中国志怪小説の研究

―狐のイメージの変遷―

人文学部 人文学科 中国文化専攻

00L1066A   高星さおり

 

目次

 

はじめに・・・・・・一頁

 

第一章           志怪小説について・・・・・・一頁

第一節            志怪小説について・・・・・・二頁

第二節            伝奇小説について・・・・・・三頁

第三節   唐以後の伝奇小説について‥‥‥四頁

 

第二章           狐について・・・・・・六頁

  第一節  狐の生態について・・・・・・六頁

  第二節  狐の話の分類・・・・・・九頁

  第三節  日中の比較・・・・・・一五頁

 

第三章  狐のイメージ・・・・・・一七頁

  第一節  利用される狐のイメージ・・・・・・一七頁

  第二章  妓女と狐のイメージ・・・・・・二一頁

  

まとめ  ・・・・・・二三頁

 

引用文献  ・・・・・・二四頁

 

 

 

 

はじめに

 

 中国には妖怪や幽霊、不思議な術を使う仙人など、怪奇でいて人の興味をそそる出来事を題材にした古い文献が存在している。志怪、または伝奇小説と呼ばれるそれらの話は日本にも伝わり、日本人の怪異に対する概念に多大な影響を与えた。その中でも孤は人に悪さをし、一方で義理堅い様を見せ、現在でも様々な文学のモチーフに登場し、人を惹きつけている。そこで志怪、伝奇小説から狐について調べてみたいと思った。

しかしそれらの原文は現存していないものも少なくなく、他の文献に引用という形でしか残っていないものも多い。そのことについて前野直彬氏はその著作の中で「ことに六朝と唐の小説は、その原形が満足に残されているものは一つもないといってよいくらいである。それを保存してくれたものとして、この翻訳が主として使用した「太平広記」の功績は大きい」[]というように志怪、伝奇小説にとって『太平広記』が大きな意義を持っていたことを述べている。そこで狐について語る上で年代ごとの作品の量を比較するのに『太平広記』を使用する。

類書という、いわば百科全書である『太平広記』は宋代に編集された五百巻のから成る書物である。宋以前の様々な文献を収録し、主題が九十二部に大分類されており、神仙や鬼、石や畜獣など人間界の異から自然界の異まで幅広く収められている。その中で単独の動物名で章があるのは狐・虎・蛇だけであり、特に狐は虎・蛇の八巻を抑え最多の九巻を占めていて、当時から狐の話が人の関心を引いていたことが分かる。     

これらの動物に共通するのは人々に化け物として恐れられている一方で神として崇められるという二面性があることである。蛇が水神と結びつき、虎は四神の一つとして崇められている事は知っていたが、どうして狐が日中を問わず人々に受け入れられたのかが気になった。そこで狐のイメージについて重点を絞って調べてみたい。

本稿は第一章で怪異について書かれた志怪小説、伝奇小説について詳しく説明し、第二章で狐そのものについて文献から読み解く。第三章では狐のイメージ形成と利用される狐のイメージについて考察する。  

 

 

第一章   志怪小説について

 

中国において怪奇な出来事を扱ったジャンルの呼び名として、六朝時代に流行った志怪小説と、後の唐の時代に隆盛を極めた伝奇小説がある。これらの境界線は明確ではないが第一章ではその二つの特徴について詳しく述べたいと思う。

 

第一節           志怪小説について

 

志怪小説について述べる前に、小説という言葉についての説明が必要だと思われる。昔の時代での小説とは今使われている意味とは違い、取るに足らない短い話という意味で使われていた。現存する最古の図書目録『漢書』芸文志のうち「諸子略」は戦国書肆の著述を儒家・道家・法家など十家に分類し、その最後に小説家を置いている。これが小説を言語作品の一ジャンルとして用いた最初の例と言われる。

当時の小説と呼ばれていた文献は現存していないが、戸倉秀美氏はその著作の中で「内容は浅薄で、真偽のほども疑わしいものを一括して収容するのが「小説家」だったのである」[]としている。また『漢書』をまとめた後漢の班固は小説家に対し『これは町で噂話をするような連中が作ったもので『小道』であるから君子は手を出さない。しかし知恵の無い者の見聞にも必ず見るべき点がある。書き留めておけば為政者の参考となるものである』と解説していて、かつては小説の価値が低く、卑しいものが扱うものという認識があった。

一方、怪異を語る事も建前では身分の高い者がすることではないとされていた。しかし孔子が『君子は怪力乱神を語らず』と戒めるほど、当時の人々にとって怪異は興味の対象であったのが本当のところである。儒教は生を語って、死を語ることが少ないと言われる。しかし時代が下り後漢末ではそれまでの現実主義的、合理的な傾向にあった儒教の宗教色が強くなり、孔子自らが神として崇められるようになってしまうと、「怪力乱神を語らず」という言葉は力を失ってしまった。そのため怪異談が流行るのも自然な流れであった。それどころか魏の曹操の息子である曹丕が志怪小説『列異伝』を編纂させているところからも、怪異を語ることが決して卑しいとはされなくなっていったことが分かる。

志怪とは怪を志すという言葉通り怪異の記録性に重点を置いたものである。代表的な志怪の書である『捜神記』の選者の干宝は、その序文で「神道(超自然的な神の意志)の虚妄でないことを明らかにしようとしたのだ」と、その目的を述べている。この当時の人々にとって神仙や妖怪などは全て現実のものだと信じられていたのである。

唐代初めに編纂された図書目録『隋書』経籍志は諸子の書を分類整理した「子部」に「小説家」を置いているが、志怪はその中にはなく「史部雑伝類」という項目に分類され,ており、志怪の選者に歴史家が多いという事実もこの事を裏付けている。

文体について述べれば、聞いた話をそのまま書き記すというスタイル故に、志怪小説は題材の面白さや珍しさはあってもそれ以上の技巧的なものが少ないあっさりとした話に仕上がっている。

六朝の志怪は、草木鳥獣の変化や神仙鬼物の霊異を語り、方士道人の神妙を伝えた。ここで注目したいのは怪を為すのは、狐だけが特に多いわけではないことである。はじめにで述べたように、『太平広記』の鳥獣や虫などについての話の中で狐が最多の項を占めているが、時代ごとの内訳にすると六朝十二話・唐六十九話・宋二話となり、唐での比率が大きいことが分かる。六朝では狐と共に化ける動物とされている狸や狢はもちろん、虫や石、家庭で使われている日用品までもが怪を為していてバリエーションに富んでいる。つまりは人に近しい所に存在するのなら何でも怪を為してもおかしくは無かったのである。

 中には狐による報恩譚などもあったが、当時の狐は悪事を行う、退治すべきものと位置付けられていた。

 

第二節           伝奇小説について

 

伝奇小説における狐の話で、珠玉の作との声が上がるのが『任氏伝』である。『任氏伝』とは史家である沈既済が狐の異類婚姻譚を文芸化したもので、それまでの志怪の話にはない要素が盛り込まれている。任氏はそれまでの怪異を為す妖怪とは違い、夫に尽くす良き妻として描かれ、その姿は感動的である。そしてその表現力に富んだ語り口は文学的にも評判が高く、様々な意味で志怪と伝奇の変化を感じさせる。

伝奇小説はその奇を伝えるという文字通り、怪異を記すというテーマは志怪小説を受け継いでいるが、その読み物としての完成度は志怪より群を抜いている。それもそのはずで、伝奇小説の特徴は聞いた事を記録した形の志怪小説にはなかった物語性や、登場人物の心理、情景描写などが細やかに描かれるようになっている部分であり、豊かな娯楽性と華やかな文体は後の文学に多大な影響を及ぼした。

その文学としての質が格段に向上した理由としては、人々の志向の変化が考えられる。人々の心は志怪のような「史」として素材の珍しさだけの表現では満足できなくなり、より自分の欲を満たそうと読者を話に引き込むような工夫がなされ、文学的に完成されていった。それも当時の受験である科挙が行われ始めた事で人々の知的レベルが向上したという下地があればこそである。

それまでは歴史に分類されていた志怪小説から生まれ、文学として認められた伝奇小説が流行った理由はいくつかあり、そのなかから有力なものを二つ挙げる。一つは韓愈や柳宗元が六朝の文体に反抗して「古文」を主張してから、散文文学の範囲も拡大されて小説を生むようになったのであるというものと、科挙生が自分を売り込む為に試験官に自分の作品を送るということが行われたというものである。その題材に伝奇小説が多用され、人々はいかに物語に自分の文才を発揮できるかを競い合った。また伝奇が科挙の間の監禁状態での楽しみとして語り合われたり、科挙に受からない苦悩の中で書き上げられたり、官僚が転勤や旅行、流刑などの道中で語り合ったりしたものをまとめた形で編纂されたものが多いように、科挙によってレベルの上がった文化人の文才の発揮場所として親しまれた。

またその作品テーマにも志怪小説とは違うものが生まれた。恋愛物が増え、異類婚姻譚も狐によるものが増えている。また何の怪異も起こらない、書生と妓女との波乱に満ちた恋愛話なども多く生まれ、これも作者が科挙に関係深いことを思わせる。

 

第三節 唐以後の伝奇小説について

 

主に本論文では六朝志怪・唐代伝奇を中心に扱うが、イメージの変遷を追うために六朝以前、唐代以後にも触れる。そこで宋代の文学の傾向についても少々述べておく。

唐代で花開いた伝奇小説だが、宋の時代になるとそのストーリー性や表現性に富んだ文体は見られなくなり、志怪小説を意識した作風が再び見られるようになってくる。例えば話の出所をいちいち確実にし、聞いた話をそのまま記したという記録的な部分である。

これは宋の知識人の社会が、一般に唐代のそれにくらべて、謹直であったといわれるように人や社会そのものが変化したためである。

前野氏はそのことについてこう述べている。

たぶんそれは、唐末五代の戦乱を経て門閥貴族が没落し、唐では新興官僚群に属していた人々が、宋にはいっては完全に政治の実権を握るようになったことと関連を持つのであろう(中略)そして文学は、もはや有閑階級による言葉の遊戯ではなくなった。それは人生とか社会とかに、なにかの意味で痛切な関係を持つものでなければならなくなったのである []

このように宋の伝奇小説は唐の、作者によって創造されたものを好まず、根拠のある真実を求め、教訓めいたものが好まれるようになっていった。そのため、宋以後の伝奇小説は文学的には衰退したとされ、傑作と呼ばれるものが登場するには明の『剪燈新話』や清の『聊斎志異』を待たなければならない。

志怪小説が伝奇小説へと大きな変化を遂げた中には六朝から唐への社会の変化が反映している。それまでは小説を書く事は下賎な事とされ、記録として簡潔な内容で残されていた文は、文化人のサロンから生まれた華やかな文化によって表現法や内容に凝った文体になっていった。同じく伝奇小説と呼ぶものの中でも、貴族中心の唐と科挙の合格者たちによって構成された宋では、表現法がまるで逆になっている。社会の風潮の変化が文学に影響を与えている事が読み取れ、興味深い。

狐の物語の内容についての変化も、六朝から唐へ、人間と友になる狐など、よい狐の話が急増する一方で、はより強い力を持ち、より激しい悪さを行う狐も増えている。このようにもともと二面性のあった狐の評価が、時代を下るにつれて両極化していっていることに注目し、以下の章で詳しく考察していきたいと思う。

 

参考までにこの論文中に名前の出てくる文献を時代ごとに表記しておく。

 

 漢以前『詩経』

漢  『礼記』

    『山海経』

   『呉越春秋』趙曄

    『説文解字』許慎

    『戦国策』劉向

   『焦氏易林』焦延寿

    『風俗通』応劭

後漢 『白虎通義』班固

六朝 『列異伝』曹丕

    『捜神記』干宝

『捜神後記』陶潜

晋  『抱朴子』葛洪

    『西京雑記』葛洪

唐  『補江総白猿伝』作者不明

『朝野僉載』張鷟

    『広異記』載孚

    『任氏伝』沈既済

明  『本草綱目』李時珍

   『剪燈新話』瞿佑

清  『聊斎志異』蒲松齢 

    『閲微草堂筆記』紀ホ

 

 

第二章   妖怪としての狐について

 

この章では狐の生態や描かれ方から、妖怪としての狐のイメージがどのように発展していったのかについて、志怪や伝奇における狐の話のパターンを元に考えてみたい。

 

第一節 狐の生態について

 

    生物学的な狐について

狐は、哺乳類の食肉目イヌ科に属し、ヨーロッパ・アジア・北アメリカの中北部に広く分布していて、アジアに分布するのは主にアカギツネの種類で毛色は黄褐色である。

細長く尖った顔に全長の半分ほどもある太い尻尾が特徴で、古来より中国では毛皮を目的とした狩猟の対象であった。特に腋の下に生えている白くて柔らかい毛だけを集めた孤白裘は大変に貴重なものである。

その用心深い性格から中国では狐疑と言う言葉もあり、『戦国策』では「虎の威を仮る狐」のように狡猾で狡賢いイメージで使われている。

生息環境は様々で、もともとは森林と草原との接する地点を中心に生息していたらしいが、農村近くなど人と接触する機会の多いところにも適応して生息する。そのためか野犬や、早くから人間に猟犬や番犬として飼われていた犬とは天敵という考えは古くから知られていた。

食性は雑食で、死肉も食べ、共食いもする。余った餌を埋めて保管しておく習性がある。知能が高く、狩りの際に水上にいる水鳥に近づくために体を水草で覆って近づいたりする。この水草や葉っぱで身を隠す様子や、餌を探す際に後ろ足と尻尾でバランスを取って立つ姿が人に化けるイメージに結びついたのかもしれない。

体臭がきつく、屁が臭いという。子育て時には血縁も関係なく大人の狐が参加したり、激しい子別れをする親子の情の深い一面を見せる。

 

    中国独特の狐の認識

中国における最も古い字典である後漢の許慎『説文解字』に、狐はこう書かれている。「狐、有三徳。其色中和。小前大後。死則丘首。謂之三徳」(狐には三つの徳がある。その色が中和であること。先端が小さく、後部が大きいこと。死に際して故郷の丘に首を向けて死ぬこと。これを三徳と言う)。これによると狐が尊ばれるのは狐の体色が、中国陰陽五行思想において木火土金水の五元素のうち中央に位置する土気を象徴しているから、また顔が細く尻尾が太い形状が末広がりを意味してめでたいから、そして死ぬ時にも本を忘れない仁の心を持っているからだということが分かる。李時珍の『本草綱目』には「江東に狐なし」とあり、東晋で狐は身近なものでなかった。そのことが晋の時代に書かれた志怪小説に狐の話が少ない原因とも考えられている。

 

・文献に現れる妖怪としての狐の生態

妖怪としての狐は「狐は五十歳にして、能く変化して婦人と為る。百歳にして美女と為り、神巫と為る。或いは丈夫と為り女人と交接す。能く千里の外の事を知り、蠱魅を善くし、人をして迷惑し智を失わしむ。千歳にして即ち天と通じ、天狐と為る」と『玄中記』にあるように、年を重ねる事で変化する能力を身に付け、仙人のような力を持つ天狐になれると言う。それもただ年を取るのでは駄目で、人間の精気を奪う事が必要だと言う。そこで陰の属性である狐は陽の気が強い人間の男と交わろうとし、雄であっても女性に化けるのである。正体を暴かれた狐が髪を切ろうとしたのも髪から精気を吸い取るためだろう。

しかし時には狐も男に化ける事もあれば、女と交わる事もある。『捜神後記』には人語を喋る古狐が、種々に形を変じて、容貌のよい女子を犯し、済んだ者の名前を名簿に印を付けていた話が載っている。その名簿に名が書かれていた女は数百にものぼったという。精気を奪う為なのかどうかは明らかではないがこの場合も狐は淫を貪る獣という面が特徴付けられている。

また、変化の仕方についてだが、志怪書、伝奇文には化ける時の詳細が載っている文は大変に少ない。『集異記』には二本足で立ち、手ごろな髑髏を頭上に括り付け、木の葉や草花で体を蔽うことで変化する様子が記されている。この方法について今野春樹氏は「むしろ「化ける」というよりも「仮装」に近い」[四]と言っている。

また『酉陽雑俎』の「必載髑髏拜北斗。髑髏不墜、則化為人矣」(必ず髑髏を頭に載せ、北斗を拝す。髑髏が落ちなければ化けて人になれる)と言う文では、人に化けるのに必要な手順として北斗踏みという道教における儀礼を行う様子が書かれている。この北斗とは北斗七星のことで、夜空の星の中心にある北斗七星は特別に信仰され、人の死を司るとされる。北斗踏みとは北斗七星の形をなぞって歩く事である。

狐の弱点とされるものの代表格は、実際の狐にとっても苦手な犬である。しかし犬を恐れるのは野狐と呼ばれる位の低い狐までで、仙術を使う事ができる仙狐が登場してくるようになると犬も歯が立たなくなっていく。そこで仙術を使う狐の新しい弱点とされるのが、もっと位の高い神々である。

『不子語』の「狐生員勧人修仙」には「狐の多くは毎年太山(泰山)娘娘の考試を受け、合格したものが仙術を修め駄目なものが野狐になる」という言葉があり、人間の生死を司るとされている泰山の神は仙人の世界も管理していたとされていたことが分かる。仙狐としての力や地位を剥奪されない為に泰山娘娘の力は絶対だったのである。

その他にも関帝こと三国志の英雄関羽や五雷正神こと雷神に恐れを抱いている記述がある。[][]

また、避邪の力がある桃の枝で斬られたり[]、柳枝から水を身上に滴らす[]、日本のお祓いのような方法で退治されることもある。その他にも来歴は不明だが鵲(カササギ)の頭を戸の上に懸け、「伊祈熟肉(イチジク)」と唱えられること[]を嫌がり、右夜神が家に居ると思うために「右戸右夜」と書かれた符を門に貼られる[一〇]と近寄れないらしい。

 

第二節 狐の話の分類

 

ここでは狐についての話をパターンごとに分類することで、イメージの傾向を読み取っていきたいと思う。

 ・志怪小説以前の狐の描写

紀元前六六〇年には著されていたといわれる『詩経』には既に狐は「妖媚の獣」というイメージで用いられている。「南山」という詩では斉の国の襄公が他国に嫁いだ妹の文姜といつまでも道ならぬ関係を持っていたことをそしるのに、襄公を淫獣の雄狐に見立てている。また「北風」という詩では狐は烏とともに狡猾で怜悧な役人を暗示するのに用いられている。そして「有狐」という詩では狐は妖媚な獣であり、魚も婚姻に関係があるため、この詩は男女誘引のことに喩えたとされる。これらの詩から狐はかなり昔から狡猾、淫獣の代名詞として使用されていたことが分かるが、ここで話に上がっている狐は、まだ第一節の「狐の生態 生物学的な狐について」のところで記したような生態から発展した、普通の狐である。しかしこれが色や形に特徴のあるものとなると話はまた違ってくる。

『山海経』には九尾狐について「青丘之山有獣 。其状如狐而九尾。其音嬰児。能食人」とあり、尾が九つあり、赤ん坊が泣くような声で鳴く、人を食う化け物といっている。

『春秋緯』では「帝伐蚩尤乃睡夢西王母遣道人、披元狐之裘以符授之」と黒い狐の裘が特別な力を持っていたとしている。

裘に限らず九尾の狐や白狐、玄狐などは古来より神聖な力を持っているとされ、その姿を現わすことは吉兆や不幸の前触れとされていた。九尾の狐については現在では『封神演義』で有名な殷王朝を滅ぼした狐精の美女妲己の話が有名である。『封神演義』は明に書かれたものだが、「狐が妖獣であるイメージは古くからあり、紂王をその魅力で誑かした妲己の狐説は古くから信じられていた」[一一]と二階堂善弘氏は言っている。今では悪役のイメージが強い九尾の狐だが、九つも尾を持つ狐は三徳のうちの一つである末広がりな形を強調したものであるし、九と言う数も最大を表す数として瑞祥の験とされていた。

例えば『呂氏春秋』には禹王が九尾の白狐を娶った話が収められている。「禹、三十未娶、行到塗山、恐時之暮失其度制。乃辞云吾娶也必応矣。乃有白狐九尾。造于禹。禹曰白者吾之服也。其九尾者王之証也・・・・・・」(禹王は三十歳にして独身であった。後継ぎの無い事を恐れ、結婚を考えていた。塗山に辿り着いたとき、九尾の狐が禹のところにやって来た。禹は、白はわが服であり、九尾は王の証であるとして塗山氏の女、九尾の狐を娶ったという。) 禹王は中国古代の聖王で水治で有名な君主である。その禹王が体色と尻尾の数が縁起がよいと女性に化けた九尾の狐を娶ったように、瑞祥の験であったことがよく分かる。

第一章でも述べたが、志怪小説では狐を扱った話は特に多いというわけではなく、『抱朴子』に「狐狸犲狼皆 八百歳。満五百歳則善変為人形」とあるように、狐ばかりでなく狸やヤマイヌ、狼なども長生きすれば化けると言われていた。

 

ではこれ以下は志怪、伝奇のパターンを挙げていきたいと思う。

 

一、媚珠

狐の持つといわれている珠のことで、それを持っていると「其の夫の貴ぶ所と為る」[一二]とあるように異性から愛される惚れ薬のような効果がある。その正体は狐が天狐を目指すために人間から奪った精気で作られた丹であると思われる。

その採取法は次のようである。

口の細い小瓶を土の中に埋め、四足を縛った狐の口を同じ高さにして、二切れの猪の炙り肉を瓶に入れてやる。狐は好物の炙り肉が得られず、口を瓶に近づける。炙り肉が冷めるとさらに二切れを入れてやる。孤はひとしきり涎沫が湧き出て、炙り肉が瓶にいっぱいになると狐は珠を吐き出して死ぬ [一三]

この珠と同じような採取法で集められた狐の唾液が媚薬になるという話もあり、狐の人間を誑かす陰獣としての力をより強調するものである。

 

二、鳴いて不幸を予言する

  『捜神記』に以下のような話がある。

譙県(安徽省)の夏侯藻という人が、母親が重い病気にかかったため、淳于智のところへ占って貰いに出かけようとしていると突然一匹の狐が門の前に現れ、家の方に向かって鳴いた。藻はびっくりして恐ろしくなり智の所へ駆けつけたところ、智が言うには、

「これは禍が目の前に迫っておりますぞ。早く帰って、狐の鳴いていた場所で胸を打ちながら鳴きなされ。そしてお宅の人々を怪しませて、年寄も若い者も、全部外へ出させるのじゃ。一人でも残っている間は、泣くのを止めてはなりませぬ。そうすれば何とか災難をのがれることができましょう」

藻が家に帰って、そのとおりにすると、母親までが病気をこらえて出て来た。家の者たちが全部集まったとことで、その家は五間の幅にわたり、がらがらと崩れてしまったのである。 [一四]

狐が鳴くことは不吉な事の前兆とされ忌み嫌われた。しかし報恩譚の場合、狐は主には良い事や悪い事が起きる時は鳴いて知らせたり、人に取り憑いて吉兆を占ったりといった方法をよく取る。

 

三、出産譚

産婆が夜中に呼ばれ人外のお産を手伝いお礼を貰う、またはその時戴いた食事がミミズや虫などの類であったという話だが、これは狐に限った話ではなく他の動物や幽霊の場合も多い。また怪我をした動物を医者が助けるという話もあり、狐に限らずパターン化している。

 

四、狐憑き

狐に取り憑かれると、突然病気になったりうわ言を言ったり、気が触れたような行動を取る。また取り憑いた人間を介して未来の事を言い当てたり自分の要求を伝えたりといった行動を取る。そして取り憑かれる事は人間に負担がかかるらしく、人が死ぬことも多い。

『広異記』には「王黯は崔氏と結婚した。唐の天宝中、妻の父士同は沔州の刺史となった。黯は士同に随って江夏に差し掛かった、そこで孤憑きにあい、川を渡る事を嫌がった。しかし発作を起こすと大きな叫び声を挙げて、いつも水の方へ行こうとした。妻達は恐れおののいて、黯を縛り、馬屋に寝かせた」[一五]という症状も載っている。しかしこの話については、今野春樹氏は論文[一四]の中で「実際の狐は特に水を怖がらない」、「狐憑きと水を恐れる事との結びつきがはっきりしない」ことから疑問を持ち、狂犬病に感染した狐による、人への感染の可能性を述べている。しかし全ての狐憑きの症状には当てはまらず、現在でも原因は不明とされている。

 

五、狐火

『酉陽雑俎』には狐は夜に尾を打つと火が出るとされている。また松明を持ち建物に放火をしようとした狐が退治される話もあり、狐と火の関連性を思わせる。狐について陰陽五行思想と関連付けたアプローチをした著書を書いた吉野氏は、土気の狐に対し相生の火生土・土生金。相剋の木剋土・土剋水について詳しく著書の中で述べている。つまり土の部分は狐に置き換えることが出来、「狐は火気によって生み出され、狐自身は金気(金属・鉱物一切)を生み出す。狐は木気によって傷めつけられ、狐は水気を抑えつける」[一六]となるから狐が火を操るのにも関係が有り、後の「学の高い狐」の部分で詳しく話を載せるが化けた狐の正体を暴くのに樹齢千年以上の古木が使われるというのも五行に適っている。

 

六、異類婚姻譚

  主に人間の男に狐が嫁ぐという話が多い。まず六朝志怪の狐についての話と唐代伝奇での異類婚姻譚を見比べてみたいと思う。

   後魏の時、挽歌を謡うことを生業としていた孫巌という男がいた。妻を娶って三年になるが、いつも妻は服を脱がずに寝ていた。巌はこれを怪しんで、ある時妻が寝ている隙に服を脱がすと尾があった。長さは三尺ばかりで狐の尾に似ていた。巌は驚いて妻を叩くと、妻は巌の髪を切ろうと走ってきた。隣家の人が妻を追うと狐に変わり、逃がしてしまった。それから京では紙を切られるものが百三十人に及んだ。狐はいつも綵衣を着た艶やかな婦人に化け、道を尋ねるふりをして、喜んで近づく者の髪を切った。それ以来、当時綵衣を着る婦人を指して狐魅と云った [一七]

次は唐代伝奇の中でも珠玉の作と言われる『任氏伝』のあらすじを省略したものである。

金持の韋崟の元で居候の身の鄭六は、妖狐と知りつつも任氏を口説き結ばれる。任氏は不思議な力を使って鄭六に金儲けをさせる。前々から任氏の美しさに目を付けていた韋崟は鄭六の居ない隙に任氏に迫った。しかし任氏は夫に対する貞節を守ろうとし、韋崟はその様に自分を恥じ入りそれ以後は夫婦の面倒をよく見るようになる。後に鄭六が武官として登用され任地へ赴くのに、嫌がる任氏を無理やり連れて行ったところ、道中で犬に噛み殺されてしまった。鄭六は大変悲しみ、任氏を弔って帰って行った。

このように同じく狐を娶った男の話だが二つの話からまったく違った印象を受ける。それはやはり話の筋が、志怪では妻の正体がばれて突如妖怪の本性をあらわす恐ろしさであるのに対して、伝奇では狐である任氏の誠実さと、人間である鄭六の思慮の足りなさ、そこから生じた悲しい結末を描いている点にある。その他にも鄭六が正体を知っていてそれでも任氏を愛し、任氏も鄭六に操を立てようとしているところからも伝奇との大きな違いが分かる。始めは鄭六を誑かして精気を奪った任氏だが、鄭六の熱意に負けて結婚してからはもはや妖獣とは言えず、むしろ人間以上に良妻である。巻末に作者が「鄭六にもっと教養があれば任氏の容色だけでなく内面をも知ろうとし、任氏が死ぬことも無かったのに」と言っているように、思慮の無い人間に対する風刺の意味合いが強く、またこれまでに物語ではあまり描かれなかった女性からの気持ちを描いた事でこれ以後の恋愛をテーマにした物語に大きな影響を与えたという。

 

七、天狐

   仙人としての修行を積み、妖怪としての狐が正体を現わす原因になったり、命を落とすきっかけになる天敵である犬も恐れることはない。『酉陽雑俎』では「道士の術のうちに天狐の法というものがある。天狐は九尾で金色で、日月宮(道教の世界にある日の都と月の都)に使役されているのであるという」とある。天狐の法がどういうものかは分からないが、道教との関係が読み取れる。天狐は唐以後の伝奇小説に多く見られるようになっていき、術を使って人に悪さをしては仏教や道教の力によって退治される。

 

八、学の高い狐

   『捜神記』には「千年を生き、自由に変化する事が出来るようになった斑模様の狐が、張司空とどちらに知識があるか勝負したいと考え、書生に姿を変え文学や道理で論を戦わせた」[一八]話が収められている。

始めは相手の若さや物腰から丁重に扱う張司空だが、相手の人とは思えない知識を目の当たりにし狐の変化だと考えると屋敷から出さないようにして犬をけしかけたりした。しかし犬でも千年を生きた変化を見破る事は出来ず、最終的に樹齢千年以上の神木で照らされて正体を暴かれ殺されてしまう

   その他にも胡博士と称され人間の弟子たちを教授していた書生が、じつは墓穴で狐たちに講義をしている老孤であった話(『捜神記』)や狐の穴に二千巻もの書物があったという話(『御覧』)などもある。

   また伝奇には狐と人間の交流の話が載っている。この場合ある程度学問の分かる、風流な心を持つ主人公の土地に狐の一族が住み付きお互い仲良くなるのがパターンなのだが、ここでよく出てくるのが学のある狐である。互いに学問について語り合ったり詩を作ったり、子どもの勉強を見てもらったり、主人公の危機に手助けをしてくれる。人に害を及ぼすどころか、長年親しくしていた男が裏切って殺そうとしてもそれを嘆き、去るだけでよっぽど人よりも情の深い様を見せる。以下にそのパターンの話を載せ、参考にしたい。

    車という名の男は酒好きで、貧乏なのにいつも酒を枕元に置いて飲んでいた。ある日、自分の横に狐が酔っ払って犬のように寝ていて、そばに置いてあったとっくりが空になっていた。車は自分の酒飲み友達だと、丁寧に扱ってやった。次の日、狐は立派な男に変身しており、車と飲み友達になった。孤は車に富を与え、車の妻を姉さんと呼び、子どももかわいがっていたが、車が死ぬと来なくなってしまった [一九]

柳という男は狐と交際し、とても仲がよかった。柳は貧乏だったので、狐がその生活の面倒を見てやっていた。ある時、富豪に金を借り、借金のかたに女房を質に入れた事があったが、狐が柳の証文を盗んでやったので事件が落ち着いた事もあった。ある時、金持の娘が狐に憑かれ、符でも追い払う事ができなかったので、狐退治をしたものには百両の賞金を出すという募集があった。柳の妻は金に目がくらみ、夫に狐を殺すようけしかけた。柳は始め友達を裏切るようなことはしたくないと渋っていたが、ついには仕方なく実行に移そうと狐を待っていた。しかし狐はすべてを知っていて来なかった。ある日、柳が近所の者数人と一緒にいる所へ狐が来て、これまでの互いの友情の深さ、これまでいろいろと援助してきたこと、そして柳の悪計を洗いざらい話したあとで、柳の娘の掛け布団を作ってやると約束したからと言って、布一匹と線一束を置き、「友人を選ばなかったのは、私の過失だった・・・」と去って行った。柳はそこにいた人々から責められ、村にも居られなくなり、家族で夜逃げしたという [二〇]

  このように狐のイメージは二極化してそれぞれが人々に受け入れられていった。村々では社を立てて祭る事で狐の害を避けようとし、狐信仰は「狐がいないと村が成り立たない」[二一]という言葉が生まれるまでの大流行を巻き起こした。ここで注目したいのは同じ題材でも時代によるイメージが違う事である。「異類婚姻譚」や「学の高い狐」の部分で顕著なように、志怪と伝奇では人と狐の関係が近く、狐は遭ったら即退治するべき妖獣から人間と近しい分別ある存在へという変化が見られるようになってくる。このことは人の方の意識が変化したことを思わせる。

 

第三節 日中の比較 

 

日本での狐の話にも多くに中国の影響が見られる。日本での狐は空海とともに中国から渡ってきたという説があり、その白狐は稲を荷えた老翁に化け、東寺の門前で空海に再会し、その後空海の手で祭られたのが農業神である日本の稲荷信仰の始まりだと言われている。笹間氏は空海が中国から狐信仰の考え方を持ち帰ったことをこのように伝えたのではないかとしている。[二二]

このように中国に行った当時の僧や役人などを介して学問や仏教などと一緒に日本に入ってきた狐のイメージは人々に受け入れられてさらに日本独自の発展の仕方を見せるようになる。

日本の狐で有名なのは陰陽師安陪晴明の母親と言われている信太の森の狐である葛の葉や、中国での妲己が日本に渡って来て鳥羽院に取り入ったとされる玉藻前の話である。

信太妻

和泉国泉北郡信太村、信太稲荷の縁起

信太の森の狐は、安陪保名に生命を助けられ、葛の葉という娘に化けて、保名の妻となる。二人の間には童子丸という男の子まで生まれたが、ある日、正体があらわれ、そのため、

恋しくば たづねきてみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉

という歌を残して去る。童子丸は成長し、後に高名な安陪晴明という陰陽師になった [二三]

玉藻前妖狐伝説

鳥羽天皇の頃に天皇一族の中の御息女に仕えている美しい女性がいた。どういう素性か不明であるが、玉藻前と呼ばれていた。天皇の御寵愛ひとかたならず。玉藻前はインドや中国のことをよく知っていた。

そのうちに天皇が病にかかられたので陰陽師に占わせたところ、玉藻前が御側にいて災いをなすのだということになり調伏の祈りを行うと、玉藻前は孤の正体を現わして逃げ去り、下野国那須野が原に移り棲んだ。

これを退治しようとしたが、敏捷で捕らえることができない。そこで狐を追い打ちする練習として武士が馬を走らせ、放した犬を追いかけて射る練習をさせた。結局、上総介平広常が御物射に射てこの孤を退治した。その妖孤の尾の先には二本の針のようなものが付いていたという。(中略) [二四]

この後、話は犬追物の起源についてに変わるのだが「インドや中国に詳しかった」ことから玉藻前とインドや中国で悪女として名をはせた華陽夫人、姐己、褒姒の関係を匂わせている。

日本での話は、中国で完成していた「狐の徳」や「術を使い美女に化ける」といった要素を輸入し、日本独自の考えを織り込んでいる。悪さした狐を退治する話や執念深い狐の報復譚など中国にもある型の話から、契りを結んだらどちらかが死ぬと分かっていて愛を貫き自らは死ぬといった話や、結婚して子どもまで設けるが犬や自分の子どもに正体を明かされ原形を現して逃げてしまう物悲しい話といった日本独特の要素が見られる話がよくあるパターンである。

そこで同じような話から中国と日本の違いを考える。江戸時代中期の俗話集の話には、一度化かされたにも関わらず、その時の体験を忘れられずもう一度化かされたいと願う男が収録されている。男を想うあまり恋わずらいになってしまった美しい姫君の婿となり、楽しいひと時を過ごした男は我に返ってからも狐の見せた幻覚を忘れられない。

それからの乗康はときどき山のあたりなどを一人言をいいながら歩き回った。しかし孤は、人間が化かされて一人芝居して喜んでいる様をみるのがおもしろいので化かすのであり、人間のほうから化かされるのが楽しいからもう一度化かして欲しいと願っても、そんな人間に対しては少しも興味がないから相手にしてくれない [二五]

この話からすると、すでに江戸時代には狐が人間を誑かすのは精気を奪う為ではなくただ楽しいからという事になっている。『任氏伝』の主人公も、任氏に一度化かされ後もう一度任氏に会いたいがために街中を歩き回る。しかし任氏の場合は同じ相手から精気を奪っても利点が無く、付きまとわれると次の相手をたらし込む邪魔になると言って拒絶した。

このことから日本では狐本体が化けるのでなく、相手にだけ幻覚を見せるような化かし方が行われていることが分かる。志怪小説の狐のように精気を奪い、丹を練って強大な力を得ようとは考えていないようである。確かに日本では人に悪さをするのは野狐程度の力の持ち主で、天狐のような強大な力を持つものは稲荷として祭られる狐だけである。

狐が狐を処罰、または狐が罪の意識に自殺する話がある。「借り物の孔雀を狐に食べられてしまった対馬守は稲荷の社を壊すが、稲荷の狐は冤罪を訴え、真犯人の狐を捕らえ殺した。そこで対馬守は稲荷の社殿を新しく作り直した」話[二六]や「仔狐が鼠用の罠で死んだ事を逆恨みして夫婦の子どもを殺した親狐が、過ちに気付き自殺する」[二七]などである。これはどちらも、狐にも人間と変わらない、稲荷の狐を頂点に上下関係のある社会が存在し、人間と変わらぬ非を認める常識が存在することを前提としている。だからなのか狐は徳や身分の高い、または豪胆な人物に対して弱いとされていて、豊臣秀吉までもが狐憑きから威光でもって狐を退散させた話が存在している。「さすがの狐もこのまま取り憑いて、秀吉に一族郎党皆殺しにされてはかなわないと逃げだす」[二八]のだが、狐のトップであり神の使いである稲荷の狐までもが社を壊されないようにと人間の言う事を聞いている様には人間側を持ち上げる、物語の作者の確かな意図を感じる。

 

 

第三章 狐のイメージ

 

この章では人間によって利用される狐のイメージや、狐のイメージ形成の成り立ちなどについて考え、当時の人々の考えを読み取りたいと思う。

 

第一節 利用される狐のイメージ

 

・退治される狐

狐が悪さをする話があれば、必然的に狐が退治される話も生まれてくる。もともとは狐を退治していたのは狐の被害に遭っていた当事者やその飼っていた犬など、狐の正体に気付いた者であった。しかし時代を経て唐代にもなると狐にも天狐になるための修行を積んだのか、妖力の高く、強力な術を使うようなものも現れる。それを退治するには一般人や犬では手におえなくなり、神仏の力を使って妖怪退治をする専門家が現れる、これが仏教の場合は高名な僧侶やインドの僧侶であり、道教で言うと方士・術士・道士といった者たちである。

狐の手が込み、手口が凶悪になればなるほど道士達は力を発揮し、より強力な術を使い、より強力な神を使役しあの手この手で退治していく。このような狐を退治する事を題材にする話は唐以降、清代に多く見られるようになる。

以下の話は仏教系統の狐退治話では古い部類に入る『広異記』の「大安和尚」と言う話である。

武則天(太后)在位の時、自らを聖菩薩と称する女人がいた。人の心を言い当てるのにとても長けていた。太后が宮中に召したところ、彼女が言う事が全てあたっており、皆敬い、数ヶ月して本物の菩薩であると言われるようになった。

しばらくして大安和尚が召され、太后は和尚が菩薩にまだ会っていないことを聞き、会わす事にした。和尚は傲然とかまえ、しばらくして「貴女は人の心中をよく知るという。私の心が今何処にあるかをあててみなさい」菩薩が答えていう。「師の心は塔頭相輪の鈴の中にあります」和尚は三度問うたが、菩薩はことごとく言い当て、その様子を見て太后がいたく満足した。

最後に和尚は意識を四果阿羅漢地に飛ばしたが、菩薩は答える事ができなかった。和尚は「私は初めから阿羅漢の境地に心を置いていたが、貴女は知ることはできなかった。もし仏や菩薩の境地に達しているならば、判らない事はないだろう」女は言葉につまり、牝孤に身を変じて逃げ去った[二九]

このように「神仏を呼び出して退治させるよりも、その僧侶自身の法力による退治が多い」[三〇]と今野氏が考えるように、仏教系の退治話は神仏の力よりも僧侶自身の徳の高さに焦点がある。

仏教系に対し、道教系の典型的な退治の仕方を『広異記』の「長孫無忌」から見てみたい。

唐の太宋が美人を長孫無忌に下賜した。すると美人は王八と名乗る狐に取り憑かれ、無忌を見ると刀で切りかかろうとするようになった。太宋はそのことを聞いて色々な術士を呼んだが、効き目はなかった。

ある術士が言うには、相州の崔参軍が狐憑きをよく治すと。太宋は勅命を発して崔参軍を呼び寄せることにした。崔が無忌の家に到着すると太宋も行幸し、退治の様子を見物する事にした。

まず崔は机を据え、霊符を書き、邸内の井戸・竃・門・厠・十二辰などの神を呼び寄せた。大小様々で、どれも奇怪な姿をし、庭に集まった。崔は叱りつけて「諸君らはこの邸の家神であり、その役目は大きい。それなのに何故狐を邸内に入れたのだ」諸神が弁明するには「あれは天孤で、とても力が及ぶものではありません。決して賄賂を受けたわけではありません」崔は狐を捕らえて来るようにと命じたが、しばらくして諸神が手に武器を持って現れ、とても適いませんと言い、中には怪我をしたものもいた。

崔は再び霊符を書き、それを投げると急に辺りが暗くなり、空から兵馬の音が聞こえてきた。すると五人の男が整列して崔の前に現れた。崔は「この邸に狐が住み着いている。それを捕らえて頂きたい」と命じた。諸神は承諾して散り去った。太宋があれは何という神かと尋ねると、崔は五岳神ですと答えた。するとまた兵馬の声が聞こえ、縛られた狐が落ちてきた。無忌は忿懣やる方がなく、長剣で切りつけたが、びくともしなかった。崔はこの狐は天に通じるほどの力を持っているので効きませんよといい、孤には姦淫をほしいままにした罰として、杖刑五百の判決を下した。無忌は刑が軽いことに不満を表したが、崔は「このものは天曹が使役に使うので殺してはいけません」と言った。孤は飛び去って逃げ、美人の病も回復した[三一]

このような、書符によって家を護る諸神を呼び出し退治させようとするが、狐の方が一枚上手で手が出せないのでもっと強力な神を呼び出し退治してもらう、という筋はよく使われた。

どちらの退治話も特別な人物とされ神にも等しい力の持ち主と人々の尊敬を集めたであろうことは想像に難くない。術の心得がある者が狐を退治しようとして逆に痛い目に遭わされる話も、生半可な力の持ち主ではかなわないような強力な妖狐を退治できるのは本当の能力者しかいないということを印象付ける。

上の二つの話が、お互い術を使って退治した人物を称える内容であったことに対し、次の話はまた違った意図を感じさせる。これは道教による退治話だが、狐が菩薩に化ける事に注目したい。

唐の代州にある女がいた。その兄は遠くに出征していて家にはおらず、母と二人だけで暮らしていた。ある日突然菩薩が雲に乗っているのが見え、そばへ来ると母に云った。「汝の家は清浄であって、余はここに降臨したい。余に相応しいように準備しなさい。そうすればここへ降りるであろう」これを目撃した村人たちはこの家へ往き、菩薩が望むように整えた。すると菩薩は五色の雲に乗って到来し、その部屋に降りた。多くの村人が菩薩を敬い、供養した。菩薩は村人達に他へ言い触らさないように、しきりに戒めた。皆は恐れて、一層菩薩を信心し、参拝は絶えることがなかったが、村人は互いに戒めあって、他言は一切しなかった。やがて菩薩は女と通じ、女は孕んでしまった。数年後その兄が還ってきたが、菩薩は男など見たくないと云って母に兄を追い払わせたため、兄は家に近づくことができなかった。兄はこれを怪しみ、あるだけの財産を使って道士を捜した。しばらくして術に長けた道士が見つかった。菩薩を窃かに見るとその正体は、はたして一匹の老孤であった。そして刀を持って家に入り、老孤を切り殺した [三二]

「仏教」の神である菩薩に化けて不埒な行いをする狐を「道教」の修行を積んだ道士が退治をする。類似に、仏に化けた狐を崇めて、言われるがまま禁じられている肉を食してしまう仏僧たちの話もあり、逆に仏教が道教を攻撃した内容の話もある。これらの話からは仏教と道教の対立が読み取れ、神を狐の姿に貶め、それを退治することで己の宗派の優越性を示そうとしている。

狐の化ける能力、仙狐となって使えるようになる神としての強大な力、そして昔から人々に認識されている陰獣としてのイメージ、とどれを取っても狐以上にこの役がぴったりな存在はいないだろう。

第二章の出産譚で述べた産婆の話も、この場合狐とは限らないが人間外からも腕を見込まれる産婆ということで評判を広めるものであった。

中国でやられ役として宗教に利用された狐はまた、日本でも同様にそのイメージを利用されている。第二章第三節でも述べたように神の御使いである狐が身分の高い人物に敬意を払うというストーリーもその人物には神ですら一目置くほどの人物である事を示し、これも人々に稲荷神として民衆に広く信仰され、かつ獣であるために利用しやすかったのであろう。

 

 志怪小説では特に多い訳では無いが、動物との異類婚姻譚で生まれた子どもが特別な力を持って生まれたり、成長して大成するという筋は伝奇小説や日本の話に多く、中国では成長した息子が科挙に首席で受かる事でめでたしめでたしという締めになっている。また、初期の唐代伝奇の『補江総白猿伝』のように猿の化物の血を継いでいるから猿のように醜い顔をしていたとある人物の容姿を悪く言うために利用されたりしている。

   梁の大同年間の末頃、朝廷は南方を平定するため軍を派遣した。このとき将軍欧陽紇は美人の妻を同行させていたが、土地の者が言うにはこの地の神は女を攫うという。恐れた紇は厳重な警備を重ね妻を守らせるが、その甲斐も無く妻は忽然と消えてしまった。妻を奪われた紇は大いに憤り、毎日四方の山々を探索した。一月余りも過ぎた頃南方にひときわ聳え立つ山に山の神に連れ去られた女たちの住まいを見つける。神とは千年を生きる猿で、全身は白い毛で覆われ鋼鉄のように固く、自由に空を飛び数千里を往来する。そればかりか古い書物を読み、美しい庭園で美女に囲まれ優雅な暮らしを送っていた。しかしこの不死身の白猿も、女たちが紇に授けた策略によって命を奪われる。紇は珍しい宝物を手に入れ、攫われた女たちも連れ戻した。しかしこの時妻はすでに白猿の子を身ごもっていた。後に生まれた男の子は、文学に優れ書も上手で、大いに名を知られた[三三]

この物語については次のような考察が存在する。

実は将軍欧陽紇は実在の人物で、その子詢は唐初の名臣の一人である。史書によれば詢は非常に聡明で、書においては右に出る者のない名手だったが、容貌が極めて醜かった。つまり猿に似ていたのである。この文章は詢の名に傷をつけることを意図して書かれたもので、少なくともその容貌が人々の記憶にあった時代の作と推定されている [三四]

対して日本では狐の母を持ったことが「狐の直」という姓のいわれとされたり[三五]、生まれた子どもも、足が速い、力持ちである、安陪晴明のように特殊な力を持っていた、とされ狐の血が流れていることを逆に家柄をよい意味で特別なものとさせている。これは当時の人々が狐によいイメージを持っていたからこそ効力を発揮したのである。

このように狐は、唐以後の教訓じみた話に合うように悪役として能力を特化させ、その一方で神の支配下に入り、神格化されていった。

 

第二節 妓女と狐のイメージ

 

徳や学があり、美しい「善い」狐のイメージは『任氏伝』に代表される唐代やそれ以後の伝奇に利用されている。

ここで外せないのが唐代伝奇の狐像と妓女の関係である。伝奇小説には妓女が中心人物に据えられた話も少なくない。その中には「妓女にのめり込んで金を使い果たし、貧苦にあえぐ暮らしに身をやつした書生がかつて自分を捨てた妓女にめぐり合い、妓女のおかげで人生をやり直し科挙にも合格したという数奇な人生の話」「ある男が一目惚れした妓女に会うために必死で働き、ようやく一晩買うことが出来たものの、すでに妓女はすっかり酔っ払ってしまっていた、しかし男は嫌な顔一つせず介抱し、それに感じ入った妓女は自分で貯めた金で男に身請けをさせて二人幸せに暮らす話」「同じく男の為に自ら身請け代を出した妓女が、男の裏切りに合い、男にやるものならばと自分の財産を川に捨て自分も入水自殺をした話」などだが、この美しい女性たちは伝奇における狐の化けた女性に酷似してはいないだろうか。

 まずは男の心を捉える美しさ、そして知識人を相手にする中で必要とされる学の高さ、話術や芸の巧みさ、漂う儚さなどである。

 

唐代の妓女と伝奇小説の関係は、「張生が旅の途中に仙女の屋敷に迷い込み、仙女の十娘とお付きの女性を交え酒宴を楽しんだ後、十娘と一夜の契りをかわす」という内容の張鷟の小説、『遊仙窟』からよく分かる。「物語の中では妓館での遊びを模したと見られる要素が多く認められ、実質的には一種のポルノグラフィであったと見なされている」[三六]と言われるように唐代の文学の書き手にとって、妓女は身近に存在する美女の代表格であり、格好のモデルであった。次の文には実際に仙女と妓女の関係が明らかにされている。

  唐代では、妓女を一般に「仙」と呼び、妓館を仙境に喩えていた。それは基本的には、妓館が日常的な社会生活と離れた非日常の場所であり、妓女が家という枠組みの外にいる非日常的な性格を持つ女性であるがゆえに、妓館が俗世を離れた仙境に比擬され、そこにいる妓女も仙女に喩えられたのだろう。 [三七]

ここでどうして唐代になって妓女が文学に登場するようになったのか、妓女を取り巻く環境の変化を見てみたい。

歴史的に見たとき、唐代は妓女の役割に変化が生じる時期として位置づけることができる。それは妓女の持つ「技芸」と「性」という本来的な役割に、新たに「才知」が加わるということである [三八]

 南北朝期に詩の対象にされた妓女たちは宮廷や金持個人の所有物が多かった。それが唐代になって個人のものではなくなり、金さえあれば一般の民衆でさえ妓女と会うことができるようになった。唐代の話には、科挙を受けに都に来たのに妓女に夢中になり金を使い果たしてしまう書生の話もあり、妓女が人々に身近な存在となったこと、どれだけ魅力的な存在であったかが分かる。

当時の結婚が恋愛を差し挟む余地の無いほど厳格であった事が、妓女との自由な恋愛関係に憧れを抱かせ、妓女を文学にも反映させたのであろう。ただ美しいだけではなく妖艶で、知性を感じ、相手によって態度を変えるシビアな所のある妓女は仙女よりももっと身近な狐の化けた美女のほうが馴染み易かったのだと思う。

 

 

まとめ

 

 本稿は志怪・唐代伝奇を中心に、狐のイメージの変遷と二面性について考察することを目的とし、そのために様々な視点からアプローチした。

 年代の流れから見ていくと、そもそも狐は以前からすでにその生態、容貌から人々に対極のイメージを持たれてきた。記録に重きを置く志怪小説では他の動物とあまり変わらない存在であった狐だが、唐代になると立場は一転することになる。

 唐代になり、科挙によって増えた知識人たちの手によって大いに花開いたのが伝奇小説である。伝奇小説の特色は表現力豊かに展開される創作の世界である。文化人たちは、唐代になって身近な存在になった妓女を、狐の化けた美女や仙女に見立て、作品に反映させた。

唐代から宋代へ変わると狐が元々持っていた二面性は独立し、それぞれが発展を見せるようになる。人々の好みが変わり教訓めいた話が主流になると、狐もそれに合わせ善玉を引き立てるための悪役として利用されるようになり、またその一方で人間を批判するために、狐の持つ「徳」を強調した聖人のような狐が登場する。

このように志怪小説や伝奇小説で人々に形成されたイメージが親しみやすいからこそ利用されたのである。

かつて狐の外見、生態から生まれた発展した、妖獣としての狐とは相手を化かして精気を奪う為に相手の見たいものに化ける、当時の人々の欲望を映す鏡である。だからこそ欲望が形になったものである人に化けた狐が人間より清廉な人物として描く事は人間の欲を戒める意味を持つ。こうして描かれるようになっていった容姿、清廉さ共に人の理想の姿を持つ狐は、当初の人間批判の意識を忘れて一人歩きし、単に男性にとって理想の美女とされていった。しかしその理想の美女が妓女に似ているという事実は儒教で厳しく縛られた家と言う概念や科挙という学歴主義からの自由への憧れだったのかもしれない。その狐のイメージが現在でも広く受け入れられていると言う事は、現在の人間も心のどこかで自由に憧れ、現実にはありえない事を理解しつつも理想の美女ないしは男性とのドラマチックな恋愛を求めているのかもしれない。

 

 

引用文献

第二章からの、物語の引用はあらすじが分かり易いよう翻訳、省略したものを掲載する。

[一]前野直彬訳 『中国古典文学全集六 六朝・唐・宋小説集』一九五九 平凡社

[二]戸倉英美 「志怪小説とは何か」『月刊しにか』一九九七年三月号 大修館書店 一八頁 

[三]前掲文献[] 四五一頁

[四]今野春樹「中国の狐について 古代から唐代まで」『中国関係論説資料四一 一九九九年分 第二分冊(増刊)

[五]今野春樹「狐退治―方法とその変遷―」『中国関係論説資料四〇 一九九八年分 第二分冊(増刊)』四〇四頁「斧断狐尾」『不子語』より

[六]前掲文献[]四〇四頁「朱爾玫」『不子語』より

[七]李肪等編纂 陸マ・郭力弓・任徳山主編『白話太平広記』一九九五 北京燕山出版社一一四一頁「長孫無忌」『広異記』より

[八]前掲文献[]一一四八頁「韋参軍」『広異記』より

[九]前掲文献[]一一四九頁「楊氏女」『広異記』より

[一〇]前掲文献[]四〇四頁「駆狐四字」『不子語』  

[一一]二階堂善弘『中国妖怪伝 怪しきものたちの系譜』平凡社 二〇〇三 九八頁

[一二]前掲文献[]「狐の珠」三二三頁

[一三]前掲文献[一二]と同じ

[一四]前掲文献[]一一四一頁「夏侯藻」『広異記』より

[一五]前掲文献[]一一五〇頁「王黯」『広異記』より

[一六]吉野裕子『ものと人間の文化史三九 狐 陰陽五行と稲荷信仰』法政大学出版局 

一九八〇 八四、八五頁

[一七]前掲文献[]一一四一頁「孫岩」『洛陽伽藍記』より

[一八]前掲文献[]「千年の狐」二七頁

[一九]坂井田ひとみ「日中狐文化の探索」『中国関係論説資料三九 一九九七年分 第二分冊()』一四三頁「酒友」『聊斎志異』より

 [二〇]前掲文献[一九]『閲微草堂筆記』巻十二より

[二一]前掲文献[]一一四二頁「狐神」『朝野僉載』より

[二二]笹間良彦『怪異・きつね百物語』雄山閣 一九九八 九八頁

[二三]前掲文献[一六]一六頁

[二四]前掲文献[二二]八八頁「玉藻前妖狐伝」『臥雲日件録』より

[二五]前掲文献[二二]一〇六頁「もう一度狐に騙されたいと願う男」『猿著聞集』より

[二六]前掲文献[二二]一七三頁「狐が狐を処罰するA」

[二七]前掲文献[二二]一六七頁「詫びて自殺した狐@」

[二八]前掲文献[二二]二三〇頁「秀吉、威光をもって退散さす」

 [二九]  前掲文献[]一一四二頁「大安和尚」『広異記』より

[三〇]前掲文献[]四〇二頁

[三一]前掲文献[]一一四一頁「長孫無忌」『広異記』より

[三二]前掲文献[]一一四九頁「代州民」『広異記』より

[三三]戸倉英美「伝奇小説とは何か」『月刊しにか』一九九七年一〇月号 大修館書店  一二、一三頁 

[三四]前掲文献[三三]一三頁

[三五]前掲文献[二二]三六頁『日本霊異記』より

[三六]斎藤茂『妓女と中国文人』東方書店 二〇〇〇 三一頁

[三七]前掲文献[三六]に同じ

[三八]前掲文献[三六]一一八頁