「天命の去った明に代わり、清が天下を治めるのだ」と宣言することで、清が中国伝統の易姓革命によって成立した王朝であることを示そうとした。

 清の皇帝の中で、順治帝・康熙帝の二人はおおいに中国文化を受け入れたと言える。順治帝は、漢民族の文化をあまりにも尊重しすぎたことを悔やんでいるが、順治帝の漢族文化の採用は、結果的に清の中国支配に必要なものとなる。順治帝の行った、明代を踏襲した支配体制は康熙帝に受け継がれ、雍正帝によって完成する。

 ハン位継承時、ハン位継承候補となった者の間には、必ずライバル関係が生まれ、抗争が起きる。継承候補者間の力関係は対等であり、その対等関係は、ハンが決定した後も続く。

 「ハンの地位を諸王よりも一段上に位置づけること」(38)はホンタイジの頃から行われていたがまだ実現しておらず、長い間の念願であった。ホンタイジは「皇帝」を名乗ることで、天―皇帝―諸王の中国的な上下関係を作り出そうとしたが不十分であった。

 雍正帝のことを「独裁君主」(39)と称するが、それは雍正帝が「ハンの地位を諸王よりも一段上に位置づけること」に成功したからである。まず、臣下が党派を組むことを禁止し(朋党の禁止)、各地方から帝に直接送付されてくる奏摺(私的な上奏文)に自筆で意見を書き入れ返送することで、皇帝自身が国の隅々まで監視した(40)。これで、「ハンの地位」が一段上に上がり、集権的国家の形成に成功する。これと同時に清の夷狄による中国支配に一大変革が起こる。

 清朝歴代の皇帝は、華・夷の区別を受け入れ、清=夷狄であると自らが認識していた。そして、清=華にすることが中華思想の壁を乗り越える手段とし、そのために漢民族文化の導入を重要視していた。しかし、雍正帝は違う視点から中華思想の壁に挑んだ。その集大成が『大義覚迷録』である。これにより、清=華の関係が成立した。すなわち、「中国とは古来領域拡大を続けている地域であり、領土拡大のたびごとにそれ以前の夷を併合して新たな華として成長してきているのだから、中国は古来、華と夷からなる多民族国家であった」としたのだ(41)。これで清は華になった。そして、清=夷狄であるために中国の支配者としての正統性を失うこともなくなった。

 こうして、清は堂々と満洲民族の王朝であると宣言することができるようになる。中華思想による壁は消失し、清は天命によって選ばれた国家となることができた。

  五、八旗制度

 清朝の軍事・行政組織は、八旗制が基盤である。

 八旗とは、八つの軍団から成る組織であり、八旗制成立の目的は、「血縁的な、或いは民族的な結合関係は認められない」満洲族特有の独立した複数部族を結合するためのものであった。ハン=皇帝を頂点に置き、その下に八旗制により整備された満・蒙・漢の三民族がいる。しかし、ハン=皇帝を頂点としているものの、皇帝が八旗全てを独占しているわけではなかった。皇帝自身が所有する八旗は三つほどであり、その他の旗は各旗ごとにトップに立つ人物=王が存在し、その王が旗を掌握していた。各旗は相互に独立し、旗人はその所属する旗の王にだけ忠誠を尽くす構造になっていた(42)。

 清は中国的な制度・伝統を取り入れる事で、皇帝による中央集権国家を確立しようとしてきたが、皇位継承時の問題を見ても分かるように、八旗制を続けている限り、旗の諸王に権力は分散され皇帝が独裁君主となるのは不可能であった。

 清朝は重要な国事の決定には、皇帝および八旗の諸王と有力な旗人(八旗に所属する人)の会議によって決定することになっていた。この会議のことを議政王大臣会議と言い、皇帝を補佐する機関とされるが、会議の中では皇帝も八旗の一諸王と見なされており、皇帝の権力は旗王と同等のものであった(43)。

 雍正帝の時代になり、八旗制度の改革が行われた。改革が行われた理由は、権力の集中化を目指すためだけでなく、旗人の生活の変化にもある。今までは旗ごとに自給自足的な生活が営まれてきたが、中国風の生活を好むあまり、給与によって生活する者が増え始めたのだ(44)。ここにおいても中国文化の影響が表れてきた。

 こうして雍正帝は、当時の時代に合った八旗制の確立に動き出す。軍機処の設置は、旗王の権力低下に成功し、皇帝への権力集中化が進められ、八旗自体の改革により、八旗全てを皇帝権の下に統括することになる(45)。そして、中国文化に慣れた旗人に合わせた八旗制度を作り出した。しかし、八旗制の再編は、後の皇帝の気質に変化を生じさせたと考えられる。このことについては後で述べる。

 雍正帝の「独裁君主」への道は、八旗制の改革が大きな鍵を握っていた。朋党の禁止や奏摺制度、密建制も権力集中化のために重要であったが、八旗制の改革なしでは不可能だったかもしれない。雍正帝の行った改革は相互不可分であり、結果的に「独裁君主」となったわけではなく、「独裁君主」になるために行われた改革であった。

 八旗制の改革は、満洲族特有の部族社会を結合するための横のつながりを、中国伝統の中央集権国家を完成させるために、縦のつながりに作り変える。『大義覚迷録』は、華・夷の別を消滅させ、清が天に選ばれた正統なる国家であることを宣言する。

 清朝独自の支配体制を実現した時である。

  六、満人皇帝の苦悩

 清は、自らが「中華」であることを証明するため、明代制度の踏襲、「皇帝」の使用、皇太子制による皇位継承など中国文化を取り込んできた。最終的に雍正帝の『大義覚迷録』で、中華は華・夷からなる国家であることを宣言した。これで清は正統なる中華王朝の継承国家となった。

 清の正統性は証明された。順治帝が入関を果たしたのが一六四四年、『大義覚迷録』が世に出るまでに八十年かかっている。その間に社会も変化した。清の根幹とも言える、旗人(八旗に所属する人)が漢化していく。平和な世の中が続き、旗人本来の任務である戦闘の機会もなく、旗人生活は奢侈、堕落していく。八旗の精神、いや満洲族の精神である武の精神が失われていく。この状況をみた雍正帝は、以前の八旗が備えていた武を尊び、倹約を心がける精神を取り戻すように勅諭を出している。乾隆帝時代には、清朝発祥の地である中国東北地方にまで漢文化が浸透したため、漢人が無断で立ち入り定住することを禁止した(46)。

 清は、中国支配における正統性を確立できた。しかし、清朝が正統性問題に躍起になっている間にも漢民族の民衆文化は、確実に清全体に広まっていた。

 「文字の獄」・「禁書」は漢人知識人がターゲットである。漢人の精神活動の中に存在する清=夷狄とする考えを片端から弾圧した。十六世紀半ばから一世紀半続き、漢民族のすばらしい文化が世に出ることを許さなかった。

 「文字の獄」・「禁書」は、華・夷の別により清を夷狄と見なしたことが原因で行われた。「文字の獄」はその名の通り、清を謗る言葉や清を夷狄と称すれば即刻罰せられた。「禁書」処分となる基準については、第一に反満を意図して匈奴・金・元など異民族政権の故事を歪曲している、第二に辺防や従軍など外国を敵視し、漢民族の興隆を願っている、第三に党争や異端など明代の軽佻浮薄を伝えている、第四に清朝から弾圧された文人(銭謙益、屈大均、呂留良ほか)の著作はいうまでもなく彼らの序文や贈詩が収録されているからとしている。だが、この理由とは関係なしに多くの書物も禁書処分にされている。漢民族が自己文化を知るための歴史、文学、政治、百科事典にあたる地方志などが焼却され、中華の社会を動かしている行政、法律、賦役、治水、経済などの専門書も対象になった(47)。なぜこれらの書物も対象になったのか。それは清の正統性の問題とは別に、満洲民族のアイデンティティーが失われようとしていたからである。

 漢民族の文化は、明らかに満洲族文化より優れていた。満洲族王朝である清朝自体が、中国文化を利用して支配体制を築き上げてきたのだ。中華社会は清朝の中で生き続けている。民衆として生活している満洲人が漢民族の民衆文化を受け入れないわけがない。しかも、その文化は一度はまったら止められない麻薬のようなものである。文化の流入を妨げる手段を満洲人は考え出せない、というよりも考え出す必要もない、中国文化に浸かっている方が幸せだと思う満洲人もいたかもしれない。しかし、中国に一人だけ、このことに最も危機感を感じている人物がいた。それが清朝皇帝である。

 中華思想では、対外における最高の武器は徳である。「天子の徳によって治められた国」であることが他国に対する武器なのである。徳は全世界に及び、徳の恩恵を受けたいと思う者は中華の礼を学び仲間入りする。明は中華思想に基づいて他国と渡り合った。国内の充実を重要視したのも、国内が充実すれば天子の徳は自然と全世界に及ぶと考えていたからだろう。漢人皇帝は、徳の尊さを信じて疑わなかった。だが、満人皇帝の場合どうだろうか。国内を支配するためには徳を利用しなければならなかったが、対外的には徳は役に立たないと感じていたのではないだろうか。

 平和が続き、満洲族が堕落していく姿を目の当たりにする。それは明らかに漢民族文化が原因である。「文字の獄」・「禁書」は清朝の正統性を求めるために行われた。だが、雍正帝・乾隆帝時代のそれは、中国文化への危機感・中華思想への疑問から行われたのではないだろうか。

 中国文化に酔い堕落していく民衆。もし、その状況で軍事的危機が起きたらどうなるか。清の武器は徳しかない。徳で他国と戦闘が出来るだろうか。だからこそ「文字の獄」・「禁書」が必要だった。満洲族と漢民族を切り離し、満洲人に漢民族の文化と接する機会を与えないようにした。清の根幹である八旗には、満洲族としてのアイデンティティーが必要であった。なぜなら、八旗こそが対外に対する最終武器でなければならないから。

 中国文化は楽観的であり、多彩であり、楽しい。漢民族は辮髪を強制されても、いつのまにか漢族風にアレンジしてしまうほどだ。満洲民族にとって、漢民族文化がどれだけ楽しいものに見えたであろうか。満人皇帝も中国文化のすばらしさを分かっていたはず。しかしそれを吸収した後のリスクは大きい。民衆の堕落の奥に清朝の滅亡が見えた。だからこその処置だった。

 漢民族化と中華思想の克服は、清の支配体制存続になくてならないことである。だが、皇帝は気づいてしまった。漢民族化は清の滅亡につながり、中華思想では他国と戦えないことを。
満人皇帝だからこその苦悩である。

七、マカートニーの予感

 中国を訪問したマカートニーは、中国について、

中華帝国は有能で油断のない運転士が続いたおかげで過去百五十年間どうやら無事に浮かんできて、おおきな図体と外観だけにものを言わせ、近隣諸国をなんとか畏怖させてきた、古びてボロボロに傷んだ戦闘艦に等しい。しかし、ひとたび無能な人間が甲板に立って指揮をとることになれば、必ずや艦の規律は緩み、安全は失われる。艦はすぐには沈没しないで、しばらくは難破船として漂流するかもしれない。しかし、やがて岸にぶつかり粉微塵に砕けるだろう。この船をもとの船底の上に再び作り直すことは絶対に不可能である。
と述べている(48)。事実、それから四十年後、中国は砕け始める。

 マカートニーは中国に自由貿易を申し込むためにやってきた。イギリスからの要望は第一に、商取引として対等の貿易を認めること。第二に、貿易に従事する人間の居住を認め、国内旅行を許すこと。第三に、特定の地区を提供し、そこには貿易商人などが居住し、清国の官憲は立ち入らないこと。これらの三点に要約される(49)。しかし、これらの要望はすべて却下される。その理由の中に、中華思想的な考え方、および地大博物である中国は自給自足であって外国貿易を必要としないが、相手国が困るから恩恵的に貿易をしてやるのだという考え方がはっきり出ている(50)。

 だが、マカートニーには通商条約を結ぶ以外にもう一つの使命があった。「清朝の実情を観察すること」(51)である。この使命は成功した。マカートニーの意見は鋭い。マカートニー使節団が中国を訪問したのは一七九〇年代、清の支配は弱体化への道を進んでいた。独裁君主の体制を受け継いだ乾隆帝であるが、受け継いだだけで、康熙帝・雍正帝と比較してみても十全武功以外何か新しいことをしたわけではない。周辺領域の領土拡張を目的に、十回の大遠征を行った乾隆帝は、この大遠征を誇って十全武功と称した。これによって中華世界は拡大し現在の中国の原形となる。その功績は多大なものだが、十全武功後の清朝の状況を考えるとなぜ十全武功を行う必要があったのか、と疑問が残る。しかも乾隆帝は武功と同時に、康熙帝の真似をして江南地方への巡行を行っているが、質素な巡行を行った康熙帝と違い、乾隆帝の巡行は豪華そのものだったとされる(52)。このことも踏まえて十全武功を行った理由を考えると、清朝の領土拡大・近隣諸国の平定を狙って行われたとする以外にも康熙・雍正時代に貯えられた財の使い道を求めた結果、十全武功を行ったのではないかとも考えられる。

 乾隆帝は、康熙帝・雍正帝とは違った。十全武功は領土を拡大させたが、国内は退廃の一途をたどる。康熙・雍正の両帝による内政改革の偉業を後に受け、さしたる危機感もないまま即位した乾隆帝であれば、両帝の後を受けて十分な政治効果を発揮できるだけの内政能力を備えていなかったのであろう(53)。

 一六八九年、康熙帝はネルチンスク条約を結ぶ。朝貢貿易を主とする中国では珍しい両国互恵平等の条約だった。条約締結後、ネルチンスク条約は中華思想に合わないことを理由に、国内において都合の悪い条約になってしまう。

 康熙帝が中華思想について知らなかったはずはない。清朝自身がロシアのことを夷狄とみなしている。その証拠に、条約締結後、漢人の酷評を聞くと直ちに、漢人の都合の良い、中華思想に基づいたものに内容を変えていること(条約変更と言っても中身だけであり、実際の交易は対等な関係で行われた)などは漢人対策であり、この時から中華思想の壁にぶつかっている。この中華思想に反した康熙帝の行動は、国際関係において中華思想にとらわれない新しい風を吹き込もうとしたためではないだろうか。

 康熙帝・雍正帝は新しいことを行うことで中国を支配してきた。革新性を持って中華思想に挑戦した。乾隆帝にその革新性が見られるだろうか。精神的にも満人皇帝として君臨してきた歴代皇帝であるが、乾隆帝にはその精神が欠けていた。皇帝自身が漢民族化してしまった。この時、対外に対する武器も中華思想ただ一つになってしまう。

 マカートニーの観察は鋭かった。マカートニーが、乾隆帝をどう評価したかを知ることはできないが、マカートニーの言葉は、清朝皇帝だからこそ持っていた満洲民族としての気質が、一般民衆に浸透していないことを示している。

 雍正帝の危機感が当たってしまう。対外に対する武器は中華思想のみ。そして皮肉にも、清朝崩壊の原因は中華思想にあった。
 

第四章、清と中華思想のバランス

一、中華思想の中の清

 清の歴史は、中華思想との対決である。入関から満洲族と中華思想との対決は始まっている。明は満洲族を「夷狄」として支配してきた。そして満洲族自身が、「夷狄」であることを自覚して支配されてきた。しかし、ついに華・夷が逆転する時がくる。夷狄である清が、漢民族を支配する。ヌルハチは七大恨の中で、「天命はわれらにある」ことを訴えている。天を味方にした清は中国本土への侵入を達成する。
夷狄である清が華を支配する。歴史的に言えば、中華に君臨した清は中華王朝=清となった。だが、国内ではどうだろうか。まだ夷狄のままである。漢民族は、清を正統なる中華王朝として認めていない。ホンタイジが「皇帝」を名乗ったのも、清=華の関係を作り出すためであり、順治帝・康熙帝が明代の支配構造を踏襲し中国文化を受け入れたのも同じ理由からだ。中華思想における華の中に、清を組み込むことが清朝存続の手段だと考えていた。

 康熙帝の時代までは、清が中国を支配してはいるが中華思想を克服していない。中華思想の中へ飲み込まれようとする清の姿が見える。さらに民衆も中国文化に飲み込まれていく。しかし、その姿とは反対に、満洲民族のアイデンティティー喪失を食い止める姿も存在した。漢民族への辮髪の強制も清朝支配を象徴させるためだけでなく、満洲族の伝統を残すためでもあり、八旗制度の存続もそのためである。だが、それよりも清朝皇帝自身が「清=夷狄」と自覚していたことが、満洲民族アイデンティティー喪失に対する有効な歯止め役になっていたのだ。

二、「漢人」乾隆帝

 歴代の皇帝は、「華=清」を目指して漢文化を吸収し、それが中華思想の克服につながると考えていた。雍正帝は、この視点とは別の角度から中華思想の壁に挑戦する。「夷狄は夷狄のままでいいじゃないか」これが雍正帝の答えである。中国は華・夷からなる国であることを宣言する。要するに、国内の華・夷の別をなくそうとした。ここに、華・夷の一つになった中華帝国が誕生する。

 雍正帝の中華思想に対する答えであった『大義覚迷録』も、中華思想を変化させる前に消えてしまう。乾隆帝は父である雍正帝の自信作を禁書処分にする。乾隆帝は『大義覚迷録』の何を不安視したのだろうか。

 『大義覚迷録』は、華・夷を統合したわけだが、それは今までの中華世界システム(冊封体制)をも変化させることにつながる。乾隆帝の不安はそこにあったのだろう。新しい中華世界を築こうとした雍正帝であるが、乾隆帝はその部分までは受け継いでいなかった。革新よりも保守を取ったのだ。

 ここにおいて八旗制の再編によって生じた弊害が出てくる。乾隆帝以前の皇帝は、抗争の中から現れた人物であった。満洲人のアイデンティティーを備えていた。雍正帝の後を受けた乾隆帝は違う。密建制により即位した皇帝であり、限りなく漢人に近い皇帝であった。乾隆帝は、八旗制再編で、皇帝自身が八旗を統括できるようになり、以前の八旗のように集団間で争うこともなくなった。そのおかげで乾隆帝は抗争なく即位できた。だが、満洲族の気質を失ったのも八旗制の再編のためである。満人皇帝ならば武の精神を忘れた旗人を戒めることもできたであろうが、乾隆帝では無理であった。そして、漢族化を防ぐ役割もしていた八旗制も、既にその役割を担うだけの力は消失していた。

三、清朝存続の力

 清朝の歴史は中華思想との対決である。夷狄の王朝として君臨した清は、中華思想の持つ保守性に立ち向かった。清の中華思想に対する武器は「革新」である。

 順治帝の死ぬ間際、漢文化の採用を後悔した言葉は、満・漢の融合ができなかったことに対する後悔の念なのだろう。順治帝の漢人安定政策であった明代の踏襲と満人を中心に据えた支配政策(辮髪の強制等)は、あまりにも両極端で反発が大きく、両文化が融合し新しい中華秩序を作り出すには無理があった。康熙帝も中国伝統の国際関係に新しい風を吹き込もうとするが大きな反発を受ける。だが、ついに雍正帝が華・夷の統一を果たす。ここまでは中華思想に対する挑戦である。

 中華思想への挑戦。これが、満洲民族が中国に存在している証明だった。清は、中華思想との対決により清が存在するパワーを作り出していた。そして、そのパワーが革新性となり、華・夷の融合へとつながる。

 雍正時代は、清朝の中でも最盛期と言える。漢人に対して厳しい思想統制が行われてもその徳はしっかりと民衆を包み込み、どんなに民衆が堕落しようともその厳しさで戒めることができた。だが、この時すでに清朝の滅亡への道はスタートしていた。

 八旗制の再編は、漢人皇帝の気質喪失につながり、『大義覚迷録』は清朝の革新性をストップさせる要因となる。すなわち、雍正帝以後の皇帝には、清朝歴代皇帝以上の満人気質と『大義覚迷録』と同等以上の革新を行うことのできる、有能な徳を持つ天子が誕生しなければならない状況を作り出したのだ。

 有能な天子は現れなかった。ついに清の革新性は止んだ。清朝皇帝が持ち続けた満人気質も失われた。清朝存続の力を生み出すことはもうない。

 この状況に陥った後、「中国に必要とするものはない」と自らを高く保つことで、他国に対する防御壁を作った。他国に対する清朝延命のための手段は、その「おおきな図体」と中華思想に頼ることだけである。

四、中華思想の役割

 内山完造氏は、中国の城は全体的に見て凹字型になっており、その中に市街がある。そのことから中国の城を「市街に施せる武装」と例えている(54)。

 中国の城は、日本人である私達が意識する城とは違う。城=城壁を指している。中国の自然環境は日本とはまったく違う。中国の大地は果てしない。その環境が城を重要視する要因になる。果てしない大地のどこから現れるか分からない敵の侵入を防ぐために、高く丈夫な城を築かねばならない。

 『書経』禹貢篇の五服を見ても分かるように、中国人は一定の場所から内側を中華と称した。中華とその外には境がある。それが中華思想だった。

 中華思想は中華を守る防御壁である。だから中華思想は高く丈夫でなければならなかった。中華思想に開放博愛と保守排外の相対する二面性が存在する理由がこれで分かる。壁の門が開いているときは開放博愛であり、閉まっていれば保守排外である。

 乾隆帝以後、清朝は崩壊への道を進む。だが、半世紀以上延命できたのは、中華思想の誇り高く(傲慢)、厚い壁のおかげである。
 

あとがき

 歴史において「もし」という言葉を使うのは間違いだと思うが、あえて使いたい。

 もし、マカートニーが雍正帝の時代に中国に来ていたら、中国をどのように評価しただろうか。もし、マカートニーが雍正帝に会っていたら、雍正帝はマカートニーにどう接するのだろうか。

 歴史が変わったなら、中華思想に対する私の思い込み(中華思想=奢り高ぶる)も変わっていたかもしれない。

 質問の答えは永久に見つけることはできない。私の勝手な考え事である。
 

(1) 岡田英弘、「中国文明の原型」70頁~71頁(『漢民族と中国社会』 山川出版社 1983)

(2)越智重明、「華夷思想の成立」45頁(『久留米大学研究所紀要』11 1992)

(3)松丸道雄・永田英正、『ビジュアル版世界の歴史』111頁~112頁 講談社 1985

(4)田村和親、「西周期における徳の構造と機能 殷周統治形態論序章」72頁(『二松学舎大学論集』第31号 1988)

(5)那波利貞、「中華思想」38頁~39頁(岩波講座『東洋思潮』1934)

(6)竹内実、「究極の価値 中華思想」182頁(『アジア人の価値観』 アジア書房 1999)

(7)前掲書(5)53頁

(8)前掲書(5)54頁

(9)小峰和夫、『満洲‐起源・植民・覇権』6頁 御茶の水書房 1991

(10)江上波夫、『北アジア史』215頁 山川出版社 1956

(11)細谷良夫、『マンジュ・グルンと「満洲国」』115頁(『シリーズ世界史への問い8 歴史の中の地域』 岩波書店 1990)

(12)前掲書(11)118頁 明は女真を建州・野人・海西と三つのブロックに分け、その下に十三の部が存在する。さらに各部の内部では血縁的集団と地縁的な小村が独立を競っていた。

(13)前掲書(11)116頁

(14)前掲書(9)8頁~9頁
 
(15)松浦茂、『清の太祖ヌルハチ』38頁 白帝社 1995

(16)前掲書(15)51頁~56頁に、ハダとイェへは宿敵関係であったとされ、ハダとイェへの抗争について述べられている。

(17)今西春秋訳、『満和蒙和対訳満洲実録』28頁~30頁 刀水書房 1992年。訳については、前掲書(15)57頁

(18)前掲書(15)184頁~185頁

(19)前掲書(15)186頁~191頁

(20)前掲書(17)300頁~306頁。説明文については、前掲書(15)192頁~193頁

(21)前掲書(15)194頁

(22)前掲書(15)196頁~198頁

(23)前掲書(9)26頁~27頁

(24)前掲書(15)262頁~267頁に、ヌルハチの後継者争いについて記されている。

(25)注(12)参考

(26)前掲書(11)125頁

(27)石橋崇雄、「マンジュ(manju,満洲)王朝論‐清朝国家論序説」286頁(『明清時代史の基本問題』 汲古書院 1997)

(28)前掲書(9)31頁

(29)前掲書(27)305頁
 
(30)【堂子】=清代、帝室が土穀の神を祭った場所。『中日大辞典』増訂第二版 大修館書店 1996

(31)前掲書(27)306頁~307頁
 
(32)川勝守、「清朝皇帝の儀礼と支配の構図 即位と崩御を中心として」(『明清時代の法と社会 和田博徳教授古稀記念』汲古書院 1993)

(33)西嶋定生、『中国古代国家のアジア世界』67頁 東京大学出版会 1983

(34)前掲書(33)88頁~89頁

(35)中山八郎、「清朝皇帝権について 乾隆・嘉慶・道光朝」397頁。『中山八郎 明清史論集』汲古書院 1995

(36)世界歴史大系『中国史4 明~清』(山川出版社 1999)345頁~347頁に康熙帝の皇位継承問題について詳しく述べられている。

(37)前掲書(35)398頁

(38)石橋崇雄、『大清帝国』157頁 講談社 2000

(39)宮崎市定、『宮崎市定全集14 雍正帝』 岩波書店 1991

(40)前掲書(36)351頁~352頁

(41)前掲書(38)210頁~211頁

(42)前掲書(38)84頁

(43)前掲書(36)375頁

(44)前掲書(36)354頁~356頁

(45)軍機処の役割については前掲書(36)352頁~353頁。八旗制の再編については、注(44)参考

(46)雍正帝の勅諭については、前掲書(36)353頁。乾隆帝の封禁政策については、前掲書(36)382頁

(47)岡本さえ、「中華における比較文化的意識の特徴」115頁~116頁。(『東洋学報』75 東京大学出版会 1995)

(48)マカートニー著、坂野正高訳、『中国訪問使節日記』220頁~221頁 平凡社 1975

(49)前掲書(6)165頁

(50)前掲書(48)326頁

(51)坂野正高、『近代中国外交史研究』258頁 岩波書店 1970

(52)宮崎市定、『宮崎市定全集13 明清』285頁 岩波書店 1992

(53)前掲書(38)214頁

(54)内山完造、『中国人の生活風景』27頁~31頁 東方書店 1976
 

参考文献
  第一章
・『漢民族と中国社会』 山川出版社 1983

第二章
・世界歴史大系『中国史4 明~清』 山川出版社 1999
・小峰和夫、『満洲‐起源・植民・覇権』 御茶の水書房 1991
・『シリーズ世界史への問い8 歴史の中の地域』 岩波書店 1990
・松浦茂、『清の太祖ヌルハチ』 白帝社 1995

  第三・四章
・世界歴史大系『中国史4 明~清』 山川出版社 1999
・ 西嶋定生、『中国古代国家のアジア世界』 東京大学出版会 1983
・石橋崇雄、『大清帝国』 講談社 2000