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『晏子春秋』の研究
96L1096G 成川隆行
目次
はじめに

第一章 晏嬰とはどのような人物であるのか
 一.晏嬰とはどのような人物であるのか    
 二.晏嬰の生きた時代の中原をリードした国々─斉の位置付け─

第二章  『晏子春秋』の成書問題・真偽問題・晏子学派論争について
 一.漢代からの伝統的な見方
 二.唐宋時代の見方
 三.清・民国時代の見方
 四.現代の見方1
 五.現代の見方2
 六.考察

第三章 資料からみる晏嬰像
 一.内政家としての晏嬰
 二.外交家としての晏嬰
 三.軍事における晏嬰
 四.晏嬰と諸子・君主達
 五.まとめ

おわりに

参考文献

注  



 

はじめに

 晏嬰とは、春秋末期の賢人の一人に数えられた人で、斉の国の宰相を務めた人である。晏嬰の人柄には、多くの人々が尊敬の念を抱き、なかでも司馬遷は晏嬰に対して最大級の讃辞を送っている。

 晏嬰については、『史記』や『春秋左氏伝』などの書物に記載がある。また、晏嬰の遺事を編集した『晏子春秋』には晏嬰の学術思想が最も反映されており、晏嬰の様々な面をみることができる。

 また、春秋戦国時代における社会制度の移り変わりのなかで、思想は大爆発期をむかえた。春秋末期は賢人政治全盛期であり、思想上においても大いに発展した時代であるが、晏嬰の政治倫理思想はそのなかでもひときわ合理的であり、伝統的な制度との折衷を主張したものだった。

 しかし、晏嬰と『晏子春秋』についての研究は古今を通じてそれほど多くはなく、まだ議論の余地は十分残されている。それ故、春秋戦国時代における思想の多様さに興味を持っていた身として、晏嬰と『晏子春秋』を当時の社会状況を絡めて論じてみようと思う。

 まず、第一章では晏嬰と晏嬰の生きた時代の斉についての概論を書き、それ自体をまとめとする。

 第二章では、『晏子春秋』の成書年代と真偽問題、学派論争について論じたい。この三つの問題は未だに決着をみていないが、特に成書年代についてはまだ十分に論議されていないと思うので、そこに焦点を当てることとする。

 第三章では、晏嬰の人物像を『晏子春秋』を中心として論じる。ここでは、晏嬰の本質はどこにあるのかに焦点を置いて論じることとする。

 なお、本稿引用文の漢字は、出来る限り常用漢字・人名用漢字のJISコードにある範囲で改めたが、正字を使用した方がよい場合は正字を使用し、またそれらの範囲にない場合にも、正字を使用した。
 

第一章 晏嬰とはどのような人物であるのか

一.晏嬰とはどのような人物であるのか

 斉の晏嬰は春秋時代末期に相であった人で、晋の叔向・衛の遽伯玉・鄭の子産・呉の季札らとともに博学多識、礼法の士にして経世の才を有し、賢人として当時大いに名を馳せたと言われる人物である。

 晏嬰の名については、いくつかの説があるが、次の二つが有力とされている。『劉向別録』では「名は嬰、諡は平仲という」とあり、『史記』索隠では「名は嬰、平は諡、仲は字である」とある。しかし、今では前説の方が正しいとしているのが主流であろう。

  出身地については、『史記』管晏列伝に「晏平仲嬰は、莱の夷維の人である」とあり、今の山東省高密県がその地にあたる。晏嬰の父の晏桓子は名を弱と言うが、晏弱が魯襄公六年(斉霊公一五年・紀元前五六七年)に莱夷を滅ぼしたという記事がみえ、晏弱が莱夷を滅ぼした勲功としてこの邑を与えられた事によるのではないだろうか。『史記』のとおり、晏嬰が莱人だとは簡単に決めることはできない。なぜなら、晏嬰は父が卒してから斉に仕えたのであり、それまでは晏弱の領地として莱の地はあり、そこから出仕し始めた晏嬰は、自然と莱の出身になるのである。また、晏弱が莱人だとは記録に残っていないことからも、晏嬰莱人説は成立しにくいのではないだろうか。

 晏嬰の生年は今に伝えられておらず、それはおよその推測によってでしか特定できない。薛安勤氏は生まれを紀元前五八二年とし、『諸子百家大辞典』 儒家巻では生まれを紀元前五八〇年とし、王更生氏はまた、独自の解釈から生まれを紀元前五八九年としており、諸説入り乱れた状態である。しかし、魯襄公一七年(斉霊公二六年・紀元前五五六年)に晏桓子が卒して晏嬰が喪に服した記事があり、その翌年には晋軍が斉を攻めた時、霊公が国都臨{緇-糸+サンズイ}に逃げ帰るのを諫止した記事がみえるので、この頃には晏嬰は父の封を継ぎ、すでに壮年に達していたと解釈されており、故に生年は紀元前五八〇年代であることは間違いないだろう。

 『史記』管晏列伝では、晏嬰の人物像についてこのように述べている。

斉の霊公・荘公・景公に仕え、費用を節約することと努力して事を行うこととで、斉国で重んぜられた。斉国の大臣になってからでも、家庭では食事には肉料理を二品と用いず、その家の女には絹物を着せないという倹約をした。晏平仲が朝廷にあるときには、君が晏平仲に相談するときには正しい意見を述べ、相談がないときには自分だけで正しい行いをしていた。国に正しい道が行われているときにはすなおに命令の通りにし、正しい道が行われていないときには命令を検討して正しい標準に合わせて行うべきことを行うようにした。晏平仲がこのように斉の政を補佐したので、斉の霊公・荘公・景公の三代は、諸侯の中でその名がひびいた。
 また、『晏子春秋』を読んだ司馬遷はその人柄を尊敬して「仮にもし晏子が今の世にいたとしたら、私はそのために御者のような低い身分で仕えても心からその徳を仰ぎ慕うものである」と晏嬰に対して最大級の讃辞を送っている。また『晏子春秋』においては、孔子は「晏子は君子である」と述べ、墨子は「晏子はよく道を知っている」と述べているなど、古より晏嬰が偉大な人物として尊敬されていたことが分かるだろう。

 また、『晏子春秋』などの晏嬰の言動から、儒墨の興こる以前の人であったにもかかわらず、儒家説や墨家説などが昔より論じられてきたが、それもまた晏嬰の懐の深さ、政治家としての多様な姿を指し示すものとして理解することができるであろう。

  晏嬰が卒した年は『史記』斉世家にみえ、斉景公四八年(魯襄公一〇年・紀元前五〇〇年)に斉魯が夾谷に会した年に晏嬰が卒したという記事がある。そして、景公を諫め、田氏などの権臣や佞臣から斉の社稷を守ってきた晏嬰が卒したことにより、遂に斉康公二六年(紀元前三七九年)に斉は田氏に乗っ取られて滅びることとなるのである。

二.晏嬰の生きた時代の中原をリードした国々─斉の位置付け─

 春秋時代も五覇の時代が過ぎると、飛び抜けた一つの国がない状態となり、そのため一つの国が盟主として他の中原諸侯と会盟し、リーダーシップを発揮して他の国を指導するということが難しくなり、末期にはいると諸侯の動きが一段と激しくなってきた。

 大国が小国を滅ぼしたり、領土を併合することは以前にもあったことだが、春秋末期はその動きがさらに活発となった。この後、いわゆる戦国七雄と言われる国々が戦国時代に入ってから強大な力を奮うことになるのだが、春秋時代末期において、中でも特に晋・楚・斉・秦の四カ国の力は他の諸侯よりも抜きんでていた。

 晋は文公の時に覇者となった国である。文公が卒してからも、六卿を中心として賢臣・名臣を輩出し続け、その勢いは中原で一,二を争うほどであり、盟主として他の国々を指導していた大国であった。

 斉もまた、桓公の時に覇者となった国であったが、桓公が卒してからは内乱続きであった。しかし、衰えたと言ってもまだまだ大国であった。晏嬰はその国の相であり、大きな影響力をもった人物であった。

 楚と秦はいわゆる中原の国々とは一線を画した国だった。両国とも異民族が中原化した国であった。

 楚は、春秋時代に周の他に王を称した数少ない国のひとつである。自らを蛮夷と称して周に朝貢せず、肥沃で広大な領土を生かして独自の地位を築いており、荘王の時に覇者となり、春秋時代末期には、晋と中原の主導権を争っていた大国であった。

 秦は西周が東遷した後、西周の故地に興った国で、名君を多く輩出し、中原や西戎にも大きな影響を及ぼした大国である。穆公の時に覇者となったが、晋・楚が中原への道をふさいでおり、その力を最大限生かすことはできなかった。

 当時は、この四カ国の力が飛び抜けて大きく、他の国々を圧迫していたのだが、春秋時代末期においては、晋と楚の二大国が主役であった。晋・楚が大きな会盟で中心として活躍し、覇者の役割を果たそうとしていたことからも分かるだろう。

 斉は、基本的には晋を盟主とあがめていたが、完全に服していたわけではなく、晋にとって一筋縄では行かない存在だった。それは春秋末期においては晏嬰の力によるところが大きいだろう。晏嬰が卒してから、君主の力が格段に落ちて、やがて田氏に国を乗っ取られてしまったことからも、晏嬰の斉における重要性が明らかであるといえよう。
 

第二章 『晏子春秋』の成書問題・真偽問題・晏子学派論争について

一.漢代からの伝統的な見方

 『晏子春秋』は、春秋時代末期の斉の宰相晏嬰の学術思想をまとめた書物であるが、古くは漢代から『晏子春秋』に関する記載がある。『史記』管晏列伝には『晏子春秋』の内篇雑上第五にある第二四章と第二五章が載っている。また、司馬遷はこう述べている。

太史公が論評した。私は管仲の著した牧民・山高・乗馬・軽重・九府の各篇と、晏子の『晏子春秋』とを読んでみた。二人の考えはこれらに実に詳しく書かれている。私はこの二人の著書を読んでからというもの、是非その事跡を調べたいと思った。そこでこの二人の伝を編むことになった。しかし、管子と晏子の著書は世間にひろく知られているので、ここでは二人の思想については論じないことにして、もっぱら二人の逸話を挙げておくとする。
 索隠には「晏嬰の著した書名を『晏子春秋』と言う。今その書は七篇ある」とあり、正義には「七略では、『晏子春秋』七篇は儒家にある」としている。また『漢書』芸文志には「晏子八篇」とある。

 また『劉向別録』には次のようにある。

かつては護左都水使で今は光禄大夫の臣向が申し上げます。中書の晏子一一篇の校正では、臣向は長社尉の臣参と謹んで校讐しましたのは、太史書五篇・臣向の書一篇・参の書一三篇、また各界の書の三〇篇計八三八章であります。うち、重複している二二篇六三八章を除くと、八篇二一五章となりました。外書にないものは三六章で、中書にないものは七一章ありました。
 また、『隋書』経籍志には「『晏子春秋』七巻、晏嬰の撰」とある。

 これらにより、漢代からの伝統的な見方としては次のことが言える。

(一)『晏子春秋』は、晏嬰の自撰である。すなわち、成書年代は春秋時代末期となる。

(二)『晏子春秋』には様々な篇本があり、広く流伝していた。それを劉向が校定して世に出した。

(三)『晏子春秋』は、儒家の列に属しており、首にある。すなわち、晏嬰は儒家ということになる。

(四)『史記』管晏列伝には「……もっぱら二人の逸話を挙げておくとする」とあり、越石父の事と御者を大夫にする事が述べられているが、『晏子春秋』雑上には、その二事が記載されている。この矛盾は、現時点では論証されていない。

二.唐宋時代の見方

  唐代にはいると、柳宗元は著書の『柳河東集』にて「『晏子春秋』を著したのは、墨子の徒で斉の人である」として、従来の見方を批判した。漢代からの伝統的な見方では、『晏子春秋』は晏嬰の自撰であり、それが真書説の定義であった。しかし、柳宗元の晏嬰非自撰説の登場により、晏嬰が著していないのであれば、それは偽書ではないのか、という疑問が出てくる。この柳宗元の説から偽書説が始まった。また、宋の晁公武の『郡斉読書志』は柳宗元の説に従っている。

 『崇文総目』では真偽問題について次のように述べている。

『晏子春秋』一二巻は、晏嬰の撰と伝えられている。『晏子』八篇は今は亡佚している。ただし、『晏子春秋』は後の人が晏嬰の行ったことを採録して編纂したものなので、晏嬰撰というのは当たらないだろう。
 また、『直斎書録解題』では『晏子春秋』の巻数が時代によって異なることを指摘している。

 漢代からの伝統的な見方に賛同している書物もある。『唐書』経籍志は、「『晏子春秋』七巻は、晏嬰撰である」として従来の見方を支持した。

 そのためか、『宋史』芸文志では、「晏子春秋一二巻」とのみ書かれており、晏嬰の自撰か非自撰かは言及されていない。

  これらにより、唐宋時代の見方としては、次のことが言える。

(一)この時代でも、巻数は一致していない。

(二)『晏子春秋』に関しては、晏嬰自撰の説と、非自撰説の二つがある。柳宗元が晏嬰非自撰説を唱えたことにより、偽書ではないのか、という見方が出てきた。これにて真偽問題の始まりとする。

(三)儒家説と墨家説の論争がこの時代より始まった。

(四)柳宗元説は確かな論証がなされているわけではなく、その説すべてを信用することはできないが、後世に大きな影響を与えた。

三.清・民国時代の見方

 清代にはいると、考証学の隆盛により『晏子春秋』も盛んに研究されるようになってきて、様々な見方が出てきた。『四庫全書』簡明目録にはこうある。 

『晏子春秋』八巻、撰した人は分からない。旧題晏嬰撰は誤りである。書中は皆晏嬰の遺事を述べており、実は『魏徴諫録』や『李絳論事集』の類と著書の成り立ちは遥かに異なる。これを儒家に列するのは、その宗旨において根拠が足りない。これを墨家に列すると、体裁が悪い。伝記に分類するのが妥当なところである。
 清の大家である孫星衍は次のように論じた。
・『崇文総目』などで述べられている『晏子』八篇は、後世の人が雑上・下を一にして七巻本としたもので、それは劉向校本であり偽書ではない。また、世俗の伝本は皆明人の刊したものである。
・『晏子』文と経史が合わないのがいくつかあるが、それは『史記』の誤りである。
・『晏子』文は最も古い文体である。また、春秋とは編年紀事の名であり、その文は斉の春秋よりでた。
・『晏子』は、戦国時代に成書した。およそ子書は多くは自撰ではなく、『晏子』もまた、そうであろう。
 呉徳旋は、柳宋元の説を採りながらも、「六朝の人で好んで偽を為す者がこれを作った」とした。管同はこの説を補強するのに、『史記』管晏列伝に越石父の事と御者を大夫にした事が述べられていることに注目して論証したが、墨子説は採っていない。梁啓超もまた柳宗元の説に依りながらも、「その依託年代は晩期であり、或いは戦国時代ではなく、漢初にあるのではないか」と論じ、「四庫全書では史部の伝記に入れており、それが最も適当である」とした。

 また、学派論争については、張純一が墨家的要素が主であるとしながらも、儒家的要素もはいっている、として新しい見方を提唱した。

 これらにより、清・民国時代の見方として、次のことが言える。

(一)真書説としては、司馬遷や劉向、{音+欠}父子や班彪・固父子は中書の秘書などを見たはずであり、当然『晏子春秋』もその中にあったはずであるが、それは亡佚したとし、『晏子』八篇は劉向が秘書を見じて校本を作ったものであり偽書ではない、つまりは劉向校定本は真書であるとした。しかし、晏嬰非撰説は常識になりつつあり、これらの説も非撰説を前提として述べている。

(二)この時代にはいると、真偽問題の定義が変わってくる。晏嬰非自撰説が当たり前となり、これを前提とした真偽問題にはいるのである。よって偽書説としては、例えば『史記』管晏列伝には、「しかし、管子と晏子の著書は世間にひろく知られているので、ここでは二人の思想については論じないことにして、もっぱら二人の逸話を挙げておくとする。」とあり、晏嬰の御者を大夫にしたことと越石父のことを述べているが、『晏子春秋』にもそのことが載っていることが挙げられ、六朝成書説の大きな論拠となった。

(三)『晏子春秋』は、晏嬰の自撰ではない、という見方が支配的となり、柳宗元の戦国時代成書説、梁啓超の漢初成書説、呉徳旋の六朝成書説が有力となった。

(四)斉の春秋を参考にして、『晏子春秋』を著した可能性がある。

(五)張純一の儒墨折衷説はこの後の儒墨説の展開に大きな影響を与えた。また、『四庫全書』では、『晏子春秋』を伝記の類に入れており、梁啓超もその説に同意しており、ここに改子入史説が始まる。

四.現代の見方1

  現代にはいると、清・民国の説を補強、或いは否定してさらに論を発展させようとした。

 蒋伯潜氏は、晏子春秋の成書年代について考察をし、その成書年代は戦国時代にあるとした。

 また、高亨氏は次のように論じている。

・司馬遷の見た『晏子』は、中書本と太史書本、併せて一六編であり、劉向の見た三〇篇よりも少なく、『史記』に逸話としてでている二つの記事はなかった。劉向が校定したときに入れられたのだろう。
・景公とは死後の諡であり、また、晏嬰の死後のことが記載されていることから、景公没後に成書した。そして、『晏子』書中に多くの先秦時代の古字古義が使われていることなどから、成書年代は戦国時代であろう。
・しかし、『晏子』は後人が付加、増添した語句や章節が多く、よって、偽書とする。
・儒家思想と墨家思想が反映されている。
 これに対し、呉則虞氏はこのように論じている。
・『晏子春秋』を著したのは、斉の人で秦の博士となった淳于越か、その類の人であり、成書年代は秦の六国統一前後である。
・作者は、晏嬰の話を借りて、秦の専制政治の急所をつき、それは同時に当時の臣民の言論解放の欲求を反映していた。
・晏嬰の思想は、一種の独立した学派を成しているわけではなく、また、一つの学派に属すことはできない。
 これらにより、1としては次のことが言える。

(一)基本的には清・民国時代の論の延長線上にある。

(二)『晏子春秋』の真偽問題についてはまだ決着を見ていない。

(三)成書説としては秦の六国統一後で、斉人の淳于越がこれを成した、とした説が新たに提唱された。

(四)晏嬰の思想は、一種の独立した学派を成しているわけではなく、また、一つの学派に属すことはできない。

五.現代の見方2

 一九七二年、山東省浙江県銀雀山にて二つの西漢墓に一大竹簡が発見され、『晏子』残簡三〇余片が最下層で発掘された。紀元前一三〇年頃のものであろうといわれている。その内容は、今に流伝した本と基本的に一致し、少なくとも、漢代以前には成書していたことが確認された。例を一つ挙げてここに対比する。なお、句読点については、参考文献の点の打ち方に忠実にしたので、そこのところはご了承願いたい。

原文
景公与兵将伐魯、問晏子、晏子曰、不可、魯君好義而民戴〔□□〕義者安、見戴者和、安和之 存焉、未可攻也。攻義者不羊、危安者必困。且嬰聞之、伐人者徳足以安其国、正足以和其民、国安民和、然后可以興兵而正暴。今君好酒而養辟、徳無以安国、厚{耒+昔}歛、急使令、正無以和民。徳無以安之則危、正無〔□〕和之則乱。未免乎危乱之  、而〔□□□□〕之国、不可、不若脩徳而侍其乱也。其〔□□□〕怨上、然后伐之、則義厚而〔□□□□□〕適寡、利多則民勧。公曰、善。不果伐魯。

現文
景公挙兵。欲伐魯。問於晏子。晏子対曰。不可。魯公好義。而民戴之。好  義者安。見戴者和。伯禽之治存焉。故不可攻。攻義者不祥。危安者必困。  且嬰聞之。伐人者徳足以安其国。政足以和其民。国安民和。然後可以挙兵  而征暴。今君好酒而辟徳。無以安国。厚藉歛。意使令。無以和民。徳無以  安之則危。政無以和之則乱。未免乎危乱之理。而欲伐安和之国不可。不若  修政而待其君之乱也。其君離。上怨其下。然後伐之。則義厚而利多。義厚則敵寡。利多則民歓。公曰。善。遂不果伐魯。

  これにより、六朝成書説は成立しなくなり、また漢初成書説も、この時期には流伝していたことを考えると、成書年代としてはもうすこし前の年代であろう、という考えが支配的となった。薛安勤氏は、呉則虞氏の秦朝成書説に賛同している。

 徐立氏は、秦朝に成書はしなかった理由として次のように述べている。

秦が六国を統一してから文化振興の処置が取られなかっただけではなく、相反して、焚書・坑儒のような文化思想発展を弾圧する政策を採った。
 さらに徐立氏はこのように結論づけている。
・『晏子春秋』の成書年代は戦国時代である。
・作者は斉国人、或いは久しく斉国にすんでいた人。
・作者は知識階級に属しており、おそらく斉国の旧高級卿士の類の人。
・作者は晏嬰に関してかなりの理解があったが、斉国の歴史には熟知していなかった人。
  また、王更生氏は『晏子春秋』を晏子学派の作と考え、真偽問題については、真偽が混在している、とした。

 これらにより、2としては次のことが言える。

(一)『晏子春秋』の成書年代は、戦国時代から秦朝末期の間に絞られた。

(二)作者は斉国にゆかりのある人である。

(三)『晏子春秋』は少なくとも、漢以降の偽書ではないことが証明された。

(四)諸氏の考察するところによれば、墨家説はこじつけが多く、晏嬰は儒家に近い、とするのが普通である。しかし、呉則虞説のようにこれら従来の説に捕らわれない説も出てきている。

六.考察

(一)成書年代と真偽問題について
 『晏子春秋』の成立について、王更生氏が晏子学派の存在を指摘しているように、晏嬰の研究に携わっていた人々や晏嬰を崇拝する人々が『晏子春秋』を制作したのはまず間違いない。諸家の中で晏嬰の思想に傾倒した人々が、別個に晏嬰という人物を解釈して織りなしたのが『晏子』の原典だったのだろう。『晏子春秋』には儒家にも墨家にもとどまらない思想が内包されており、諸家ごとにテキストの一部として取り上げられた可能性は高いと言える。例えば、儒家のテキストは、古の聖王や賢人達の事跡であり、身近なところでは晏嬰や子産などがいた。孔子に慕われた晏嬰は孔子の話にもたびたび出てきており、晏嬰の事跡は詳細に調べられたはずである。さらには斉の春秋、民間伝承を加えて『晏子春秋』が制作されたのではないだろうか。

 また、戦国時代に『晏子春秋』として成書していたかについては疑問符がつく。なぜならば、先人達が述べているように『晏子春秋』における事跡年代の食い違いがみられるからである。戦国時代に成書したのならば、何人もの人が斉の春秋を見たはずであり、まず間違うことはあり得ない。また、『晏子春秋』雑下には「晏子卒十有七年」とあり、銀雀山で発見された残簡にもそのようにあることから後世の竄入はあまり考えられない。さらには、『劉向別録』にあるように、もし『晏子春秋』がきちんと製本されていたなら、重複するところがたくさんあり、またいくつもの篇に分かれて保存されていただろうか。

 これらから言えることは、『晏子春秋』は混乱していて、なおかつ情報の少ない時代に編纂されたのではないかということである。

 ならば、『晏子春秋』の成書年代は一体いつになるのか。戦国から漢初にかけてもっとも乱れていた時代は秦朝である。おそらく成書年代は、秦始皇の死により統制のゆるんだ秦朝末期の混乱した時期にあったのではないだろうか。

 秦始皇の焚書・坑儒によって、『晏子春秋』の原典もその思想内容により攻撃されたのは間違いない。しかし、焚書・坑儒によってすべての晏嬰に関する記載が焼き尽くされたわけではない。また、晏嬰の思想内容は多岐に渡るので、いくつもの書物に分けられて記載されていたか、または学派の違いによって違う篇本が使用されていたとも考えられる。おそらくは、それらの中から抜き取って、或いは民間伝承や斉の春秋から採って編集されたのではないだろうか。それらをその時代においてでき得る限り雑多に集めて編集されたのが『晏子春秋』であったのだろう。なぜかと言えば、劉向が校定本を出す前は、重複するところが多かったからであり、後の時代の書物や『春秋左氏伝』などには晏子に関する佚文が記載されているからである。もしも正式な書物として戦国時代に『晏子春秋』があったのならば、重複しているところを入れる意味がないし、またその部分だけ亡佚したとは考えにくい。史実を確認できる書物が極端に少なく、また混乱した時期であったためにそのようなことが起こったのではないか。そして、記載の間違いはその時に起きたと考えられる。

 ではなぜ、そのような混乱した時期に『晏子春秋』が制作されたのだろうか。それは秦末の混乱により思想統制ができなくなったためではないのか。呉則虞氏も言及しておられることだが、秦朝の法治に対する反抗勢力が制作したのではないかと考えられる。秦始皇が定めたことに対して反旗を翻すことは秦末における反抗勢力の意思表示のひとつであり、学者達が筆をとって法治思想を批判するのに『晏子春秋』は格好の材料の一つだったのではないだろうか。ただし、呉氏の淳于越が『晏子春秋』を成した、とする説には賛同できない。淳于越のような学者が、六国統一前後のまだ思想弾圧のない時期に『晏子春秋』を編集したとしたら、『劉向別録』に述べられているようなかさばりのある本はできないのではないか。

 もう一つは、厳酷な法治制度と秦始皇の圧政により、昔日への強い郷愁の念が呼び起こされたことである。これは、一見すると証拠が全くないように思われるが、そうではない。昔日への郷愁は乱れた時代には必ずあり、それは晏嬰の時代の前にもあったし、それ以降も絶えることなく続いてきた。それは、『晏子春秋』にもその他の書物にも見えることであり、当時の社会通念の一つでもあった。その強い念が『晏子春秋』成書に深く関わったとすれば、おそらくは編者は斉の地方に住んでいた人であろうと思われる。昔への憧れを晏嬰と『晏子春秋』に託した、という見方もできるのである。だからこそ、山東省で『晏子』残簡三十余片が発掘されたのも決して偶然ではないのである。

 真偽問題については、どこをもって偽書と成すかが、先人諸氏によって条件が異なるので判断のしづらいところであり、また、後人が竄入した点も見逃すことができない点である。例えば『晏子春秋』中には、晏嬰と曾子の交流が描かれているが、晏嬰と曾子の年の差は七〇歳ぐらいあり、晏嬰が卒した年に曾子は一六歳であったことから、この交流はなかったと推論でき、これは捏造であるということが分かる。

 しかし、銀雀山漢墓で発見された残簡が今本と基本的に一致することから、今のところは残簡にあった章は成書した時代における捏造でない限りは偽物ではない、と言うことしかできないが、基本的に今本は原本を反映していると言えるのではないだろうか。故に王更生氏の言うように、真偽入り交じった状態である、とするのが正しいであろう。

(二)学派論争について
 晏子学派論争については、儒墨の争いが唐の柳宋元の提唱より続いてきたが、今は墨家説を採る人はほとんどいなく、だいたいの人は儒家説を採るだろう。

 実際『晏子春秋』を見ると、墨家説の根拠である非楽や節倹などは、国や民を圧迫するような君主の過度な贅沢を諫めているのであり、それが徳や礼にかなうことであったからである。例として、内篇雑上第十四を挙げることができよう。墨家説はやはりこじつけが多いのではないか。

 ならば、晏嬰は儒家なのか。その答えは否であろう。そもそも晏嬰は、儒家や墨家の興る以前の人であり、儒家や墨家などの諸家の思想は、聖王・賢人や晏嬰などの先人達の政治倫理思想を細分化して、一つの体系としたものである。故に、晏嬰の思想の中に儒家的要素や墨家的要素が入っているとするのは本末転倒であり、儒家や墨家などの諸家の中に晏嬰など先人の思想が入っているとするのが真実である。

 また、王更生氏が提唱している晏子学派説は、晏嬰が遠い昔から信奉されていることから、その可能性は否定できないものがある。

 よって、呉則虞氏の「晏嬰の思想は、一種の独立した学派を成しているわけではなく、また、一つの学派に属すことはできない」という考え方は、正しいと結論付けることができる。また『晏子春秋』は、伝記類の性質を有しているとする改子入史説は、その性質上、正しいものとすることができよう。
 

第三章 資料からみる晏嬰像

  前章では、晏嬰を儒墨両学派に当てはめようとしても、晏嬰の思想はよく掴めなかった。よって、これから『晏子春秋』を中心に、『春秋左氏伝』や『史記』などを傍証として、様々な角度から晏嬰という人物を考察してみたいと思う。

一.内政家としての晏嬰

(一)斉の内政事情
 春秋時代も末期になってくると、諸国家の内政事情はだいたい三つに分かれてくる。一つは君主の力よりも権臣の力が強まり、国が弱体化していったものである。斉・魯・晋などがこれに当てはまるだろう。もう一つは、君主への集権化に成功し、国の長期に渡る繁栄を築いた国である。秦・楚がこれに当たる。もう一つは、様々な外圧により弱体化していった国である。{艸+呂}や徐などがこれにあたる。

  斉は桓公が卒してから、内乱はお家芸と言われたほど多くの内戦・粛清が行われてきた国である。晏嬰の生きた時代には、崔慶の乱や子尾が卒したときの内戦など、多くの内戦・粛清が行われた。権臣達の争いために政情は安定することがなく、また君主も権力がなく、凡庸だったためそれを抑えることができなかった。そして、最終的に田(陳)氏の台頭を招いたのである。

 また、斉の民の窮状はたびたび『晏子春秋』に出てきており、この時代の斉はかなり乱れていたことが分かる。

 このような政情のために、晏嬰は常に難しい舵取りを迫られていた。そして、晏嬰は礼に則った政治を行うことによって、それを打開しようとしていた。そのことを念頭に置いて、内政家としての晏嬰を見る必要がある。

(二)先人の行いをもって政治を説く
 『春秋左氏伝』など、春秋戦国時代を舞台とした書物には欠かすことのできない要素として、先人の行いを説く、というものがある。『晏子春秋』にもそれは当てはまることである。実際、『晏子春秋』を見ると、先人の行いは多くのところで引用されている。晏嬰は桀紂・文王・桓公・管仲などの人物を引き合いに出し、或いは、ただ単に聖王・先王などの表現を用いて、巧みに君主を正しい行いへと誘導しているのが分かるだろう。その例として内篇問上第五・第一一などが挙げられる。

 では、なぜこの時代の人々は先人の行いを説くことを好んでしたのだろうか。

 第一に、徳・礼の存在が挙げられる。徳・礼とは古代からの支配層が被支配層を統治するための慣習法であり、君臣の別を定める重要な法でもあった。また、徳と礼は互いに通じ合うものであり、刑法によって国を治める行為は、当時では下の下であると思われていた。法治よりも徳のある人治が尊ばれていたのである。実際には刑法も取り入れられていただろうが、あくまで礼法が主体であった。そして、その模範となったのが古の先人達である。君主達は、よほど暗愚な君主でない限りは古の先人達に学ぼうとし、その支配こそが政治の理想である、として賢人達を登用して礼に則った政治を執らせた時代であった。礼法とは、犯してはならない当時の絶対的な法だったのである。礼を犯したときには、その国は必ず軽んじられたことからもそのことが分かるだろう。先人の行いを知ることは、すなわち徳と礼を知ることであったのである。

 第二に、これは前章でも関連のあることを述べたが、昔の平和な時代への憧れだったのではないか。当時は春秋末期であり、諸侯の凌ぎ合いがさらに強くなってきた時代であり、政治が乱れていた時代でもあった。そのような時代において、人々が昔の平和な時代への憧れを現実のものとしようとしたのではないか。なぜ孔子や他の諸子が昔の平和な時代に対してあれほど執着していたのか、そのことを考えると、それは乱れた現代に対する警鐘と、平和な昔への憧れなのではないのか。それを『晏子春秋』中の晏嬰は、ものの見事に具現化しているのである。

 第三に、晏嬰の生きた時代が賢人政治全盛期であったことが挙げられる。賢人達は、君主が道から外れることを阻止し、古から尊ばれてきた道を実践させることによって、支配体制を強固なものにしようとした。

 晏嬰が、先人の行いを説いて礼に則った政治を行おうとしたのは、時代が経つにつれて、徐々にゆるんできた当時の制度を立て直そうとした政策の一環なのである。

(三)権臣への対応
 晏嬰の生きた時代の斉は、崔慶の乱があり、その後にも高・国・欒・鮑・田などの各氏が力を駆使して互いの勢力を削り合っていた。

 崔慶の乱の際、晏嬰は職を辞していたので、東海の地から崔慶の乱を聞き及んでやって来た。晏嬰は、荘公の死を悼みながらも共に死ぬことを拒否し、また、崔慶の輩と誓うことを拒否した。崔慶と誓いを結ぼうとしなかった者は、そのまえにことごとく殺されていても、晏嬰は殺されなかった。晏嬰の信望は斉の隅々にまで広まっており、崔慶も晏嬰が害をなすことをしないと知り、結局は殺さなかった、というより殺せなかったのである。そして、晏嬰は崔慶が実権を握っている間は、国政における重要な地位には就いていないと思われる。ここには、社稷の臣を自認している晏嬰の生死をかけたプライドが現れているところである。

 崔慶がいなくなってから、高・国・欒・鮑・田などの各氏の争いが激しくなる。晏嬰でさえも各氏の勢力争いをやめさせ、国に尽くさせることはできなかったことは事実である。しかし、『晏子春秋』内篇雑上第五には晏嬰が政治を執ることによって権臣達が窮居した、との言が見える。そして、晏嬰はその争いには直接参加せず、常に景公の側に立ってその戦いを見ていた。そのことは、『晏子春秋』内篇雑下第一四、『春秋左氏伝』昭公一〇年に見え、個の利益よりも国のことを考えて行動していたことが分かるだろう。

 また、晏嬰は田氏の勢力を一番警戒していた。田氏は民に恩恵を施し、士とも盛んに交わっていた。そして、田氏の勢力が抜きんでて強くなってからはますます警戒して、景公に礼に則った政治を行うよう進言し、田氏の勢力の源の一つである民の信望を少しでも公室に取り戻そうとした。やはり、礼は当時の社会において強力な拘束力を発揮したのである。また、田氏の民の信望を得るためのやり口を、礼を犯しているために無徳とした。

 ところが、晏嬰が田氏の勢力拡張に一役買っていた事も否定できない。『春秋左氏伝』昭公一〇年、『晏子春秋』内篇雑下第一四によると、晏嬰が桓子に向かって助言をしているのが見え、その助言により田氏の勢力が拡大した、とある。晏嬰はなぜ、田氏の勢力が拡大することが分かっていながら桓子に助言したのだろうか。そして、その助言により各氏の勢力バランスが崩れてしまい、結果的には斉の滅亡を早めることになったのではないか。

 その答えは、晏嬰の助言は礼と義を守らせることにあり、権臣達の争いにおいてはあくまで中立を保ったところで助言したことにある。また、桓子はなかなかの人物であったので、晏嬰と交流があったことも十分考えられる。現に、晏嬰は何度か桓子に助力を頼み、桓子はそれを承諾して助力している。

 晏嬰が政治生命を全うした理由は、権力争いには関わらなかったことである。孔子が「晏平仲は、よく人と交わる」と述べたのは、まさに真を得ていると言えよう。

(四)君主・侫臣・勇力の臣への対応…諫士としての晏嬰
 『晏子春秋』の多くが諫士・礼法の士としての晏嬰を写し出している。それ故に、『晏子春秋』は儒家の首に列せられていたほどである。

 晏嬰が、君主を導き、礼に則った政治を行う上で最大の障壁であったのが、君主の凡庸さと侫臣・勇力の臣などであった。

 晏嬰は、霊公・荘公・景公の三人を主と仰ぎ、そのもとで政治を執っていたが、いずれの君主も凡庸であった。

 晏嬰が君に諫する割合は、圧倒的に景公が多い。霊公の晩期に晏嬰は出仕しはじめ、荘公には疎まれて辞していた時期があったためである。霊公・荘公は、戦争好きであったらしく、その勇力に頼った政治をしており、勇力の士がその時代には羽振りを利かせていた。晏嬰は、勇力に頼った政治をやめるように諫めたが、それを聞き入れたのは景公のみであった。

 だが、景公には侫臣が多かった。梁丘拠はその代表的な人物として『晏子春秋』にたびたび出てくる人物である。晏嬰は、このような人物を批判し、道に乗っ取った政治を行うよう景公に進言している。しかし景公はそれを果たさず、梁丘拠の死に至っては、厚くこれを弔おうとしている。このように、佞臣などを排除するよう、晏嬰は幾度となく景公を諫めたが、ついにかなうことなく終わっている。また、晏嬰自身も佞臣を退けることの難しさを述べている。侫臣を退けられなかったのは晏嬰の責任ではなく、景公の君主としての自覚の至らなさであろう。

 晏嬰の諫士としての役目は、これだけではない。景公が酒を飲んで政を忘れることを諫め、民が飢えているときには、君に蔵を開くよう進言し、また受け入れられないときは、自分の蔵を開いている。また、景公が民に対して役を課そうとするとそれを諫め、時には景公のために自分が罪を被ったりした。そして、晏嬰は民を政治の基とすることを提言し、これを讃えて民本主義者と言われているくらいである。さらには、君が礼からはずれるような行為をしたり、過度に財政を圧迫したり刑を重くする行為、迷信を信じて占いに頼る行為、無罪のものを罰する行為など、様々な行為について諫言している。また、それらの中でも内篇諫上第二五・雑上第九などは、晏嬰の弁舌家としての才能が一段と花開いているところであろう。

 『晏子春秋』における内政家としての晏嬰は、春秋末期における民から君主までのモラルの低下を防ぎ、当時の法を守る諫士としての側面がほとんどであり、晏嬰の賢人性が大きく取り上げられている。晏嬰の『晏子春秋』における本質は、凡庸な君主を正しい道に導くための諫士にあったのである。
 
(五)現実主義的思考
 古代においては、呪術や天変地異などが信じられていた時代であり、晏嬰の生きた時代も例外ではない。この時代の人々は、天変地異などが起こると、呪いをしたり、神を祀ったりした。さらには、国家振興のためなど、呪術はこの時代の人々の中に深く入り込んでおり、人々はこれを畏れ敬っていた。『晏子春秋』には、景公が楚巫を信じることや、日照りの時に神を祀ってこれを収めようとしたこと、景公が病の時に占夢者に晏嬰の言うとおりにするよう頼むことや祝史を罰することを諫めることなどが載っている。

 これらを見ると、晏嬰はほぼ一貫して盲目的に呪術を信じたり、天変地異を畏れることに反対しているのである。晏嬰が、占いについて景公に提言しているのをまとめると、このようになる。「古の聖王達は、徳をもって政治を行い、そのために世は乱れることなく、天変地異などは起こりようがなく、巫を用いることがなかった。今は政が乱れ、それ故に天変地異が起きている。あなたは徳のなさを呪いによってごまかそうとしているが、行いを正して徳のある政治を執れば、天変地異は起こりようがなく、呪いなどする必要はないのである」。

 晏嬰は、呪術などを信じていなかったのではない。天の意志を信じ、為政者を諫めていたのである。悪政をすれば天は天変地異を起こし、民の怨嗟の声は国中に満ちる。晏嬰は、天変地異と民の声を天の代弁者として見ていた。

 だからこそ、悪政のために民は疲弊し、怨嗟は国中に満ちているのに、それを呪いによって解決しようとするのは無意味だと説いているのである。天変地異は、現代では自然のなせる業であることが分かっており、晏嬰の言っていることが非現実的なことだと思うだろうが、実はそうではない。晏嬰は、民と憂いを共にし、善政をすれば民は富み、天変地異が起きても民の免疫力は高くなるし、政府が民を助ければ国が乱れることはない、ということを景公に説いて善政を施くことを勧めたのである。これも、晏嬰の諌士としての一面が色濃くでているところであろう。

(六)晏嬰の実際の統治について…民本主義思想は成り立つのか
 晏嬰は諫士として力を発揮したが、実際の統治においてはどうだったのか。『史記』管晏列伝では、「費用を節約することと努力してことを行うこととで、斉国で重んぜられた」とある。また『晏子春秋』では、景公が華美な服装をしていることや宮殿を建てることを諫め、景公に民に重税・重役を課さないよう求めた。地方の統治においては景公に斉国の腐敗した状況を知らしめ、国を統治すれば、諸侯はこれを畏れ権臣も政に服し、国はよく治まった、とある。

 これらの晏嬰の統治の中で、常に一貫しているのが第一に民と国のことを考えて政治を行っていることである。晏嬰は、権力とは民の潜在的な力に仮託されたものでしかないことを知っていた。権力者というものは、自分の地位が所詮大衆からの借り物でしかないのを知らずにその座に寝そべっているものである。しかし晏嬰は、民を富ますことが国を豊かにすることであり、君主個人を富ますことは決して国を豊かにするものではない、ということを知っていたのである。

 この晏嬰の思想を民本主義として多くの学者が讃えているが、また同時に、この時代は奴隷制や封建制による専制政治だと説いているのは矛盾している。民本主義思想は、完全なる奴隷制と封建制による専制政治のもとでは決してなされない。宮崎市定氏は、この時代を都市国家の時代としているが、それが正しいのではないか。勿論、封建制や奴隷制は中国独自の都市国家発展に欠かせない要素であることは間違いない。しかし、春秋時代末期は様々な要素が入り交じった状態であり、また社会制度上の過渡期でもあった。そのことを認識しなければ、この時代を正しく解き明かすことは不可能である。

 春秋戦国時代に思想の大爆発期があったのは事実であり、都市国家的要素、或いはある一定の自由が含まれていなかったなら、思想の大爆発期はなかっただろうことは世界の歴史を見れば明らかである。しかし、晏嬰の「民を政治の基本とする」という言葉によって、晏嬰を民本主義者とするのは難しいのではないか。『晏子春秋』を見ると、晏嬰はまず国のことを思っている社稷の臣である。国を富ますためにはまず民を豊かにし、礼法を国の隅々にまで広げ、支配層による統治を絶対的にすることである。晏嬰にとって、いや、古の先人達にとって、民を豊かにし、支持を取り付けることは、国を豊かにし、強くするための最高の方法論だったのではないか。だからこそ、晏嬰は民を大事にし、民を豊かにすることが国の利益に繋がることを君主に説いた。『晏子春秋』中の先民後身は、このことを説いているのである。

 晏嬰は、民本主義のように、民が初めにあり、民を豊かにすることで国が豊かになる、というような民への国家付属論を説いているのではない。晏嬰は、民に重心をおいてはいるが、君主を含むすべての人々の国家への付属論を説いているのであり、民の信望を得ることは国家運営上の最大の目標であり、利点だった。故に、晏嬰を民本主義者とすることはできないのである。

(七)晏嬰の君臣観
 春秋時代末期の君臣倫理は、他の時代と比べてかなり特殊な部類にはいるだろう。鈴木喜一氏は、春秋戦国時代における君主に対する卿大夫と私的家臣とにおける君臣倫理の差異を三つに分けて論じている。

・君臣相対主義(卿大夫)と君主絶対主義(私的家臣)の二つに分けられ、その差異の生じた所以が、君臣間に倫理及び神聖を共有するかしないか、にある。
・卿大夫が君主と宗教的結合であるのに対し、私的家臣は世俗的結合であること。
・卿大夫は自由を有し、そこに孝の観念が優先したが、私的家臣は自由を有しなかった。
 勿論晏嬰は卿大夫の身であり、君主に対してある程度の自由を有していたことは、崔慶の乱のときの晏嬰の対応や、君主にたびたび諫言していること、『晏子春秋』における晏嬰の発言などを見れば分かるだろう。鈴木氏の説を補強するならば、以下のことが言える。周は、『史記』本紀によれば殷を倒したとき功のあった者や一族を領土に封じてその地の運営を世襲で行わせた。家臣(太公望などの重臣)や一族を、単に下に置くのではなく、共同統治者として遇したのである。これは、君主の私的家臣とは性質を異にしており、東周から周末にかけての諸侯の形成に大いに関係があった。これは春秋時代の卿大夫と君主の関係にも言えることである。卿大夫は、一応は家臣として仕えてはいるが、邑を世襲で統治している点では、実質的には国の共同統治者であり、一緒に国の運営にあたっていたので、国の運営については口を挟むことが可能であり、それ故になかば独立したような存在になってきた。その点で自由を有しており、権力を掴みやすかった地位にあった。秦や斉が滅んだ原因はそこにあり、秦始皇はそのためにこの支配体制を打破しようとしたのである。

 故に、君主と卿大夫は共同統治者であり、君主個人の臣下ではなかったと言える。それは、崔慶の乱の際の晏嬰の言動と、晏嬰が国を統治するにあたって賢人とともにこれを行うように提言し、晏嬰自身も田穣苴を推薦したことからも分かるだろう。

 肖郡忠氏は「晏嬰が当時の伝統に反して社稷の臣たることを述べた」とあるが、この時代は封建主義一色に染まっていたのではない。これは前にも述べているが、春秋時代の特異な社会制度にも関係しているだろう。

 では、晏嬰は一体何の臣なのか。小野澤精一氏などは、晏嬰が「社稷の臣である」と述べていることに注目している。これは、多くの現代の学者の見解の一致するところであり、実際そうであろう。
 では、社稷とは一体何なのか。『大漢和辞典』に社稷について詳しく述べられているが、簡単に言うと国家のことである。

 また、『晏子春秋』内篇雑上第一三では、晏嬰が社稷の臣の何たるかを述べている。

 この時代における最大の不義は、宗廟の祭りを絶やし、社稷を絶やすことである。先祖の祭祀を行わないことは祖霊に対しての最大の不義であった。君主一人が死んでも後継ぎがいれば社稷を絶やすことなく、その国を維持していくことができる。ある国の公子が、よく外国に滞在していた理由の一つがそれである。だが、もしも国を滅ぼすことになれば、祭祀は絶え、祖霊の行き場が無くなり、礼を失することとなり、また、先君達に仕えてきた臣下達を愚弄することにもなる。そして、それは民を苦しめることにもなる。

 故に、晏嬰が政治においてまず国を最優先したのは当たり前のことなのである。そして、今まで述べてきた晏嬰像は、実は社稷の臣としての一面だったことが分かるだろう。晏嬰は、君主を含むすべての人々の国家への付属論を説いており、君主を変えることはできても、社稷は変えることのできないものだった。だから晏嬰は「一心をもって百君に仕える者」と言うことができたのである。
  
(八)禄を辞す
 『晏子春秋』中における晏嬰は、禄を受けないのがほとんどを占める。功績があっても禄を受けず、景公の好意を受けず、そのために妙な勘ぐりをされてもいる。

 実は、晏嬰が禄を受けた記事が少しある。その中で最も重要なのは、晏嬰が荘公に仕えていた頃、初めは晏嬰の言が大いに取り上げられ、禄もたくさん受けたが、用いられなくなると邑などはだんだんと削られて、ついにはなくなってしまったが、そのおかげで崔慶の難を乗り切ったことであろう。また宇野精一氏は、呉の季札が斉を訪れたときに晏嬰に忠告をし、晏嬰はそれにより采邑と政権を返上して、そのために欒・高の内乱の時に難を逃れたことを引き合いに出している。

 そして宇野氏は、晏嬰の節倹・謙譲は護身術であったとしているが、それが正しいであろう。晏嬰は、欲のないことを他の人々に示して、自分には害のないこと、権力争いには関わらないことを意思表示したのである。だからこそ、晏嬰は権臣達の権力争いに巻き込まれることはなく、社稷の臣として内外にその名を轟かすことができたのである。

(九)経世の才
 晏嬰の総合的視点としては、経世の才が挙げられるだろう。経世とは政治のことであり、晏嬰が経世の才を有していたことは、藤田剣峯氏など諸人の一致しているところであり、また『晏子春秋』は政治倫理思想の読み物であることからも明白であり、内篇雑下第二一など多数ある。その中で晏嬰は市に近いことで経済を把握できるとしており、また国を治めると斉がよく治まったことからも、経済にも晏嬰は通じており、総合的に物事を判断できる人物であった事が分かるだろう。

二.外交家としての晏嬰
      
(一)斉の対外政策
 この時代の斉は、晋・楚に次ぐ勢力を保持し、一つの超大国が他の国全てを制御する、ということが不可能だった時代のために、対外的にはその勢力を拡大することが十分可能であった。盟主と目されていた晋にしても、斉を完全に抑えることは不可能だったのである。

 その中で斉は、魯・{艸+呂}・徐などの小国に対しては、これを攻めて領地を奪い、或いはこれらを助けてその報酬として領地を進呈されたりした。また、絶えず政治的圧力をかけており、小国を意のままに動かそうとしていたことは、斉の魯や燕などに対する圧力や、鄭に対する晋・楚の圧力などを見れば一目瞭然である。それは、大国が小国を監督するという覇者の思想の一部分がいいように解釈された良い例であろう。また、それは当時の社会の義務であり、要請でもあったのである。

 斉は、大国に対しては表向きには服従していた。他の諸侯に盟主と目されていた晋に対しては譲歩して盟主と認め、晋の力を恐れていたのである。しかし、時にはその恐怖心をこえて、晋を攻めたこともあった。晋はこういった事情のために斉を完全に抑えることができず、斉は独自の地位を保つことに成功したのである。

 また、古からの制度である礼法は、春秋時代末期における社会に対して、まだ強い拘束力を発揮しており、ある一線を越えることは滅多になかったといってもよい。それ故、いかな大国の斉でも、(晏嬰の生きた時代では)国を滅ぼすことはしていない。まだ礼法を犯すことに強い拒絶感を持っており、ある国が不義を侵したときには、盟主(盟主でないときもある)が必ずこれを伐っていた。それでも、力のある諸侯にはある程度の自由が保障されていたと言っても良いのではないだろうか。しかし、あまりにも礼にかなわなければ、力の大きい諸侯でも伐たれたのは興味深い事実であり、斉もまた、その法則からは脱し得なかったのである。

(二)外交家としての晏嬰
 春秋時代末期において、賢人政治は全盛期であったが、賢人達はまた、外交においても活躍していた。晏嬰もその中の一人である。晏嬰が外交家として訪れた国は、『晏子春秋』などを見る限りでは晋・楚・魯・呉の四カ国である。おそらくは、斉の当時の外交政策の中では、この四カ国がもっとも重要視されたのであろう。

 晋は、この時代においては中原の覇を楚と分かっていた国である。斉の人々は、この国を中原の覇者と認めていた。また、晏嬰などは荘公に晋を攻めることを止めるよう説いている。小国が大国を攻めることは礼にかなったことではないからである。また、晏嬰は晋の使者が訪れたとき、いかな大国の使者であっても非礼は許されないとした。外交上、軽く見られることは失点だからである。

 楚における晏嬰は、外交家としての晏嬰の能力の高さを示している。楚王の悪戯に対し、晏嬰は逆手を取り続け、斉の尊厳を守り、楚王をして「聖人をからかうものではない」と言わしめている。

 晏嬰が魯に赴けば、魯君は喜んで迎えてこれに問い、また孔子も晏嬰と会っている。また、晏嬰は魯において、礼とはその義に意味があり、形式に意味があるのではないとして孔子を感嘆させている。また、魯君が内乱により斉に亡命してきたときは、魯君は別に優れているわけではなく、これを魯に帰しても意味がない、とした。

 呉においては、呉王は晏嬰に質問をし、晏嬰は忌憚なくそれに答えている。呉王が怒ったのは彼が狭量だからだろう。

 これらの中で一貫して晏嬰が守っているのが、他国に対して礼を守っていることである。この時代は、礼について博学でなければ外交官としては失格であり、自国に恥をかかせることになる。だから、他国に使者を送るときには然るべき人物が送り込まれたのである。このことから、晏嬰は外交に打ってつけの人物だったのである。このため、晏嬰が卒した年に行われた夾谷の会合で景公が非礼を犯したことを孔子に責められたとき、晏嬰はおそらく出席していなく、『史記』孔子世家の記述は誤りであろう、というのが穏当であろう。また、晏嬰が政治を執ることによって斉は強くなり、燕・魯やその他の小国が斉に朝貢したことが見えるように、内政がうまく治まってないと他の国々に軽く見られるのは必然であり、それが外交にまで及んでいたことが分かるだろう。
       
三.軍事における晏嬰

 『晏子春秋』中における晏嬰は、不義の国に対する軍事行動以外は否定的であり、国力をいたずらに使う戦争自体に反対の姿勢を示している。勇力による政治は得るところがない、との晏嬰の思想がそこにはある。『春秋左氏伝』では、斉の軍事活動が述べられているが、{艸+呂}などの礼を失している国に対して以外は、晏嬰は止めるよう諫めていたに違いない。それは、晋の欒盈を匿って、晋において反乱を起こさせようとした荘公を諫めていることからも言える。

 また、晏嬰は軍事力を持たなかったという説には賛成であるが、軍権は幾度か握っていたことがある。莱はもともと強兵の地として有名であり、晏嬰はその邑の出身である。そして、父の晏桓子は軍事の才にも長けていた。また『史記』十二諸侯年表では、晏嬰が晋軍を大いに破った、とあり、欒・高の乱の時には、両勢力が晏嬰を味方に付けようとしている。これは、晏嬰の名声だけではなく、ひとたび軍権を握れば、知略の士としても晏嬰は秀でていたからに相違ない。そして、晏嬰はその軍事の才能を国のためにしか使わず、権力争いには使わないということをアピールしたのである。晏嬰が政治生命を長く保った理由はここにもあるのだろう。

四.晏嬰と諸子・君主達

(一)霊公・荘公
 『晏子春秋』においては、晏嬰と霊公・荘公に関する話は少ない。『春秋左氏伝』でも晏嬰の言がわずかに載っているだけである。霊公・荘公はともに勇力を重んじた君主であり、晏嬰の説く政治理論とは距離のある考え方で、それを改めることはなかった。

 霊公は、晋との戦いで逃げたことを晏嬰に嘆かれた。また、晏嬰は霊公に仕えた時期が短かったために、霊公の死に対して大した感慨を抱かなかったのではないか。

 荘公は、晋の欒盈が斉に出奔してきたとき、会合で欒盈を受け入れないことを約束しているのに、受け入れるのは信義に反するとした晏嬰の諫言を受け入れず、晋において欒盈の乱を引き起こし、また崔杼の妻と通じたために、崔杼に弑された。晏嬰は、この時職を離れていたため、荘公の道ずれにならずにすんだ。晏嬰が職を解かれたとき、晏嬰は命拾いしたことを喜び、また荘公とともに死ぬことを拒否した。これは荘公が、晏嬰にとって死するに足らない君主だったことと、社稷の臣を自認していたためであろう。

(二)景公
 『晏子春秋』において、景公と晏嬰のやりとりが一番多く、またいろいろと示唆に富んだ表現があるところである。景公は、佞臣などが周りにおり、決して名君とは言えないが、晏嬰が諫言を呈すれば、景公は必ずそれを聞き、過ちを認めてそれを直そうとした点で、前の二君に勝っている。晏嬰にとって、景公は先の二君に比べるとずっとかけがえのない君主だったに違いない。その例として、『晏子春秋』より内篇諫上第八・雑下第七・一四、『春秋左氏伝』昭公一〇年などを挙げることができる。

 また、魯の昭公に暗に仕官を誘われたときも断っているが、晏嬰は一族を養うためだけに断ったのではなく、景公が晏嬰を必要としていたことが分かっていたからに相違ない。それは、景公が非を認めて晏嬰に謝ったことや景公がたびたび晏嬰に報いようとして禄を授けようとしたことからも分かるだろう。なによりも分かりやすいのは、晏嬰が卒したときの景公の嘆きようであろう。

 景公と晏嬰は互いに必要とし合った仲であった。晏嬰は景公のもとで最大限の能力を使い、景公は晏嬰を頼りにしていた。だからこそ、『晏子春秋』に豊かな彩りを添えることができたのである。

(三)孔子
 『晏子春秋』において、孔子の言は多く、ほとんどすべて晏嬰への讃辞である。それに比べると、晏嬰は孔子に対して厳しい接し方をしている。晏嬰は、伝聞だけで晏嬰を評して行いを見ず、形式だけにとらわれ、社稷に忠ではない(孔子は仕官のため諸国を遍歴し、魯だけに留まらなかった。故に社稷に忠であるとは言えない)孔子を忌避していたのではないだろうか。また、孔子はすべての人々の国家への付属論を説いているのではなく、君主への付属論を説いている。儒学は漢代に帝王学として甦ったが、それは儒学が君主中心の政治体制を支持していたからである。おそらく晏嬰は、孔子と何度か会うことによって、孔子とは価値観の違うことを察していたのだろう。故に斉での孔子の仕官に反対したのである。

(四)田桓子
 晏嬰は、田氏の勢力を公室の脅威としながらも、田桓子とは交流があったようである。晏嬰は、禄を辞したりするときには実力者の桓子に頼んでおり、桓子もまた引き受けている。また、桓子はなかなかの人物として『晏子春秋』や『春秋左氏伝』などに描かれており、桓子の人柄は権力に頼ったものだけではない、魅力のあった人物であった。晏嬰はだからこそ、桓子の後の田氏一族を恐れたのであろう。

(五)田穣苴
 晏嬰と田穣苴との交流が書かれている書物はない。田穣苴は、田氏一族でありながらも、庶流だったため、高貴な身分ではなかった。しかし、晏嬰が景公に推薦したことによって、穣苴は檜舞台にあがったのである。穣苴はそれに応えるのに軍功と礼節をもってした。『晏子春秋』には、穣苴は一回しかでてこないが、その行いを見る限りでは、晏嬰と親交があったことは十分推測できるのである。

(六)曾子
 『晏子春秋』によると、晏嬰は孔子門下の曾子とは親しい関係であったらしい。『晏子春秋』には二回しかでてこないが、お互いに尊敬し合っている様子がうかがえる。孔子に対する晏嬰とは違った、儒家に対する姿勢がそこには見える。

 ところが、曾子は紀元前五一六年の生まれであり、晏嬰の卒した年が紀元前五〇〇年である。曾子は魯の人で、晏嬰よりも七〇歳位若いことから、晏嬰と知り合いであったと考えるのは難しいものがある。しかし、『晏子春秋』に載っている曾子は、孔子門下の曾子ではない、とは考えにくい。おそらくは、この曾子に関する二事は後世の捏造であろう。

(七)叔向
 晏嬰は、叔向とは少なくとも二回会っている。一回目は襄公二六年のことで、晏嬰は国子に命じられて、衛侯を救うために叔向と会談している。二回目は、晋侯に嫁いでいた少姜が亡くなったため、晏嬰を晋に使わして、後を継ぐ者を晋侯に差し上げたいとする申し出をした際、叔向と内々に語らっている。晏嬰と叔向は、斉と晋において互いに例を守る立場にあり、また権臣の力が強くて君主の権力が弱いことなど、二人の立場は似通っていた。それ故に、二人には相通じるものがあったのだろう。
 
五.まとめ 

 以上、晏嬰の人物像をまとめたのだが、『晏子春秋』における晏嬰の本質は諫士であり、礼法の士であった。しかし、その根底にあるものは晏嬰の社稷を思う心である。晏嬰は、常に社稷の臣たることを心がけた。そのために礼に基づいた政治を執って民の離心を防ごうとし、民こそが国を富ませることを知っているがために、民を基本とした政治を執ったのである。

 晏嬰の社稷(国家)を中心とした政治は、当時の賢人政治の中でも鄭の子産と並んでもっとも理論的であったと言えよう。また、それが伝統的な慣習法である徳・礼とうまく混ざり合っていたがために、子産のように批判を受けることはなく、斉の支配体制を一時期とはいえ持ち直すことに成功したのである。
 

おわりに

 本稿では、第一章の概論以下、『晏子春秋』の成書年代・真偽問題・学派論争と晏嬰の本質はどこにあるのかについて論を展開してきた。

 第二章では、『晏子春秋』の成書年代・真偽問題・学派論争について述べてきた。その中で『晏子春秋』の成書年代については、戦国時代成書説が近年においては盛んに述べられてきた。しかし、『劉向別録』にみられるように重複するところが多く、またたくさんの篇に分かれているは、戦国時代に成書していたのならばまずあり得ないである。おそらく『晏子春秋』は、その重複の多さ、篇本の多さからして多くの人々に研究され、そして『晏子春秋』はもっと混乱していて、なおかつ情報の少ない時代になるべく雑多に編纂されたのではないか、というである。そして、その時代に当てはまるのは秦朝でも末期の方であり、その時代の秦に対する反抗勢力が編纂したのであろう。

 真偽問題では、『晏子春秋』には後世の竄入があったりしたので、真偽入り交じった状態である、とするのが正しいであろう。

 学派論争においては、晏嬰を一つの学派に入れてしまうのは無理がある。ならば、晏嬰の本質は一体どこにあるのか、というを考察せねばならない。

 そこで、第三章では『晏子春秋』を中心として晏嬰像を読み解いた。そこで気付いたは、晏嬰は常に国家を思う社稷の臣である、というである。礼を説くにしても、民を政治の基とするも、君主に諫言するも、すべて社稷が基本であり、君主でさえも国家に属すべき、つまりすべての人々の国家への附属論を説いているのである。

 最後に、晏嬰と『晏子春秋』の研究は、それほど為されていないのが現状であり、これは日本にも言えるである。しかし、思想の研究は春秋戦国時代の複雑な社会を解き明かす鍵にもなるので、これからもより一層の研究が必要であろう。 
 

参考文献

[1]国訳漢文大成 経子史部 第一八巻 『晏子・賈誼新書・公孫龍子』 藤田剣峯等著 国民文庫刊行会

[2]諸子集成 第四冊 『墨子間詁・晏子春秋校注』 張純一等著 一九五四年 中華書局

[3]『晏子春秋集釈』 呉則虞編著 上・下 一九六二年 中華書局

[4]『晏子春秋校釈・銀雀山漢墓竹簡』 駢宇騫編著 一九八八年 書目文献出版社

[5]中国古典新書三三 『晏子春秋』 山田琢著 一九六九年 明徳出版社

[6]文史哲学集成五 『晏子春秋研究』 王更生著 一九六七年 文史哲出版社

[7]新釈漢文大系 『史記』 一巻 吉田賢抗著 一九七三年 明治書院

[8]新釈漢文大系 『史記』 五巻 吉田賢抗著 一九七七年 明治書院

[9]新釈漢文大系 『史記』 七巻 吉田賢抗著   明治書院

[10]新釈漢文大系 『史記』 八巻 水沢利忠著  一九九〇年  明治書院

[11]『史記』 二巻 一九五九年 中華書局

[12]『史記』 七巻 一九五九年 中華書局

[13]新釈漢文大系 第三一巻 『春秋左氏伝』 鎌田正著 一九七四年 明治書院

[14]新釈漢文大系 第三二巻 『春秋左氏伝』 鎌田正著 一九七七年 明治書院

[15]新釈漢文大系 第三三巻 『春秋左氏伝』 鎌田正著  一九八一年 明治書院

[16]『漢書』 六巻 一九六二年 中華書局

[17]『隋書』 四巻 一九七三年 中華書局

[18]『唐書』 六巻 一九七五年 中華書局

[19]『宋史』 一五巻 一九八五年 中華書局

[20]中国の思想 第九巻 『論語』 久米旺生訳 一九六五年 徳間書店

[21]宇野哲人博士米寿記念論集 『中国の思想家』 上巻 「晏嬰」 宇野精一著 一九六三年 勁草書房

[22]平凡社選書一二五 『中国古代史論』 宮崎市定著 一九八八年 平凡社

[23]日本中国学会報 第三四集 「春秋時代の君臣倫理」 鈴木喜一著 一九八二年

[24]かながわ高校国語の研究 第二二集 神奈川県高等学校教科研究会国語部会紀要「孔子が描いた晏嬰像について」 星野春夫著 一九八六年

[25]中哲文学会報 第一号 「春秋後期賢人説話の思想史的考察序説」 小野沢精一著 一九七四年 東大中哲文学会

[26]社会科学輯刊 「晏子和晏子春秋」 薛安勤著 一九八八年

[27]甘肅社会科学 「晏子春秋的政治倫理思想」 肖群忠著 一九九三年

[28]西南師範学院学報 第四期 「晏子春秋略論」 徐立著 一九八三年

[29]『諸子百家大辞典』 劉冠才等編著 一九九四年 華齢出版社

[30]『大漢和辞典』 諸橋轍次著 一九六〇年 大修館書店


〔一〕参考文献[1]晏子春秋解題一頁。

〔二〕参考文献[3]目録四九頁にある。
 護左都水使者光禄大夫臣向言:所校中書晏子十一篇,臣向謹与長社尉臣参校讐,太史書五篇,臣向書一篇,参書十三篇,凡中外書三十篇,為八百三十八章。除復重二十二篇六百三十八章,定著八篇二百一十五章,外書無有三十六章,中書無有七十一章,中外皆有以相定,中書以「夭」為「芳」,「又」為「備」,「先」為「牛」,「章」為「長」,如此類者多,謹頗略 ,皆己定以殺青,書可繕寫。 晏子名嬰,諡平仲,莱人,莱者,今東莱地也。晏子博聞強記,通於古今,事斉霊公、荘公、景公,以節倹力行,盡忠極諫道斉,国君得以正行,百姓得以附親,不用則退耕于野,用則必不{言+出}義,不可脅以邪,白刀雖交胸,終不受崔杼之劫,諫斉君懸而至,順而刻。及使諸侯,莫能{言+出}其辞,其博通如此,蓋次管仲。内能親親,外能厚賢,居相国之位,受万鍾之禄,故親戚待其禄而衣食五百余家,処士待而挙火者亦甚衆。晏子衣苴布之衣,麋鹿之裘,駕敝車疲馬,盡以禄給親戚朋友,斉人以此重之。晏子蓋短……。
 其書六篇,皆忠諫其君,文章可観,義理可法,皆合六経之義。又有復重,文辞頗異,不敢遺失,復列以為一篇。又有頗不合経術,似非晏子言,疑後世弁士所為者,故亦不敢失,復以為一篇。凡八篇,其六篇可常置旁御観,謹第録。臣向味死上。

〔三〕参考文献[12]二一三四頁にある。名嬰,平諡,仲字。

〔四〕参考文献[10]四七〜五〇頁。

〔五〕参考文献[13]八六〇〜八六三頁。

〔六〕参考文献[13]*調べる。

〔七〕参考文献[26]にある。

〔八〕参考文献[29]儒家巻 晏子和晏子春秋の項にある。

〔九〕参考文献[6]二〇頁。

〔一〇〕参考文献[14]九六四〜九六七頁。

〔一一〕参考文献[8]八七〜八八頁。

〔一二〕参考文献[5]九頁。

〔一三〕注四に同じ。

〔一四〕参考文献[10]五〇〜五一頁。

〔一五〕参考文献[1]国訳晏子春秋一八二頁、晏子春秋一〇三頁。

〔一六〕参考文献[1]国訳晏子春秋六三頁・晏子春秋三五頁、国訳晏子春秋一一三頁・晏子春秋六四頁。

〔一七〕参考文献[8]九七〜九九頁。

〔一八〕参考文献[8]一〇八〜一〇九頁。

〔一九〕参考文献[14]・[15]に詳しい。

〔二〇〕注四に同じ。参考文献[1]では、国訳晏子春秋一二七〜一三〇頁 、晏子春秋七一〜七三頁にある。

〔二一〕参考文献[1]五〇〜五一頁。

〔二二〕参考文献[12]二一三六頁にある。
按:嬰所著書名晏子春秋。今其書七篇,故下云「其書世多有」也。

〔二三〕注二二に同じ。

〔二四〕参考文献[16]一七二四頁にある。
晏子八篇。名嬰,諡平仲,相斉景公,孔子称善与人交,有列伝。

〔二五〕注二を見よ。

〔二六〕参考文献[17]九九七頁にある。
晏子春秋七巻,斉大夫晏嬰撰。

〔二七〕参考文献[4]一〇七頁、[6]三六頁にある。
 司馬遷読《晏子春秋》,高之,而莫知其所以為書。或日晏子為之而人接焉,或日晏子之後為之,皆非也。吾疑其墨子之徒有斉人者為之。墨好倹,晏子以倹名於世,故墨子之徒尊著其事以増高為己術者。且其旨多尚同、兼愛、非楽、節用、非厚葬久喪者,是皆出墨子,又非孔子,好言鬼事,非儒・明鬼又出墨子,其言問棗及古治子等尤怪誕,又往往言墨子聞其道而称之,此甚顕白者。自劉向、{音+欠}、班彪、固父子,皆録之儒家中,甚矣!数子之不詳也。蓋非斉人不能具其事,非墨子之徒則其言不若是。後之録諸子書者,宜列之墨家,非晏子為墨也,為是書者墨之道也。

〔二八〕参考文献[4]一〇四頁にある。
 《晏子春秋》十二巻,右斉晏嬰也。嬰相景公,此書著其行事及諫諍之言、昔司馬遷読而高之,而莫知其所以為書。或曰晏子之後為之。唐柳宗元謂遷之言乃然,以為墨子之徒有斉人者為之。墨好倹名世,故墨子之徒尊著其事以増高為己術者,且其旨多尚同、兼愛、非楽、節用、非厚葬久喪、非儒、明鬼、皆出墨子,又往往言墨子聞其道而称之,此甚顕白。自向、{音+欠}、彪、固皆録之儒家,非是,後宜列之墨家。今従宗元之説云。

〔二九〕注二八に同じ。
 《晏子春秋》十二巻,晏嬰撰。《晏子》八篇,今亡。此書蓋後人采嬰行事為之,以為晏嬰撰則非也。

〔三〇〕参考文献[4]一〇五頁にある。
 《晏子春秋》十二巻,斉大夫平仲晏嬰撰。《漢志》八巻,但曰《晏子》,隋、唐七巻,始号《晏子春秋》,今巻数不同,未知果本書否。

〔三一〕参考文献[18]二〇二三頁にある。
 晏子春秋七巻,晏嬰撰。

〔三二〕参考文献[19]五一七一頁にある。
 晏子春秋十二巻。

〔三三〕注三〇に同じ。
 《晏子春秋》八巻,撰人名氏無考。旧題晏嬰撰者,誤也。書中皆述嬰遺事,実《魏徴諫録》、《李絳論事集》之流,与著書立説者迥別。列之儒家,於宗旨固非,列之墨家,於体裁亦未允;改隷伝記,庶得其真。

〔三四〕参考文献[4]一〇七〜一一〇頁、[6]三七〜三八頁にある。
  《晏子》八篇,見《芸文志》,後人以篇為巻,又合《雑上、下》二篇為一,則為七巻,見《七略》(《史記・正義》,「《七略》云:『《晏子春秋》七篇,在儒家。』」)及《隋、唐志》。宋時析為十四巻(《玉海》「四」作「二」,疑誤。),見《崇文総目》,実是劉向校本,非偽書也。其書与周、秦、漢人所説不同者:《問下》景公問晏子転附、朝舞,《管子》作「桓公問管子」,昭公問莫三人而迷,《韓非》作「哀公」。《諫上》景公遊於麦丘,《韓詩外伝》、《新序》倶作「桓公」。《問上》景公問晏子治国何患?患社鼠,《韓非》、《説苑》倶作「桓公問管仲」。《問下》柏常騫去周之斉見晏子,《家語》作「問於孔子」。如此,《春秋》三《伝》,伝聞異辞,若是偽書,必採録諸家,何得有異?唐、宋己来,伝注家多引《晏子》。《問上》云「内則蔽善悪於君上,外則売権重於百姓」,《芸文類聚》作「出則売重寒熱,人則矯謁奴利」,一作「出則売寒熱,入則比周」。《雑下》「繁組馳之」,《文選》注作「撃驛而馳」,《韓非》作「煩且」。《諫下》「接一搏 而再搏乳虎」,《後漢書》注作「持楯而再搏猛虎」。《問上》「仲尼居処惰倦」,《意林》作「居陋巷」。《諫上》「天之降殃,固於富強,為善不用,出政不行」,《太平御覧》作「当強為善」。(此誤「富」字為「当」,又誤読其句。)比皆唐、宋人伝寫之誤,若是偽書,必採録伝注,何得有異?且《晏子》文与経史不同者数事:《詩》「載驂載駟,君子所届」,《箋》訓為「極」,《諫上》則作「誡」,以箴駕八非制,則当為誡慎之義。《諫上》景公遊於公阜,言「古而無死」及「拠与我和」,日暮四面望賭彗星,云「夫子一日而三責我」,《雑下》又云「昔者吾与夫子遊於公邑之上,一日而三不聴寡人」,是為一時之事,《左伝》則以「古而無死」・「拠与我和」之言在魯昭二十年,其「斉有彗星」降在魯昭二十六年者,蓋縁陳氏厚施之事,追溯災祥及之耳。此事本不見《春秋》経,然則彗星見実在昭二十年、斉景之二十六年,《史記・十二諸侯年表》誤在魯昭二十六年、斉景之三十二年,非也。《問下》越石父反裘負薪息於塗側,曰「吾為人臣僕於中牟,見使将帰」,《呂氏春秋》及《新序》則云「斉人累之」,亦言以負累作僕,実非{テヘン+嬰}罪,《史記》則誤云「越石父在縲紲中」,又非也。他若引《詩》「武王豈不仕」,「仕」作「事」;引《左伝》「蘊利生{薛+子}」,「薀」作「怨」,「国之諸市」作「国都之市」,皆是補益経義,是以服虔、鄭康成、郭璞注書多引之。書中与《管》、《列》、《墨》、《荀》、《孟》、《韓非》、《呂覧》、《淮南》、《孔叢》、《塩鉄論》、《韓詩外伝》、《説苑》、《新序》、《列女伝》、《風俗通》諸書文辞互異,足資参訂者甚多。《晏子》文最古質,《玉海》引《崇文総目》十四巻,或以為後人采嬰行事為書,故巻帙頗多於前志,蓋妄言矣。《晏子》名《春秋》,見於史遷、《孔叢子・順説》及《風俗通》。「春秋」者,編年紀事之名,疑其文出於斉之《春秋》,即《墨子・明鬼篇》所引。嬰死,其賓客哀之,従国史刺取其行事成書,雖無年月,尚仍旧名,虞卿、陸賈等襲其号。《晏子》書成在戦国之世,凡称子書,多非自著,無足怪者。儒者莫先於《晏子》,今《荀子》有楊{イ+京}注,《孟子》有趙岐注,唯《晏子》古無注本。劉向分《内、外篇》,乱其次第,意尚嫌之。世俗所伝本,則皆明人所刊,或以《外篇》為細事附著《内篇》各章,或刪去詆毀仲尼及問棗諸章,故書不可考矣。惟萬暦間沈?(啓)南校梓本尚為完善,自《初学記》、《文選注》、《芸文類聚》、《後漢書注》、《太平御覧》諸書所引,皆具於篇,末章所欠,又適拠《説苑》補足,既得諸本,是正文字,又為《音義》於後,明有依拠。定為八篇,以従《漢志》,為七巻,以従《七略》,雖不能復旧観,以為勝俗本遠矣。善乎劉向之言:「其書六篇,皆忠諫其君,文章可観,義理可法,皆合六経之義。」是以前代入之儒家。柳宗元文人無学,謂墨氏之徒為之,《郡斉読書志》、《文献通考》承其誤,可謂無識。晏子尚倹,《礼》所謂「国奢則示之以倹」,其居晏桓子之喪,盡礼亦与墨子短喪之法異。《孔叢》云:「察伝記晏子之所行,未有以異於儒焉。」儒之道甚大,孔子言「儒行有過失可微弁而不可面数」,故公伯寮愬子路而同列聖門,晏子尼渓之阻,何害為儒?且古人書「外篇」,半由依託,又劉向所謂「疑後世弁士所為」者,悪得以此病晏子!

〔三五〕参考文献[4]一一一頁、[6]三九頁にある。
 《晏子春秋》非晏子所作,柳氏之弁審矣,而其説猶未盡。吾疑其書蓋晩出,非太史公、劉向所見本。太史公、劉向所見之《晏子春秋》,不知何時亡失之,而六朝人好作偽者依放為之耳。凡先秦古書於義理頗(或)多駁悖,而詞気奥勁,必非東漢以来文士所能擬作,如《晋乗》、《楚檮机》、《孔叢子》諸書,皆断然可決其非出周、秦間矣。柳子言為是書者墨之道,吾以為此特因晏子以節倹名当世,非仮是不足以成書,故刺取墨子以衍其説,未必果為墨者為之也。

〔三六〕参考文献[4]一一一〜一一二頁、[6]三九〜四〇頁にある。
 陽湖孫督糧星衍甚好《晏子春秋》,為之《音義》。吾謂漢人所言《晏子春秋》不伝久矣,世所有者,後人偽為者耳。何以言之?太史公為《管晏伝》賛曰:「其書世多有,故不論,論其軼事。」仲之《伝》載仲言交鮑叔事独詳悉,此仲之軼事,《管子》所無。以是推之,薦御者為大夫,脱越石父於縲絏,此亦嬰之軼事,而《晏子春秋》所無也。仮令当時書有是文,如今《晏子》,太史公安得称曰軼事哉?吾故知非其本也。唐柳宗元者知疑其書,而以為出於墨氏,墨氏之徒去晏子固不甚遠,苟所為猶近古,其浅薄不当至是。是書自管、孟、荀、韓,下逮韓嬰、劉向書,皆見剽窃,其詆{此+言}孔子事本出《墨子非儒篇》,為書者見墨子有是意,嬰之道必有与{羽+隹}同者,故既采《非儒篇》入《晏子》,又往往言墨子聞其道而称之,是此書之附於墨氏,而非墨氏之徒為是書也。且劉向、{音+欠}、班彪、固父子,其識皆与太史公相上下,苟所見如今書多墨氏説,彼校書胡為入之儒家哉?然則孰為之?曰:其文浅薄過甚,其諸六朝後人為之者与?

〔三七〕参考文献[4]一一二頁、[6]四一頁にある。
 今存。《隋、唐志》皆七巻,題為《晏子春秋》,蓋襲《史記》所称名。《崇文総目》作十二巻。《郡斉読書志》、《文献通考》皆改入史部伝記類。
 《史記・管晏列伝》云:「余読《晏子春秋》,詳哉其言之也。其書世多有之。」《淮南子・要略》云:「斉景公内好聲色,外好狗馬……故晏子之諫生焉。」皆以為晏子有著書,且其書在西漢時蓋其盛行。
 《漢志》此書即司馬遷、劉安所見本也。然殆非春秋時書,尤非晏子自作。柳宗元謂墨子之徒有斉人者為之,蓋近是。然其人非能知墨子者,且其依託年代似甚晩,或不在戦国而在漢初也。今伝之本,是否為遷、安所嘗読者,蓋未可知。然似是劉向所校正之本,非東漢後人竄乱益也。其書{テヘン+尋}{テヘン+奢}成篇,雖先秦遺文間藉以保存,然無宗旨,無系統。《漢志》以列儒家固不類,晁焉因子厚之言改隷墨家尤為不取。四庫入史部伝記,尚較適耳。

〔三八〕参考文献[2]叙の一〜二頁。

〔三九〕参考文献[4]一一二〜一一四頁。

〔四〇〕参考文献[4]一一四〜一二九頁。

〔四一〕参考文献[3]一七〜三九頁。

〔四二〕参考文献[4]九七頁。

〔四三〕参考文献[1]三四頁。

〔四四〕参考文献[26]にある。

〔四五〕参考文献[28]にある。

〔四六〕参考文献[6]六八頁。

〔四七〕参考文献[6]七三頁。

〔四八〕論語などに詳しい。

〔四九〕参考文献[1]一一〇頁。

〔五〇〕参考文献[4]一〇三頁。

〔五一〕注四一に同じ。

〔五二〕参考文献[1]国訳晏子春秋一〇四〜一〇五・一二六〜一二七頁、晏子春秋五九・七一頁。

〔五三〕参考文献[1]国訳晏子春秋一一八〜一一九頁、晏子春秋六七頁。

〔五四〕参考文献[21]四二頁。

〔五五〕参考文献[8]・[14]・[15]に詳しい。

〔五六〕参考文献[1]国訳晏子春秋二四〜二五頁・晏子春秋一三頁などに見える。

〔五七〕参考文献[15]一五七八〜一五八〇頁。

〔五八〕参考文献[1]国訳晏子春秋六二〜六三頁・晏子春秋三五頁。

〔五九〕参考文献[1]国訳晏子春秋七〇〜七一頁・晏子春秋三九〜四〇頁。

〔六〇〕参考文献[14]一二九九〜一三〇三頁。

〔六一〕参考文献[1]国訳晏子春秋二〜三頁・晏子春秋一〜二頁、国訳晏子春秋一五七〜一五八頁・晏子春秋八九〜九〇頁などに見える。

〔六二〕参考文献[1]国訳晏子春秋一〇八〜一一一頁・晏子春秋六一〜六三頁、[14]一〇四四〜一〇五一頁。

〔六三〕参考文献[1]国訳晏子春秋一一三頁・晏子春秋六四頁。

〔六四〕参考文献[1]国訳晏子春秋一四五〜一四六頁・晏子春秋八二〜八三頁。

〔六五〕参考文献[14]一三五三〜一三五六頁。

〔六六〕参考文献[1]国訳晏子春秋六六〜六八頁・晏子春秋三七〜三八頁、[14]一二四二〜一二四七頁などに見える。

〔六七〕参考文献[1]国訳晏子春秋一七三〜一七五頁・晏子春秋九八頁、[15]一五七八〜一五八〇頁。

〔六八〕参考文献[15]一五七八〜一五八〇頁に関連記事あり。

〔六九〕参考文献[1]国訳晏子春秋一六七〜一六八頁・晏子春秋九四〜九五頁。

〔七〇〕注六五に同じ。

〔七一〕注六四に同じ。

〔七二〕参考文献[1]国訳晏子春秋一五一〜一五二・晏子春秋八六頁などに見える。

〔七三〕参考文献[20]八二〜八三頁。

〔七四〕参考文献[1]国訳晏子春秋一〇七〜一〇九頁、晏子春秋六一〜六二頁などに見える。

〔七五〕参考文献[1]国訳晏子春秋 一〜二頁・晏子春秋一頁、国訳晏子春秋二二頁・晏子春秋一一〜一二頁、国訳晏子春秋一〇七〜一〇九頁、晏子春秋六一〜六二頁、[14]一〇〇八〜一〇一〇頁、一〇一五〜一〇三二頁などに見える。

〔七六〕参考文献[1]国訳晏子春秋五六〜五八頁・晏子春秋三一〜三二頁。

〔七七〕参考文献[1]国訳晏子春秋七八〜七九頁・晏子春秋四四頁、国訳晏子春秋八一〜八二頁・晏子春秋四六頁などに見える。

〔七八〕参考文献[1]国訳晏子春秋一〇〜一一頁・晏子春秋五〜六頁、国訳晏子春秋四五〜四六頁・晏子春秋二五〜二六頁などに見える。

〔七九〕参考文献[1]国訳晏子春秋四五〜四六頁・晏子春秋二五〜二六頁などに見える。

〔八〇〕参考文献[1]国訳晏子春秋一七二〜一七三頁・晏子春秋九七頁。

〔八一〕参考文献[1]国訳晏子春秋二〜七頁・晏子春秋一〜四頁などに見える。

〔八二〕参考文献[1]国訳晏子春秋五〜七頁・晏子春秋三〜四頁。

〔八三〕参考文献[1]国訳晏子春秋三八〜四〇頁・晏子春秋二一〜二二頁などに見える。

〔八四〕参考文献[1]国訳晏子春秋三七〜三八頁・晏子春秋二一頁。

〔八五〕参考文献[1]国訳晏子春秋七一〜七二頁・晏子春秋四〇頁などに見える。

〔八六〕参考文献[29]には晏嬰の民本観が述べられており、[2]八三頁の注には、「凡事以愛民利民為本」とあるなど、晏嬰の民本主義思想に関する記述は多く述べられているところである。

〔八七〕参考文献[1]国訳晏子春秋二〜三頁・晏子春秋一〜二頁などに見える。

〔八八〕参考文献[1]国訳晏子春秋四二〜四三頁・晏子春秋二三〜二四頁などに見える。

〔八九〕参考文献[1]国訳晏子春秋三二〜三四頁・晏子春秋一八〜一九頁、国訳晏子春秋一五一頁・晏子春秋八五〜八六頁などに見える。

〔九〇〕参考文献[1]国訳晏子春秋一七〜一九頁・晏子春秋九〜一〇頁などに見える。

〔九一〕参考文献[1]国訳晏子春秋三〇頁・晏子春秋一六頁などに見える。

〔九二〕参考文献[1]国訳晏子春秋三〇〜三一頁・晏子春秋一六頁。

〔九三〕参考文献[1]国訳晏子春秋一一五頁・晏子春秋六五頁。

〔九四〕注八九に同じ。

〔九五〕参考文献[1]国訳晏子春秋一九〜二〇頁・晏子春秋一〇〜一一頁。

〔九六〕参考文献[1]国訳晏子春秋一三八〜一三九頁・晏子春秋七八〜七九頁。

〔九七〕参考文献[1]国訳晏子春秋一六三〜一六五頁・晏子春秋九二〜九三頁、[15]一四九〇〜一四九五頁。

〔九八〕注十三を見よ。

〔九九〕参考文献[1]国訳晏子春秋四二〜四五頁・晏子春秋二三〜二五頁などに見える。

〔一〇〇〕参考文献[1]国訳晏子春秋三七〜四〇頁・晏子春秋二一〜二二頁などに見える。

〔一〇一〕参考文献[1]国訳晏子春秋三二〜三四頁・晏子春秋一八〜一九頁などに見える。

〔一〇二〕参考文献[1]国訳晏子春秋一一一〜一一三頁・晏子春秋六三〜六四頁、一七七〜一七八頁・晏子春秋一〇〇頁。

〔一〇三〕参考文献[1]国訳晏子春秋一一三頁・晏子春秋六四頁、国訳晏子春秋一七九頁・晏子春秋一〇一頁などに見える。

〔一〇四〕参考文献[1]国訳晏子春秋七一〜七二頁・晏子春秋四〇頁などに見える。

〔一〇五〕参考文献[26]で述べられている。

〔一〇六〕参考文献[22]に詳しい。

〔一〇七〕参考文献[1]国訳晏子春秋七一〜七二頁・晏子春秋四〇頁。

〔一〇八〕参考文献[1]国訳晏子春秋八九〜九〇頁・晏子春秋五一頁。

〔一〇九〕参考文献[23]に詳しい。

〔一一〇〕注六二に同じ。

〔一一一〕参考文献[1]国訳晏子春秋七七頁・晏子春秋四三頁、国訳晏子春秋八三頁・晏子春秋四六〜四七頁。

〔一一二〕参考文献[7]一六五〜一六六頁。

〔一一三〕参考文献[7]三二五〜三二六頁。

〔一一四〕注六二に同じ。

〔一一五〕参考文献[1]国訳晏子春秋四一頁・晏子春秋二三頁、国訳晏子春秋七二〜七三頁・晏子春秋四〇〜四一頁などに見える。

〔一一六〕参考文献[9]七八〜七九頁。

〔一一七〕参考文献[30]にある。

〔一一八〕本稿三四〜三五頁を見よ。

〔一一九〕参考文献[25]にある。

〔一二〇〕参考文献[30]。社は土地の神、稷は五穀の神。社には向龍を配し、稷には后稷を配して祀る。一説に、社稷はただ向龍・后稷の二人神であるという。君主が居城を建てる時は、この二神を応急の右に祭り、宗廟を左に祭る。君を社稷の主とし、国家存すれば社稷の祭り行われ、亡べば廃せられることから、転じて、国家のことをいう。

〔一二一〕参考文献[1]国訳晏子春秋一一八頁・晏子春秋六七頁。

〔一二二〕参考文献[1]国訳晏子春秋一〇五頁・晏子春秋五九頁、国訳晏子春秋一七六〜一七七頁・晏子春秋九九〜一〇〇頁。

〔一二三〕参考文献[1]国訳晏子春秋一五〜一七頁・晏子春秋八〜九頁などに見える。

〔一二四〕参考文献[1]国訳晏子春秋一四八〜一五二頁・晏子春秋八四〜八六頁などに見える。

〔一二五〕参考文献[1]国訳晏子春秋一四六〜一四七頁・晏子春秋八三頁、国訳晏子春秋一五〇〜一五一頁・晏子春秋八五頁。

〔一二六〕参考文献[1]国訳晏子春秋一〇八〜一〇九頁・晏子春秋六一〜六二頁。

〔一二七〕参考文献[14]一一四七〜一一四九頁。

〔一二八〕注六四・六五に同じ。

〔一二九〕参考文献[21]五一頁にある。

〔一三〇〕注一二七に同じ。

〔一三一〕参考文献[1]解題一頁。

〔一三二〕参考文献[1]国訳晏子春秋一五一頁・晏子春秋八五〜八六頁。

〔一三三〕参考文献[13]・[14]・[15]に詳しい。

〔一三四〕注一三一に同じ。

〔一三五〕参考文献[8]八八〜八九頁などに見られる。

〔一三六〕参考文献[14]一〇〇八〜一〇一〇頁に関連記事あり。

〔一三七〕参考文献[1]国訳晏子春秋一二〇〜一二一頁・晏子春秋六八頁。

〔一三八〕参考文献[1]国訳晏子春秋一四一〜一四三頁・七九〜八一頁。

〔一三九〕参考文献[1]国訳晏子春秋一四二頁・晏子春秋八〇頁。

〔一四〇〕参考文献[1]国訳晏子春秋九〇頁・晏子春秋五一〜五二頁、国訳晏子春秋一二四〜一二五・晏子春秋七〇〜七一頁などに見える。

〔一四一〕参考文献[1]国訳晏子春秋一二四〜一二五頁・晏子春秋七〇〜七一頁。

〔一四二〕参考文献[1]国訳晏子春秋一二四頁・晏子春秋七〇頁。

〔一四三〕参考文献[1]国訳晏子春秋八八〜九〇頁・晏子春秋五一頁、国訳晏子春秋一四〇〜一四一頁・晏子春秋七九頁。

〔一四四〕参考文献[9]八一九〜八二一頁。

〔一四五〕注一〇三に同じ。

〔一四六〕参考文献[24]にある。

〔一四七〕参考文献[1]国訳晏子春秋二七〜二八頁・晏子春秋一四〜一五頁。

〔一四八〕参考文献[1]国訳晏子春秋六〇〜六一頁・三三〜三四頁、[8]一〇〇八〜一〇三二頁。

〔一四九〕参考文献[11]六三八頁には、「晋囲臨{緇-糸+サンズイ}。晏嬰。」 としか書かれていないが、[6]二三頁では、「晋囲臨{緇-糸+サンズイ}。晏嬰大破之」とある。

〔一五〇〕注六四・六五に同じ。

〔一五一〕参考文献[8]八七頁、[14]九七〇〜九七二頁。

〔一五二〕参考文献[8]八八〜八九頁、[14]一〇〇八〜一〇〇九頁。

〔一五三〕注一四五に同じ。

〔一五四〕参考文献[8]八九〜九〇頁、[14]一〇四四〜一〇四八頁。

〔一五五〕参考文献[1]国訳晏子春秋一〇〜一一頁・晏子春秋五〜六頁。

〔一五六〕参考文献[1]国訳晏子春秋一三九〜一四〇頁・晏子春秋七九頁。

〔一五七〕参考文献[1]国訳晏子春秋一四五〜一四六頁・晏子春秋八二〜八三頁。

〔一五八〕参考文献[14]一三五三〜一三五六頁。

〔一五九〕参考文献[1]国訳晏子春秋九〇頁・晏子春秋五一〜五二頁。

〔一六〇〕注一五二に同じ。

〔一六一〕注一二二に同じ。

〔一六二〕参考文献[1]国訳晏子春秋一九二〜一九三頁・晏子春秋一〇九〜一一〇頁。

〔一六三〕参考文献[1]国訳晏子春秋一八五〜一八六頁・一〇四〜一〇五頁。

〔一六四〕参考文献[1]国訳晏子春秋一八二〜一八四頁・晏子春秋一〇三〜一〇四頁。

〔一六五〕参考文献[1]注一二六に同じ。

〔一六六〕参考文献[14]一三三八〜一三四一頁。

〔一六七〕注一一五に同じ。

〔一六八〕参考文献[10]の司馬穣苴列伝に詳しい。

〔一六九〕参考文献[14]一〇七四〜一〇七六頁。

〔一七〇〕参考文献[1]国訳晏子春秋九四〜一〇四頁・晏子春秋五四〜五九頁、[14]一二四二〜一二四七頁。