科挙について
―唐代の文学と科挙の関係―


人文学部 人文学科 中国文化専攻
00L1121L 山口勝巳


 目次

 はじめに
 

 第一章 唐詩と科挙の関係 詩の発展とその流れから 

 (一)唐詩発展の社会的要因

 (二)近体詩の成立 唐で生まれた新しい形式

 (三)行巻という風習

 第二章 唐代の科挙

 (一)科挙について

 (二)唐代の科挙の試験内容 進士科に問われた問題

 ①経書の試験
 ②韻文の試験 詩と賦
 ③散文の試験 時事策等

 おわりに

 注釈並びに参考文献


はじめに
 

 私が、初めて「科挙」という言葉を知ったのは、正確ではないが、中学か高校の国語の授業で出てきた、『山月記』(中島敦著)という作品で あった。簡単に内容を説明するならば、主人公は科挙に合格し、念願の官僚になることができた。しかし、ただノルマ的な仕事をこなすばかりの毎日と、官僚社 会の中でのしがらみ等が相重なって、精神破壊をきたし、やがて一匹の虎となってしまう、といったようなはなしであった。これは、著者である中島敦自身の生 い立ちと重ねているとも思われる作品であり、それを中国における知識(科挙について、また、それを受けた人々の様子)を混ぜ込みながら作ったものであると 思う。この作品に触れた当時、ただ内容を追う為に読んだ注釈でしか「科挙」というものを捉えなかったが、大学に入り、中国文化を専攻するに至ってみると、 「科挙」にまつわる知識、作品に多く出会う機会を得てみて、卒業論文のテーマとして扱うことにした。

 「科挙」というのは、隋の時代から始まり、清まで継続した官吏登用試験ことである。中でも、唐の時代においては、詩作が試験に用いられ るという、現在においては考えられないような方法を使っていた。唐という時代は、ご周知の事と思うが、後世、世界的に有名になっている詩人を始め、実に数 多くの詩人達がいた。そして、その多くの詩人たちは、その大多数が「科挙」を受けていたのである。これは、ただの偶然なのだろうか。それとも、中国きって の数多くの詩人達が輩出された唐という時代、その文学(主に詩について)の発展における背景と、官吏登用試験に文学を問う試験を用いたこととの間には、何 か大きな関係があったのだろうか。唐における文学発展の背景と、実際の試験においてどのように出題されていたのかを探って考察しようと思ったのでものあ る。

 直、唐代の科挙において詩作を試験に取り入れていたのは、幾つかの科がある内で最も重んじられ、出世街道を進める可能性が最も高かった、「進士」という科においてのみであるので、この文中で述べられている科挙の部分では主に進士科についてであることをご承知頂きたい。
 

第一章  唐詩と科挙の関係   詩の発展とその流れから
 

 唐という時代は、中国古典詩における全盛期である。そこで生まれた唐詩は、後世、あらゆるジャンルの文学に影響を与え、世界文学史上にお いても高い地位を占めている。我が国においては、政治面や文化面、そして文学面において多くの影響をその唐という時代から受けてきた。現在でも、中学や高 校の漢文の教科書には、白居易の詩などがみられる程である。しかし、そうなるまでに至ったあらゆる要因が考えられるだろう。科挙との関係を視野にいれなが ら考察してみようと思う。

(一)唐詩発展の社会的要因

 まず第一に、社会的要因であるが、隋末におきた農民蜂起以降、六朝時代続いていた封建的従属関係が大きく弱まった。数多くの奴隷達は奴属 状態から脱し、地主と小作人の関係が増大し始めた。しかも、農民蜂起軍が豪族地主に与えた打撃は深刻で、その財産を分割したために、封建搾取も減った。そ して多くの農民たちが勤勉に働くようになり、生産は増大し、社会経済を繁栄させたのであった。

 また、全国統一を果たした唐王朝は、先の農民蜂起によって、あっけなく滅亡に至ってしまったのに反省し、偏向や弊害を除く施政を採用 し、均田制を実施した。貞観(太宗の年号、六二七~四九)年間には、社会生産はかなり回復し、封建政治も軌道に乗って、階級矛盾も緩和した。租・庸・調の 税法の実施も、賦税や徭役の負担を軽減させ、働く民衆の処遇にも改善された点がみられた。以上のような一連の生産改革によって、唐王朝は急速に強大になっ ていった。唐初から百年余りを経て玄宗の開元年間に至ると、経済の発展は頂点に達した。当時の様子を、杜甫(七一二~七七〇)の「昔を憶う」という詩の第 二首にみることができる。

①憶昔開元全盛日、     憶う昔 開元全盛の日、
②小邑猶藏萬家室。     小邑すら猶お蔵す 万家の室。
③稲米流脂粟米白、     稲米 脂を流し 粟米白く、
④公私倉廩皆豊實。     公私の倉廩 皆 豊実。
⑤九州道路無豺虎、     九州の道路に 豺虎無く、
⑥遠行不勞吉日出。     遠行 労せず 吉日に出ずるを。
 分かりやすくするために句ごとに番号をつけたが、①はともかく、②・③・④句目のところでは当時の農作物の生産性の高さが、⑤・⑥句目のところでは、各方面へと繋がる道が整備されており、遠くへ行くのにも安全で快適になった、ということが分かると思われる。

 封建経済の高度な発展と外国との交通の発達によって、アジア各地の目が中国に向けられ、唐帝国はアジア各国との経済交流の中心となった。当時、ア ジアの商人が貿易のために中国を訪れ、また、数多くの国が、中国の進んだ文化を吸収しようと、大勢の留学生を長安に派遣したのである。

 政治的側面においては、まず国勢が強大なり、民衆が祖国を誇りに思うようになった。次いで全国の統一や交通の発達によって、南北及び中央と地方の文化が幅広く交流し、融合する機会が確立した。多数の詩人が辺境の風光をくまなく遊覧し、その生活領域を拡大させたのである。

 経済や文化の発展によって、多くの人々が詩歌の創作や鑑賞に身を投じるようになり、文学芸術のあらゆる領域の進歩が促された。

 唐王朝の支配者は、漢代のように儒教のみを国教として定めることはしなかった。李氏唐王家は、道家の創始者、李耳の子孫と称して、道家と道教の地位を高めた。それとともに、中国に伝来した仏教も自由に布教させた。このような状況が、詩人の思想を活発にしたのである。

 また、唐は隋の制度を継承して科挙を実施した。唐の太宗がこれを実施した最初の目的は、知識階級を籠絡することにあった。しかしこの実施 によって、中下層地主階級の知識階級人は、政治的にも、文化的にもそれ以前より一層自由に発展することが可能になった。そうした知識階級は、現実の生活を 多方面にわたって詩歌に反映させた。こうして詩歌が宮廷と少数の貴族文人の手中から解放され、内容も広がって、生活との関連が強められた。そこで重要なの は、中小地主階級出身の文人が、政治上の地位を獲得しようとしたために、豪族地主や貴族支配階級との間に対立が生じたことである。彼らは豪族地主や貴族階 級と闘争する時に、しばしば統治階級の残虐性や、民衆の苦しみを詩歌に表した。文人たちの叫びが、民衆の利益と合致したのである。このような進歩的詩人 は、生活上もかなり大衆に近くなったので、人々の生活を理解し得た。そのため、辛辣な詩筆を用いて当時の暗黒社会を暴き、階級矛盾と民族矛盾を鋭く反映さ せることができたのである。

 唐詩が盛んになった第二の要因は、唐代前期の最高権力者が詩歌を愛好し、科挙にも「詩賦」という科目を新たに課したことである。(「詩 賦」については、第二章の唐代の科挙における試験内容のところで詳しく述べる。)確かに支配者が提唱したのは、民主性をそなえた詩篇ではなく、また、科挙 の答案に書かれた詩にも秀作は見当たらない。それでも、支配者による作詩の提唱は、詩歌の盛行に大きな影響与えたのである。唐代は広範な民衆が詩歌を愛好 し、それはすでに社会の風潮ともなっていったのである。

 この他、絵画・音楽・書道・舞踊の発展も、詩歌の内容的豊かさや技術的レベルアップを促した。その結果、唐詩はいっそう幅広い人々に愛好されるに至ることになったのである(1)。

 さて、以上の文によって様々な社会的要因を提示したが、私が注目している点は、唐代前期の最高権力者が詩歌を愛好し、科挙の科目に詩を導入したということと、中下層地主階級出身の知識人たちが現実の生活を詩歌に反映させ、民衆たちの理解を獲得したというところである。

 国が発展し、生活が豊かになってくれば、人々の心も豊かになり、文学や芸術への関心が高まるという流れは、ごく自然なものであると考えら れる。しかし、それで当時の最高権力者も詩歌等に高い関心を持ち、愛好するようになったからといって、やがては国の中枢を担うかもしれぬ人材の登用試験科 目に、どうして詩作なんかを導入したのであろうか。作詞自体が上手いことと、実務において有能であるということは、はっきりいえば関係ないと思う。ところ が、そこに中国特有といってもいいような印象を受けたのである。古い詩や民歌の類には、国の行政に関して風刺を歌ったり、苦しい生活を歌ったりするもの (『詩経』の国風における民歌等)があり、その詩や歌を採集させて、行政上の参考にして国を治めていた時期もあるようである。もし、当時の天子も、文学へ の高い関心からこの事を重く受け止めて、古き文学に精通し、尚且つ、それを国の政治に活かせるような人材かを図る意味で、詩作を導入したのであれば、納得 できなくもないし、また、古くから中国においては政治における側近、戦時における策士たちが故事を用いて説得するような話が多くみられ、何かにつけて文学 の力が大きく影響していると思うのである。

 以上に述べた内容は、唐代前期におけるものであるが、最盛期を迎えた唐は、安史の乱(七五五~七六三)をかわきりに衰退していく。安史 の乱の終息後は、中央勢力が弱まり、近隣民族の攻撃や地方軍閥の内乱が起こった。国の情勢は悪化したとはいえ、このことも文学発展に影響したことの一要因 といえる。というのは、一連の戦いによって都が荒廃すると、何もできない貴族達は都を逃げていった。しかし、そこに残って必死に城を守ろうとした者もいた のである。それは、地位の確保や勢力の拡大といった、自らの利益ばかりを追求するような支配階級などとは違う下級貴族達などであった。争いが治まってくる と、それまでの支配階級の勢力も弱まった。これによって、高位貴族の道楽的な詩作などがなくなり、地位の低い者達による詩の創作がなされていくようになる のである。こうして、あらゆる階層の人々が詩作に携わる状況が徐々にできてきたのではないだろうか。

(二)近体詩の成立  唐で生まれた新しい形式

 (一)において、唐詩の発展を社会的要因、主に科挙との関係に焦点をあててみてきたが、それ以外にも、詩それ自体の発展についても述べておく必要がある。その中で、現代においても多くの研究がなされ、作品としても数多く紹介されている「近体詩」ついて述べておく。

 六朝の文人の詩は、南斉の永明年間(四八三~四九三)以来、沈約(四四一~五一二)等の提唱によって詩の中の四声を整え合わせ、「八病」 (平頭、上尾、蜂腰、鶴膝、大韻、小韻、旁紐、正紐)を避けることを重んじた。この「声律論」は、非常に頑なな規則であったため、斉・梁の一部の文人の反 対にあったが、その中のある部分は、言語声調の自然な発展の法則に合っていた。その結果、試行錯誤や整理、淘汰を経て唐代まで至り、四声の区分は平・仄の 二種類にまとめられた。「平」とは四声本来の平声であり、「仄」とは上・去・入三声の字を包括している。八病が淘汰された後も、双声疊韻、句法整斉、隔句 押韻、一首の短詩内では同じ字を重ねないなどの規則が残り、次第に律詩が作られていった。

 漢魏六朝時代の詩歌は、主に五言詩であった。これは、漢魏六朝時代の詩歌の内容にもとづき、当時の言語発達にかなっており、『詩経』の 四言詩に基礎名に立って発展したのである。だが、詩歌の思想内容が次第に複雑になると、それにつれて言語構造が変化して、六朝詩人はすでに七言の詩歌を書 くようになっていた。唐代に入ると、詩歌の内容はさらに豊かになり、五言の構造では、ますます複雑になる形象や思想内容を十分に表現しきれない場合も出て きた。その結果、七言詩が大量に作られるようになり、五言律詩の基礎に立って七言律詩が形成されたのである。

 律詩は唐初になって初めて作られたもので、唐の人々は律詩を「近体詩」、あるいは、「今体詩」とよんだ。近体詩は、律詩以外に五言・七 言の絶句も含んでいる。絶句のような四句の小詩は、もともと、唐代以前の民歌や文人の詩に、かなり早くから見出せる。だが、六朝の絶句は、平仄や対句に意 を凝らすことはなかった。唐代になって絶句が律詩の影響を受けて、平仄や対句、押韻工夫を凝らすようになったのである。

 律詩や絶句という新しい詩体は、唐代詩人の大きな興味を引き起こし、ほとんどの詩人がこの清新な形式の詩を試みたいと考えた。近体詩の 格律は厳密で、対句がよく整っているし、声調が抑揚して起伏に富み、形式美を備えている。だが、実際に詩人が詩を試みる時、必ずしもその規律を完全に守っ たわけではなく、手を加える余地が残っていたりした。それ故に、近体詩には、対句や抑揚の形式美以外にはかなりの自由があり、詩人の手足を束縛しないとい うことがわかってきた。その結果、近体詩を作ることが急速に当時の風潮となり、人々に好まれる形式となっていった。このことが芸術的技巧を洗練させ、詩歌 の創作を盛んにさせるという点で、大きな推進力となったのである(2)。

 さて、近体詩がつくられる上で、とりわけ声調や韻といった音に関するルールが多いように思われる。それは、(一)に述べている社会的要因に大きく関係していると思われる。

 というのは、全国の統一がなり、交通の便が良くなって、広範囲での多方面にわたる交流がなされて、一つのより大きなまとまりとなっていく 中で、ある種の規律に基づいた統一感が芽生えたのではないかということと、科挙において詩作が科目となったことで、受験者の答案作成、並びに試験官の採点 における一つの基準として設ける必要があった、ということが考えられるからである。

科挙に詩作の科目が加えられたのは、「高宗の永隆二年(六八一)、考功員外郎(唐初の科挙を担当していた役職)として科挙を主宰した劉思 立という人の提言によるとされている(異説もあるが初唐の間には間違いない)」(3)。近体詩の成立の正確な時は分からないが、これも初唐であることか ら、時期的にはずれていないといえるが、断言はできない。

(三)「行巻」という風習

 「行巻」というのは、科挙(進士科)の受験者が自分の文学作品に手を加えて、清書して一巻にしたうえ、試験の前にそれを当時の政治・社 会・文壇において高い地位を占めた人たちに送ったもので、彼らから主司、すなわち試験を主催する礼部待郎に推薦してもらうことによって、合格の可能性を一 層高めるための一つの方法であり、作品によって自分を売り込む手段であった。もともと、唐代の科挙の答案は、受験者の名前の部分をのりで封じなかった(の りで封じるという方法は、主に宋代の科挙においてみられるもので、試験に公正さを持たせる為に考えられたものである。)。名前を隠さなかったので、どの年 のどの科に誰が受験したのか、また、どの答案が誰のものなのかも、すべてが明らかであった。このために、このために、主試官(試験を主催する官、すなわち 礼部待朗。先の主司は、礼部待朗の総称である。)が答案を直に採点するほかに、受験者の平生の作品や評判を参考にしたり、それが甚だしい場合はそれのみに よって合否を決定する可能性もあった。

 唐代当初の科挙(進士科において)には、雑文(箴・銘・論・表・詩・賦)といった各種のスタイルから出題される試験があり、範囲が広 かったために、それに応じて行巻のスタイルもさまざまな文体(古詩・律詩・辞賦・駢文(漢魏の時代に起こり、六朝時代に盛んになった文体で、対句を用い、 音律に工夫を重ねた。)・散文・小説)で行われるようにいたった。

 趙彦衛『雲麓漫鈔』巻の八(4)には次のようにある。

唐代の受験者は、まず当時の権威者の力を借りて、自分の作品を主司に見せて知ってもらい、そののち自分の作品を献呈し た。数日後に重ねて作品を送る。これを温巻という。『幽怪録』や『伝奇』などはみなこうした作品である。思うに、これらの作品はさまざまなスタイルをそな えており、史才、詩文の才、議論の才をみることができる。進士の場合、多くは詩を贄とした。今日、世に広まっている唐詩数百首は、それである。
 以上の文を引用する上で、「権威者の力を借りて」というところについては行巻であるが、「主司に知ってもらい、そののちに作品を献呈した」というのは省 巻というものである。地方での試験(州試)を突破し、中央での試験(礼部試)を行う前に有力者へと送る他に、主試官へと納めていたものが省巻(行巻が私人 に送るのに対して、役所へと納めるものだから「公巻」とも呼ばれた。)であり、混同されやすいということと、「進士の場合」というと、他の科においても行 われていたかのような誤解を招いてしまうということである。

 唐代の科挙は、制科と常科とに分かれており、常科の中で主要なものは進士・明経という二科であった。制科は、特に優れた人材を求めるものとされ ており、天子の意向により不定期に実施されていたため、一般の人々の目は常科に注がれていた。常科のうち、進士・明経は並称されていたが、その格付けと及 第(合格すること)の難易度は大きく違っていた。それは「三十なれば老いたる明経、五十なれば少き進士」という言葉があった程である。明経科を受験する者 が行巻を行わない理由は、そこに起因している。明経科の試験内容は、はっきりいうと経書の暗記のみであり、進士科のように、行巻といった事前活動を利用し てまで及第が困難でないうえ、文才を求められる必要がなかったのである。明経以下の諸科(俊士・明法・明算・明字等)については、試験内容がそれぞれ違う ものの、だいたい明経科と同様に一分野による試験だった。

 しかし、上の引用文は、進士科において詩作が導入されたために、行巻にも詩が多くなったのではないかということと、詩以外にも伝奇小説 が送られていたということを伝えている意味では重要な資料である。また、趙彦衛は宋代の人物であるが、「今日、世に広まっている唐詩数百首は、それであ る」ということならば、科挙において及第するしないによらず、そこで集められた作品が残されていたことになる。つまり、行巻にしろ省巻にしろ、唐代の科挙 によって生まれたこの風習は文学作品の収集に一役かっていたといえる。唐の文学と科挙の繋がりは、やはり、切っても切れない関係にあるのではないだろう か。
 

第二章  唐代の科挙
 

 第二章では、科挙という官吏登用制度がいかにしてできたのか、また、唐代科挙の進士の試験が実際どのようになされていたのかを検証していこうと思う。

(一)科挙について

 科挙の始まりは、唐の前の時代、隋の文帝(五四一~六〇四)が、実力試験によって有能な人材を官僚となすべく始めたものである。その以前 には、漢代における「察挙」や、魏晋南北朝時代の「九品官人法」といった官吏登用の制度があった。しかし、これ等はいずれも、中央より派遣された役人が地 方に赴き、そこで有能とされる人材を見つけて中央に推挙する形をとっていたが、結局は、赴く先の地方において、世論を掌握しているような有力豪族や貴族た ちの意見に屈することが多く、その子弟や親戚ばかりが推挙の機会を得て官職についていた。やがて、そのようなことが続くにつれ、有力豪族・貴族出身者で官 界が占められ、それと同時に、その出身先すらも力を拡大させる結果を生んだ。このことが、官僚の世襲・固定化をつくり、能力に関係ない登用ばかりが横行 し、国家にとって不都合な問題になってしまったのだ。そこで、これを解決するために科挙が始まった。しかし、これまでに作り上げられてしまった体制を全面 的に改正するにはいたらなかった。

 唐の時代になると、科挙を継続的に実施して士人を登用するようになったため、制度としては以前よりも整えられていった。しかし、依然と して「貴族」の家が大きな勢力を誇っていた。というのは、当時、官職(五品以上)を有している父祖のお陰をこうむり、その子孫や親族が自動的に官を授けら れる「任子」という制度が実施されており、これをうまく利用すれば家の勢力を保つことができたし、また、科挙も自分たちの地位の維持のために利用し、それ に努めるようにした。官僚の世襲・家柄の固定化のサイクルを促すものとして存在する色を強めていったのである。しかし、科挙本来のもつ、実力による官吏の 登用という色が次第に強まり、科挙出身者の官僚を占める割合も高くなってくる。

 かの白居易(七七二~八四六)中央での試験を前に出した、その当時、主として皇室の墓の正しい配置に関する最高権威者として知られていた年長の政治家、陳京という人物に宛てた手紙(西暦八〇〇年、貞元十六年の元旦のもの)に、次のようにある(5)。

 この元旦に、試験を受けるべく故郷より送られてきた受験者白居易は、最高諫官(給事中)閣下のもとに、一通の手紙を持 たせて、使いの少年を謹んでお送り致します。閣下の玄関が、自薦訪問客のみならず、無数の手紙持参者で混み合っていることを、私はよく知っています。しか し、このようにあなたのもとに押しかけて行く人々の数は多いのですが、その目的はみな同じであると私は考えています。彼らの唯一の目的は、閣下の推薦と保 護を得ることです。私の目的はかなり異なっています。私が自分で閣下に会いに行こうとせず、代わりに使いの者をやり、この手紙をお送りする理由は、ただ、 私が疑問とする点について、私のために決定して下さるよう、根拠を提供したいと望むからです‥‥‥

 文学試験を選ぼうと決めたほどの受験者の野心は、彼の価値がどのようなものであれ、当然、首尾よく合格し、自分のために名を上げることです。こ の点については、私もまた例外だとはいえません。まさにその理由で、十年間、最も骨の折れる文学の研究に、果てしなく身を捧げて来たのです。そしていま遂 に故郷の町から試験のために送られて来たのです。

 同じたちばの者の中には、最初の試みで位階を獲得したものもいくらかはいます。そういう例は私の野心をかきたて、私を鼓舞して突進させ ます。しかし、十回目の試みでさえ失敗する人々があるのも知っています。このことは私に、あんなに辛抱できるだろうか、断念した方がよくはないかと考えさ せます。‥‥‥閣下。天下の至るところで、文学はあなたに多くのものを負うています。しかもこの時代には、あなたほどの立派な批評家はいません。この故 に、私は卑しい地位と生れをも顧みず、胸のうちを敢えて開く次第です。私は名門の生れではありません。宮廷にも助けてくれる有力な縁故などももっておりま せん。故郷にも推薦してくれるような勢力のある知人もありません。何故に私が首都にやって来たかといえば、作家としての力が、私に役立ってくれるだろうと いう期待からなのです。だからこそ、試験官の公正なる取扱いにたよっているわけです。幸いにも礼部の高郢が試験官になることになっており、しかも彼ほど公 正な人はありません。しかしながら、ある種の文学に対する私の才能は、この試験を受けるのを正当化するほどのものでしょうか。私には、皆目、見当がつきま せん。これこそ閣下に決定していただきたい問題なのです。閣下は拒絶なさることができましょうか。

 ここに雑多な散文二十篇と、百種の詩をそえてお送りします。願いの真摯さをお認め下さいますようお願い致します。事柄はとるに足らず、 私自身もつまらぬものです。しかしこの理由で懇願を無視されるとなく、また公務の暇に、これらの作品に批評の一瞥を投げて下さいますよう。もし作品が私の 前進を正当化するようならば、その意味の言葉を一言お与え下さい。そのような場合には、あらゆる努力を払って鈍い頭をみがき、駄馬に鞭うって徐々に進んで ゆきましょう。一方あなたが受験せぬようにとお伝え下さるなら、私は計画を放棄し、歩みを返し、卑賤の生涯で満足したいと存じています。

 この幾日もの間、二つの葛藤が胸の中で続けられています。それを解決するただの一言を乞う次第です。十日以内に返事が得られたならと考 えます。もしあなたが見栄えのせぬ作品に一瞥を投げられたと聞けば私は、「息もとまり、魂もぬかれた」もののようになるでしょう。ともあれ、この手紙は簡 潔に致しましょう。居易、謹んで再拝。

 さて、上の文で注目すべきところは、これが話の内容上、白居易による行巻であることもそうなのだが、文中に出てくる高郢(七四〇~八一一)という人物の ことである。彼は、「高位の人々を訪問すること」や、その他受験者によってなされていた、種々の形の自己宣伝(行巻を含む)を止めさせようとした人物で あったのだ。この手紙自体は、白居易の行巻といえるものであるから、その点では高郢の意に反した行為をしていることになるが、本当の実力をみて官吏として の資質を判断しようとする動きがあったことを示している。実際に、なんのコネも持ち得ない白居易は、高郢が試験官を担当したその年の科挙の進士科に及第し ている。

ところで、先の行巻といえる手紙の結果であるが、アーサー・ウェーリー氏は、白居易の「長安早春旅懐」(6)という詩の中の「三十に近くして機を逃してしまった」という悲嘆にくれた内容から、悪い結果であったろうことを述べている。

 科挙が本来の狙い通り、制度としても完成されたのは、次の宋代になってからであり、一般からの応募も殺到し、誰もが科挙及第とエリート官僚への道を目指す全盛期を迎えることになるのである。

(二)唐代の科挙の試験内容  進士科に問われた問題

 唐代の科挙と文学のつながりを考える上で、第一章(一)で述べたような詩作の試験というものが、実際の試験では一体どのように行われてい たのかを述べる必要がある。第二章では、唐代科挙の進士科において実施されていた、韻文(詩作)の試験をメインに、また、三つの形式中の他の二つの試験に ついても述べてみようと思う。

①経書の試験
 経書題というのは、経書(「四書・五経」といった儒教の経典など)の知識を問うものである。これは、科挙が始まって以来よりの問題であり、進士 に限らず、その他全ての科においても問われている定番のものである。明経科を例にあげると、この科は経書専門であるために、進士よりも出題される量・範囲 が多くなっている。『礼記』・『春秋左氏伝』を大経、『毛詩(詩経)』・『周礼』・『儀礼』が中経、『周易(易経)』・『尚書(書経)』・『春秋公羊 伝』・『春秋穀梁伝』を小経(大中小はそれぞれ出題分量を表す)として、ここから、大大・大中といった具合に選択するようだ。これに対して、進士科の方 は、『春秋左氏伝』か『礼記』のどちらか一つだけでよかった。問われ方はというと、「帖経(じょうきょう)」という伏せ字を当てさせるというものである (7)。

 中唐・杜佑(七三五~八一二)の『通典』には次のようにある(8)。

貼経とは習う所の経を以ってその両端を掩(おお)い、中間ただ一行のみを開き、紙を裁して貼と為す。およそ三字を貼し、随時増減す。可否は一ならず。或いは四を得、五を得、六を得し者を通と為す。
  つまり、試験として用いる経典の一部その両端は覆い隠しておいて、問題とする部分一行だけを開いておく。紙を切っておきこれを貼り付けて字を隠す。だいた い三字を貼って隠し、随時その字数は増減する。合否の基準は一定ではなく、およそ四割~六割を正解する者が合格となるということであった。しかし、こう いった単純な方法によって行われていたため、科挙の志望者が増えた後には、選抜試験としての意味が無くなってしまったようである。

 さきの説明の後に『通典』にはこうある(9)。

のち受験者がむやみに増えたので、だんだんむずかしくなり、つとめておとそうとするようになった。わざわざ孤立した章句 や、たがいにまぎらわしいところを伏せてまどわせたり、あるいは上の注の部分につづき、下は一、二字しか残っていないようなところを選んでわかりにくく し、これを「倒抜」といった。このようにむずかしくなると、受験者の方も、孤立したところ、わかりにくいところを抽(ぬ)き出し、韻文にしたてて暗記し、 十数篇ばかりを覚えるとむずかしいところに通じてしまう。ところが平易なところの内容などについては、たいてい壁に面して立つように何にもわかってないの である。
 上にみえるように、出題する側も工夫を練ってくるようになってから、「貼括(じょうかつ)」という難しい部分ばかりをまとめてあり、要領よく覚えられる 対策本が巷では流行ったようである。出題する側とそれに対する側との関係は現代でも変わらないようである。しかし、経書の暗記といっても我々が太刀打ちで きるような量でないことを忘れてはいけない。

②韻文の試験  詩と賦
 韻文の試験は、「詩」と「賦」という二つの形式からの出題がなされ、とりわけ進士科の中でも重要視された試験である。これは、第一章に述べたよ うな唐という時代の詩の発展に大きく関わりがあるものである。次の宋の時代にも、詩作の試験はあり続けるが唐という時代の在り方がなければ、存在していた かどうかは疑われるだろう。

 まず、「詩」についてであるが、科挙の答案としての詩のことを、「試帖詩」または「試帖」という。試帖詩には、律詩という最も精密な定 型の韻文形式が用いられている。唐代では、五言六韻十二句の律詩(排律)によるのが普通であった。一句が五言で、五音節一区切りという音数律(リズム)が あり、二句一聯(二句で一組)となり、その末尾(偶数句目の末字)で脚韻を踏む。脚韻を踏むにあったっては、与えられる題材中の一字を平声とする字を用い る形が主であり、時には、題に関係なく、韻字を指定してくる場合もあったようである。

 また、中国語特有の声調である四声を基礎とする厳密な韻律がある。これは、第一章(二)の近体詩の成立で述べてある「平」・「仄」であ る。大体、二音節毎に平・仄を交代するように一句を構成するとともに、二句一組のセットになる次の句とは、平・仄が逆になるように組み合わされるように なっている。
 詩と賦については、白居易の『白氏文集』に問題も付して残されているので、それを紹介する。ちなみに『白氏文集』には、地方選抜試験の州試の ものと、中央での礼部試験のものが、どちらも収録されているが、試験的な内容は変わらないものなので、それぞれを紹介しようと思う。

窗下列遠岫詩(州試)  題中以平聲為韻。詩、その(一)(10)

①天静秋山好、    ⑦列簷攢秀氣
②窗開曉翠通。    ⑧縁隙助清風
③遥憐峯窈窕、    ⑨碧愛新晴後
④不隔竹朦朧。    ⑩明宜反照中
⑤萬點富虚室、    ⑪宣城郡齋在
⑥千重疊遠空。    ⑫望與古時同

玉水記方流詩(省試)  以「流」字為韻、六十字成。その(二)(11)

①良璞含章久、    ⑦似風揺淺瀬、
②寒泉徹底幽。    ⑧疑月落清流。
③尹孚光灔灔、    ⑨潛潁應傍達、
④方折浪悠悠。    ⑩藏真豈上浮。
⑤凌亂波紋異、    ⑪玉人如不記、
⑥縈迴水性柔。    ⑫淪棄 千秋。

 その(一)は、先述したような、題中の字の平声を使って韻字とするこ とが指定されている。『白楽天』の著者、アーサー・ウェーリー氏は、「窓から望まれる遠くの峯々」というこのテーマが、その昔、白居易が地方選抜試験を受 けた宣州で太守をしていた、謝朓(四六四~四九九)という人物の詩から引かれたものであることを述べている。彼は、当時役所の窓からから見ていた風景と、 町の東方にある山の眺めについての詩を多く書いていたようで、その知識をも問うていたようである。白居易は最後の二句で「宣州の刺史の部屋では、昔と同じ 景色が今も望める」と、見事にこれを詠いこんでいる。

 その(二)は、韻字として「流」という字を用いることと、六十字で作れという指定がある。これも、(一)同様にアーサー・ウェーリー氏の『白楽 天』によれば、題として指定された「玉水記方流」というのを、文字通りに示していくと「緑・水・記・方・流」と表わすことができ、やはり、古人(顔延之 (三八四~四五六))の詩の第一行目にあるようである。

 つまり、ここから分かることは、どちらも単に詩作における技術だけをみているわけではなく、どれ程まで受験者が古い文学に精通している のか、ということも求められたということである。技術面をもう少し詳しくみてみるために、第一章(二)で述べてある「平」・「仄」に分けてみようと思う。

 その(一)、(二)を「平」を白、「仄」を黒、韻を◎で表していくと、それぞれ、次のようになる。

その(一)
①白黒白白黒     ⑦黒白白黒黒
②白白黒黒◎     ⑧白黒黒白◎
③白白白黒黒     ⑨黒黒白白黒
④黒黒黒白◎     ⑩白白黒黒◎
⑤黒黒黒白黒     ⑪白白黒白黒
⑥白白黒黒◎     ⑫黒黒黒白◎

その(二)
①白黒白白黒     ⑦黒白白黒黒
②白白黒黒◎     ⑧白黒黒白◎
③黒白白黒黒     ⑨白黒黒白黒
④白黒黒白◎     ⑩白白黒黒◎
⑤白黒白白黒     ⑪黒白白黒黒
⑥白白白黒◎     ⑫白黒黒白◎

 ◎で表している韻は、全て平声であり、律詩の規則として、韻を踏む場合は、平声を用いることになっている。さらにいうと、平声には「上平声」と「下平声」とがあり、韻を踏む場合は主に上平声である。
 第一章(二)で述べたとおり、唐の時代になって、詩の中で使われる声調が、平声(上・下)・上声・去声・入声とに分けられた。分けられ方には、 元代のはじめに一〇六種に整理された「平水韻」と、唐代詩人の押韻にみられる、さらに細かく二〇六種に分類され、後の宋代で編纂された『広韻』という韻書 にあるものとがある。その中では、一つの字が見出しとなり、同種の母音をもつ文字群がそれに属しているというように整理している。

 詩のその(一)の、「題中の平声を以って韻と為す」という指定に対して、白居易は「窗」という字と同種の平声を用いている。題中における 「窗」、韻として使われた「通・朧・空・風・中・同」は、全て上平声の「東」に属する韻字となっている。また、詩中のそれぞれの句の二・四番目に注目する と、平仄がどれも違っている。これは、「二・四不同」という原則である。そして、この「二・四不同」をよくみると、①と②では逆に、②と③では同じに、そ れ以降、「逆と同」が繰り返される。これを、それぞれ「反法」と「粘法」という。その(二)でも、白居易はこれと同じことを成している。これは、白居易の 詩人としての能力・知識の高さが分かると同時に、これだけのことが、進士科の合格のために求められたことを示しているといえる。
 
 次に「賦」についてである。

宣州試射中正鵠賦  以「諸侯立誡衆士知訓」為韻、任不依次用韻、限三百五十字已上成。(12)

 聖人弦朮為弧、剡木為矢;唯弧矢之用也、中正鵠而已矣。是謂武之經、禮之紀。故王者務以選諸侯、諸侯用而貢多士。將俾乎 無秕稗、位有降殺;廣場 闢而堵牆開、射夫同而鐘鼓戒有以致國用、終 貢;使技癢者出於羣、藝成者推於衆。在乎矢不虚發、弓不再控。射、鐸志也、信念茲而在茲。鵠、小鳥焉、取難中 而能中。乃設五正、張三侯、叶吉日於清晝、順殺氣於素秋。禮事展、樂容修。既五善而斯備、將百中而是求。於是誠心内蘊、莊容外奮。升降揖讓、合君子之令 儀;進退周旋、伸先王之彜訓。故禮舉而義立、且無聲而有聞。及夫觀者坌入、射者挺立。矢既挟、弓既執;抗大侯、次決拾。指正則掌内必取、料鵠乃彀中所及。 雕弧乍滿、當晝而明月彎彎;銀鏑急飛、不夜而流星熠熠。其一發也、騞若徹札;其再中也、

 如貫笠。玉霜降而弓力調、金風勁而弦聲急。愜羣心而踴躍、駭衆目而翕習。若然者、安知不能空彎而雁驚、虚引而猿泣者也?矧乃正其色、温 如栗如;游於藝、匪疾匪徐。妙能曲盡、勇可賈餘。豈不以志正形 、心莊體舒。不出正兮、信得禮之大者;無失鵠也、豈反身而求諸?斯蓋弓矢合規、容止有儀; 必氣盈而神王、寧心讋而力疲。則知善射者、在乎合禮合樂、不必乎飲羽;在乎和容和志、不必乎主皮。如是、則射之禮、射之義、雖百世而可知。

 これは、白居易の受けた地方試験における賦である。テーマが「的の中心を射る」で、「諸侯立誡衆士知訓」それぞれを韻語として用いながら(順序は自 由)、三百五十字以上で述べよ、という指定がある。試験の様式としては論述試験であるが、指定された韻字を用いて文章を作らせるという、これも中国という 国ならではのユニークなものとなっている。

 アーサー・ウェーリー氏は、『論語』にみえる「射は君子に似たるあり、諸れを正に失し、反って諸れを其の身に求む。」からの出題であろうことを 述べている。恐らく、白居易が答案としての文中で、君子に対する在り方を述べていることと、韻字として指定されている「諸侯立誡衆士知訓」という文からの 考察であろう。

③散文の試験  時事策等
 この試験科目は、その昔、前漢の武帝が即位の当初に賢良文学の士を天下に求め、推薦されてきた人々に時の政治に関する質問を発して、意見書を提 出させたことがあり、その後の政治に大きな影響を与えた。このような漢代の事例が、後世の試験制度に対する策題のモデルとなった。

 これについても、白居易の『白氏文集』の中に、中央での試験における策問五道が収録されている。その中には、『論語』や『易経』といっ た古典間の考えの矛盾を問わせたり、また、七三六年に導入した均衡購入政策という制度(豊作時に、穀物の物価の下落が起こるようであれば、政府が高く買い 取ってやり、凶作時には、そこで買ってあったものを安く売ってやるというもの)の是非を問わせたりしている。

 ①、②に述べたような、まるっきり文学能力を問われる問題とは別に、時事策に限らず、古典からの抜粋を利用し、政治への関心の有無と問 題に対する見解をこの試験では求めていたようである。恐らく、それは科挙(進士科)を受験するような人物が何を目的とするかは別としても、受験を希望して くる時点で、ある程度の知識人であることが黙認されており、その知識人達からの意見を参考までに集める意味もあったのではと思う。それは、古の天子が民衆 達の歌った歌を採集し、そこから政治の方針を考えたということがあったし、中国は古の教えや思想をとても重んじていて、科挙の試験科目をみてもそれは明白 であろう。
 

おわりに

 第一章では、唐代に詩が盛んになった理由と科挙との関係を、第二章では、実際に行われていた試験の内容についてを述べてきた。唐という巨 大な統一国家の誕生が、遠方との間に文化交流を促し、思想・観念の広がりをみせた。その後、さらに科挙において詩作が試験科目として導入されるにいたっ て、科挙の受験志望者の詩作が多く行われるようになっていく。また、その中で生まれた特殊な風習(行巻や省巻)によって、一層、文学面での交流は盛んにな り、技術等も洗練されていった。よって、文学が科挙に影響を与え、同時に、科挙が文学へ影響を与えたのではないのかということを述べたつもりである。しか し、それを証明するには、圧倒的に用いなければならない資料が足らず、その上、論というには到底及ばないような幼稚な構成となってしまった。

 科挙という一つの官吏登用制度を巡っては、現在、幾つもの資料や論文、科挙を題材とした作品などが存在している。それらをできる限りあ たり、比較・検討することができたのなら、より良い考察ができたろう。科挙に関する数々の実際にあったドラマや逸話は、科挙に対する人々の考えを如実に表 現するものであり、科挙の現実をより理解しやすくできると思う。そうはいっても、科挙に関してはまだその多くを知られていないように思う。歴史的な制度の 一つとしては述べられている事も多いが、何かと関連づけて述べているものは少ないと感じた。私が書いたこの文が、直接役に立つとは思えないが、その一文で も興味の湧く箇所、もしくは疑問な点がでるようなら、是非、より深い調査・研究をしてくれればと思う。
 

注釈及び参考文献

[注釈]

(1)詹鍈著『唐詩入門』第一章「唐詩はなぜ盛んになったのか」の一、社会的要因(p.8-11) からの引用文である。文中の杜甫の詩は、引用文中にも含まれているものであるが、当時の様子を表現する重要な資料なので、そのまま引用した。

(2)(1)同様、詹鍈著『唐詩入門』第一章の一(二)近体詩の成立(p.15-17)よりの引用。

(3)「 」中の文は、村上哲見著『科挙の話』第三章の三、韻文の試験(p.162)より引用。この文に関しては、程千帆著『唐代の科挙と文学』の第二章(p.20)にも同じ記載がみられる。

(4)これは、程千帆著『唐代の科挙と文学』の文中(p.15)に引用文として出ているものである。原本、またはそれに類するものを直にみ ることができなかったが、資料としてはずせない文であるために、そのまま引用してしまった。仕方ないので、程千帆氏による脚注を補っておく。
『雲麓漫章鈔』‥‥南宋の趙彦衛の撰。十五巻。内容は、大体が名物典古の考証と宋代における雑事の記載等となっている。もとは『擁鑪閑紀』といい、十巻だったものに五巻を足し、改名したものがこれである。

(5)アーサー・ウェーリー著『白楽天』(p.22-23)よりの引用である。書中に使われてはいるものの、これに関する注釈等がなく、(4)同様、そのまま引用するにいたった。

(6)(5)に続いて出てくる詩であるが、これについては、『白氏文集』に基づいて、そこに収められた詩等を全て収録している『白居易集』第一冊(p.267)において確認してある。

(7)村上哲見著『科挙の話』第三章の二、経書の試験の部分(p.158-159)を参考に述べている。

(8)参考文献は(7)に同じ。第三章の二、経書の試験(p.156-157)より引用。これは、『通典』の巻第十五、選挙の三において書 かれているもので、宮内庁書陵部蔵の『北宋版・通典』第一巻(p.396)において確認をした。ちなみに、原本の『通典』は南宋のものであり、私が確認の 為に用いた北宋版は、その復刻版にあたるもので、復刻版の原本が撮影されているものである。

(9)(8)を参照。

(10)(6)を参照。第三冊,詩賦の部(p.867)

(11)(10)に同じ。(p.868)

(12)(10)、(11)に同じ。(p.865-866)

[参考文献]

『唐代の科挙と文学』 程千帆著、松岡栄志・町田隆吉訳 凱風社 1956年

『科挙の話』 村上哲見著 講談社学術文庫 2000年

『科挙と官僚制 世界史リブレット⑨』 平田茂樹 山川出版 1997年

『白居易集』 顧學頡校點 中華書局 1979年

『白楽天』 アーサー・ウェーリー著、花房英樹訳 みすず書房 1959年

『唐詩鑑賞辞典』 前野直彬編 東京堂出版 1970年

『中国古典詩学』 佐藤保著 放送大学教育振興会 1997年

『唐詩入門』 詹鍈著、黒田真美子訳 日中出版 1987年

『北宋版・通典』 長澤規矩・尾崎康編 汲古書院 1980-1981年