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三国志の神仙について
人文学部 人文学科 中国文学専攻
00L1051T   下川辺治之
目次

はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
第一章 神仙 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
  一.神仙、仙人とは ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
  二.方士とは ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
  三.道士とは ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
  四.『三国志演義』の仙人、方士 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4

第二章 于吉と孫策 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5

第三章 左慈と曹操 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11

第四章 管輅 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15

第五章 華佗 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
  一.正史における華佗 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
  二.華佗と周泰 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
  三.華佗と関羽 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19
  四.華佗と曹操 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21

おわりに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23

参考文献と注 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24



 

はじめに

 『三国志演義』は明の時代、羅貫中によって著された歴史小説である。晋の時代、陳寿によって著された『三国志』(一般に正史と呼ばれる)が国に認められた正統な歴史書であるのに対し、『三国志演義』の方はこれを題材に虚構を交え、物語としての面白さを追及した歴史小説である。どちらも後漢末から魏・呉・蜀の三国への分裂、晋の統一までという動乱の時代を描いている点は同じであるが、『三国志演義』には史実とは異なる描写もあり、あくまでも史実をもとにした小説であるにすぎない。

 正史、演義問わず、「三国志」の魅力のひとつは人物の多彩さ、個性、彼らの繰り広げる戦い、策略、友情、裏切りといった人間模様にある。なるほど『三国志演義』において、それらはさらにドラマチックに強調され、よりいっそうの輝きを放っている。ここで注目したいのは、『三国志演義』に描写される異能な力を持つ存在、神仙たちである。彼らは超常現象とも言えるような能力で他の人物を、そして読者をも驚かせる。『三国志演義』は先に述べたように史実をもとにした作品であるため、虚構の物語でありながらもリアリティを含んでいる。しかし、彼ら神仙の存在はどこか異質で、世界観を損なうことにもなりかねないのではないだろうか。本稿では『三国志演義』における異能力者、神仙、方士として于吉、左慈、管輅、華佗の四人を取り上げ、彼らの神仙術、方術の作品への効果について考察し、『三国志演義』における神仙の重要性について模索していくことを研究目的とする。
 

第一章  神仙

一.神仙、仙人とは

 そもそも、神仙とはいったいどのような存在を意味するのか。『広辞苑』にてその語を引くと、以下のようにある。

神または仙人。神通力を得た仙人[1]。
 続いて仙人という語も引いてみると、以下のようにある。
1道家の理想的人物。人間界を離れて山中に住み、穀食を避けて、不老・不死の法を修め、神変自在の法術を有するという人。
2[仏]世俗を離れて山や森林などに住み、神変自在の術を有する修行者。多く外道を指すが、仏を仙人のなかの最高のものの意で大仙、あるいは金仙ということもある。
3浮世ばなれした人のたとえ[2]。
 本稿でとりあげる仙人とは、1の意味であると考えられる。つまり仙人の定義とは、穀類を食さず、不老不死を体得し、方術(法術)を使用できる人物ということになる。

 実際、『三国志演義』の登場人物で、これに該当する人物は誰かといえば、左慈である。左慈はさまざまな妖術で、曹操を翻弄したうえ、食事を七日間与えられなくとも平気であった。晋の葛洪はその著書『抱朴子』において仙人となる道を説いており、また、同じく葛洪が古の神仙についてまとめた『神仙伝』では、左慈を仙人とし、その仙術とともに紹介している[3]。

 歴史書ではじめて仙人という言葉が登場するのは、司馬遷の『史記』においてであった。『始皇本紀』において羨門皇が[4]、『孝武本紀』においては安期生、黄帝などが仙人として著されている[5]。ただし、仙人の姿は一般の人々の目には映らないと考えられていたようである[6]。

二.方士とは

 秦代や漢代になると、方士と呼ばれる人々が登場する。方士とは、呪術、卜筮などの方術、つまり神秘性を帯びた特殊技術をよくする者であるが、秦・漢のころは、とくに神仙術に通じた者を言うようになる [7]。秦の始皇帝や前漢の武帝は不老不死を求めて、それぞれ徐福(徐市)、李少君という方士を重用し、仙人を探しに行かせたが、巨額の財を費やしたにもかかわらず、ついに不死の薬は手に入らなかった。始皇帝や武帝が不老不死を求めた理由について、平木康平氏、大形徹氏は以下のように述べている。

地上の権力や富など、すべてを手に入れた始皇帝や武帝であっても、意のままにならぬものがある。それはあらゆる人間に平等に課せられた「死」である。しかし、何とかしてその宿命から逃れたいと考えられた彼らは、冷静に考えれば明らかに虚妄とわかる、方士たちの神仙説にやすやすと惑わされ、それにとびついた[8]。
 また、中国で特に不老不死や長寿を求める傾向が強いことに関して、市川宏氏は民族固有の考え方が基盤にあるからであると説明する。
中国の人々は現世を肯定し、「現世利益」を第一とする。死後の世界、すなわちあの世というものをまったく考えない。(中略)とにかく「今の幸せ」がすべてであり、死・老衰・病気は憎むべき敵と見る徹底した現実主義なのだ。(中略)そういう人々だからこそ生を最大限に引き延ばし、最も憎むべき「死」に打ち勝って、叶うものなら不老不死を実現したいという熱烈な思いが生まれたのであろう[9]。
 この二つの観点からすれば、始皇帝や武帝が不老不死を求めたことも納得ができる。市川氏の主張は、神仙という概念がなぜ誕生したのかという問いに対しても、その答えとなりえよう。

 さて、話を方士に戻せば、方士と仙人の違いとは、方士の方がより常人に身近な存在であった点といえよう。『史記』に見られる仙人は、一般の人々には見えないほど常人とは一線を隔した存在であった。一方、方士は仙人の存在を人々に伝えるという役割においても、仙人と常人の間に位置する存在と考えられる。また、方士は不老不死というわけではない点も、大きな違いである。
 
三.道士とは

 前漢の劉向が著したとされる『列仙伝』には、方士に代わって道士、道人という言葉が使われている。先に述べた徐福も、ここでは道士として紹介されている。方士と道士とはその区別が明確ではなく、ほぼ同義であるといえる。

 また、同じく『列仙伝』において、平木氏、大形氏による以下の指摘に注目したい。

『列仙伝の巻上では、歴史上、あるいは伝説上の著名な人物が、仙人とされることが多い。そのなかには天子の黄帝、周の武王の軍師、太公望呂尚など、身分の高い者も含まれている。ところが、巻下は『列仙伝』以前の書物にはあらわれない庶民階層の仙人が、その大半を占めている。その職業も、小役人、祠の管理人、雨ごい師、占い師、道士、道人、陶工、鋳物師、大工、馬医、採薬父、薬売り、酒造り、酒屋、養蚕・養豚・養鶏・養魚にたずさわる人間、漁師、染色工、草履づくり、鏡磨き、乞食など、まことに多様である。権力や富の有無に関係なく、どんな卑しい身分の者でも仙人になれることを、『列仙伝』は明らかにしているのである。『史記』の仙人は、天子の昇仙と切り離して考えることはできなかったが、『列仙伝』の仙人は、庶民の生活と密着したものが多い。庶民の不老長生への願望が、『列仙伝』に投影されているのである[10]。
 この記述に従えば、『列仙伝』の著された頃には、神仙、仙人という語の意味合いも、かなり変化したと考えられる。それまでの目にも見えない仙人から、皇帝やその軍師といった身分の者も神格化され、さらには庶民までもが仙人とされるようになった。その上、身分に関係なく仙人になれるというのだから、仙人と庶民との距離感はかなり縮まってきたといえる。ただし、神仙術に関しては、その輝きはまったく失われておらず、依然として神秘的な存在のままである。

 これまで見てきた各語の定義をまとめれば、神仙、仙人、方士、道士の定義は以下のようになる。

神仙とは、神、つまり仙人以上の存在を指すが、仙人と同義で使われることもある。
仙人とは、五穀を食さず、不老不死を体得し、方術を操る人物を指す。
方士とは、方術を操る人物を指し、道士と同義である。
道士とは、方術を操る人物を指し、方士と同義である。
 なお、『三国志演義』に于吉は仙人との記述があるのに対し、『三国志3』の注には于吉は道士と記されているように、これらの定義はあいまいなものでしかない。本稿では上記の定義に基づき、混乱を避けるため、以降、仙人、方士、方術と語を統一して論を進めるが、引用文に関してはそのまま掲載することとする。

四.『三国志演義』の仙人、方士

 『三国志演義』の舞台となる後漢、三国時代の歴史書に目を移せば、南宋の范{目+華}によって著された『後漢書』には、その第七十二巻に『方術伝』が、晋の陳寿の『三国志』では、第二十九巻に『方技伝』がそれぞれ設けられている。『後漢書・方術伝』には華佗、左慈、『三国志・方技伝』には同じく華佗、そして管輅の列伝が立てられている。

 本稿では、『三国志演義』の仙人、方士として、この三人に于吉の名を加えたい。于吉は『後漢書』、『三国志』のどちらにもその列伝は設けられていないが、『三国志演義』中の彼は、間違いなく方士である。于吉は雨乞いによって雨を降らせ、殺されてもその死体は後日消失していた。『列仙伝』巻上において、赤松子は雨乞い師の祖としてその名が挙げられているし[11]、同書にまた、黄帝は埋葬された遺体が消えていたとの記述がある[12]。以上の点から、雨乞いは方術であるといえるし、遺体が消えるのも方術によると考えられる。以上が于吉を方士とする根拠である。

 『三国志演義』が著されるのはこれより千年近く遅い明代のことであるが、そこに仙人や方術が登場することは、決して不思議なことではない。小説を面白くするためにその作者が工夫を凝らすことは、至極当然のことである。『三国志演義』では、小説の舞台となった後漢代、三国時代に共存した、仙人や方術などの神秘的な要素を有効に利用することで、なんらかの効果を期待していると推測できる。

 では、実際に『三国志演義』において、仙人、方士の登場にはどのような効果があるのだろうか。第二章以降では、人物ごとに章を分け、どのような場面で、どのような不思議な方術を見せるのかを述べたうえで、その効果について考察する。
 

第二章  于吉と孫策

 于吉は『三国志演義』第二十九回に登場する。

当時江東を治めていた孫策は、優秀な参謀や武将、豊かな土地に恵まれ、着々と勢力を蓄え、「小覇王」と称された。孫策自身も武勇に優れ、曹操をして「獅子の子と戦うのは難しい」と言わしめるほどであった。しかし、以前曹操と内通していたことで処刑した呉郡太守、許貢の仇討ちを謀る三人の刺客の手にかかり、身に重症を負ってしまう。医師によると、静養していれば心配はないが、怒ると衝撃となり、根治は困難になるとの診断であった。そんな折、孫策は宴会の席であるにもかかわらず配下の将たちが下へと降りていくのを怪訝に思う。聞けば于吉という仙人が通っているのを拝みに行ったという。孫策は腹を立て、于吉を捕らえさせる。母親の忠告、諸将の嘆願を受けて、孫策は于吉に雨乞いをさせることにする。結果、雨は降ったのだが、孫策は逆上し、于吉は首をはねられてしまった。だが奇妙なことに、于吉の屍は消えてなくなっていた。それから孫策は、あらゆるところで度々于吉の姿を目にすることになる。それにより孫策の精神は苦しめられていく。ある日孫策は鏡を見ると、自分がひどくやつれてしまっていることに気づき、自分の姿をあわれんだ。すると鏡の中に于吉の姿が現れた。孫策は絶叫すると、からだの傷が裂け、気を失って倒れた。このショックによって彼は自分の死を悟り、弟の孫権に後を託し、息絶えた。わずか二十六歳であった。
 これに対して、正史『三国志』での孫策の死因は以下のとおりである。
呉太守の許貢は密かに漢の献帝に、孫策の兵権を回収するよう提案していた。孫策はこれを知り、許貢を殺した。これを不服に思った許貢の一族の者たちが孫策の顔、体に傷を負わせる。後日彼は鏡を見て自分の衰弱を嘆き、その晩、息絶えた[13]。
 つまり、正史においては、孫策の死に于吉は関与していない。それどころか、『三国志・孫破虜討逆伝』本文には、その名前すら見られない。

 『三国志・孫破虜討逆伝』裴松之の注に従えば、『三国志演義』での孫策と于吉のエピソードの源となったのは『江表伝』、『捜神記』であると考えられる。

 『江表伝』は残念ながら閲覧することができなかった。そこで、『三国志3』を参考に、『江表伝』の記載を以下にまとめる。

この当時、琅邪(山東省にある山)の于吉という道士がいた。東方に寓居をし、呉会(呉郡、会稽一帯)を行き来して、精舎(道教徒の集まる教会)を建て、香を焚き道教経典を誦読し、符や神聖な水を用いて病気の治療を行っていた。呉会の人々には彼を信仰する者が多かった。ある時、孫策が呉郡の城門の楼の上で、武将や賓客たちを集めて会を開いたが、ちょうどその時、于吉がその門の下を小走りに通り過ぎた。武将や賓客の三分の二までが楼を降りて于吉を崇拝し、宴会係の役人が大声を挙げてそれを禁じてもやめさせることができなかった。孫策はただちに命令を出して于吉を捕えさせた。于吉を信仰する者たちは、みな妻女たちを孫策の母親のもとにやって、彼の助命を請わせた。母親は孫策に、于吉を殺すことをやめるように言ったが聞かず、武将たちは連名で于吉を赦してほしいとの嘆願の文書を出したが、やはり孫策は聞かない。役人に于吉を斬らせ、その首を市場にさらした。于吉を信仰する者たちは、それでも于吉が死んだとは考えず、尸解(死んだと見せかけ、死体を留めて仙去)したのだといい、彼を祭って福を求めることをやめなかった[14]。
一方、『捜神記』の記載はこうである。
孫策欲渡江襲許、與于吉倶行。時大旱、所在{火+高}{厂+萬}。策催諸將士、使速引船。或身自早出督切、見將吏多在吉許。策因此激怒、言「我為不如吉耶、而先趨附之?」便使收吉。至、呵問之曰「天旱不雨、道路艱澀、不時得過、故自早出。而卿不同憂戚、安坐船中、作鬼物態、敗吾部伍。今當相除。」令人縛置地上、暴之、使請雨。若能感天、日中雨者、當原赦。不爾、行誅。俄而雲氣上蒸、膚寸而合。比至日中、大雨總至、溪澗盈溢。將士喜悦、以為吉必見原、並往慶慰。策遂殺之。將士哀惜、藏其尸。天夜、忽更興雲覆之。明旦往視、不知所在。策既殺吉、毎獨坐、彷彿見吉在左右。意深惡之、頗有失常。後治瘡方差、而引鏡自照、見吉在鏡中、顧而弗見。如是再三。撲鏡大叫、瘡皆崩裂、須臾而死[15]。

孫策は長江を渡って許都を奪おうと、于吉を連れて軍を進めた。しかし、旱によってどこも乾ききっていたため、速やかに船を進められない。その上兵士たちは于吉のところに集まって、働こうとしない。孫策は「自分が于吉に及ばないというのか」と激怒し、命令を下し于吉を縛って地面に転がし、炎天にさらして雨を乞わせ、日中に雨を降らせることができれば赦すと約束した。于吉は見事に雨を降らせたが、孫策は于吉を殺してしまった。将士は悲しみ、遺体を人目につかないところに安置したが、不思議なことに翌朝、遺体はなくなっていた。孫策は于吉を斬ってから、ぼんやりと于吉の姿を見るようになった。傷が癒えかかった頃、鏡の中に于吉の姿を見た。振り返ってみても于吉はおらず、鏡を殴りつけて絶叫すると、傷口がみな裂けて絶命した。

 羅貫中は、『江表伝』、『捜神記』の二つを併せて、『三国志演義』に見られる于吉のエピソードを作り上げたと考えられる。『江表伝』からは、宴会中に于吉が現れ、于吉の人気に嫉妬した孫策は彼を殺そうとするが、母親をはじめとする人々が于吉を赦すよう請願したところ、『捜神記』からは孫策は于吉に雨を降らせば赦すといいながら、雨が降ったにもかかわらず于吉を殺したところ、後日、孫策は于吉の亡霊を見るようになり、ついには鏡の中に于吉を見て死亡するところを取り入れていると考えられる。

 『三国志』の注には、『三国志演義』の于吉を思わせるエピソードが見られる。『三国志・孫破虜討逆伝』の注にある、高岱という人物の最期が于吉のそれとよく似ている。高岱については『呉録』に詳細な記載があるということだが、残念ながら閲覧できなかったため、『三国志3』を参考に、高岱の最期について以下にまとめる。

高岱は、字を孔文といい、呉郡の人である。彼は会稽郡の余姚で隠遁生活を送っていた。孫策は、彼に出仕するように命じ、会稽の丞の陸昭を使者として迎えに行かせると、自分は鄭重に礼を低くして接待する準備をした。高岱が『春秋左氏伝』によく通じていると聞いて、孫策自身もそれを精読して、彼と一緒に議論をするつもりであった。しかし、ある者が孫策に言った。「高岱は将軍さまが武勇一点ばりで、学問の才はないと考え、心中ひそかに軽んじております。『左伝』を論じて、彼が分からないとお答えすることがございましたら、私の申し上げますように考えている証拠でございます」。一方、高岱には次のように言った。「孫将軍のご性格は、自分より勝るものを好みません。もしお尋ねがあったときには、いつも分かりませんと答えられれば、お気にめします」。高岱はもっともだと考え、孫策が『左伝』の議論を持ち出したとき、ときどきは分かりませんと答えた。孫策は腹を立て、彼を獄につないだ。知人交友のほか一般の人々までが、みな高岱の釈放を請願した。孫策は高岱が人心を得ていることを心よからず思い、彼を殺してしまった[16]。
 獄につながれた高岱に対して、人々は請願書を出すが、孫策は逆上して高岱を殺してしまう部分が、于吉を殺す場面とよく似ている。

 また、『三国志・公孫{王+贊}伝』の注にある『典略』に、公孫{王+贊}が劉虞を殺す場面があるのだが、これも于吉の最期を連想させるものである。『典略』も残念ながら閲覧できなかったため、『三国志1』を参考に、その記載を以下にまとめる。

異民族に対して融和策を採っていた劉虞は、強硬派の公孫{王+贊}と対立する。公孫{王+贊}は劉虞を捕らえると、縄で縛って市場に晒し、「おまえが本当に皇帝の器ならば、雨が降って助かるだろう」と言う。しかし、季節は夏で雨はまったく降らず、結局、劉虞は処刑された[17]。
 こちらは、捕らえた劉虞に雨を降らせようとするところが、于吉に対するそれを思わせる。はたして高岱や劉虞が『江表伝』、『捜神記』に見られる于吉のモデルであるかどうかは定かではないが、その可能性は十分に考えられる。

 では、孫策の死を于吉の死と関連させた理由はなぜであろうか。市川氏は次のように考察している。
この亡霊譚は、孫策の暗殺事件を脚色するためにことさらおどろおどろしく創られたようだ。蜀びいきで有名な作者、羅貫中は、魏や呉の名将たちをおとしめることによって、蜀の英雄たちをことさら持ち上げようとしたのではないだろうか[20]。

 ところで、なぜ羅貫中は蜀を贔屓したと言われるのか。この問題には、中国王朝の正統性の問題が関連すると考えられる。三国時代、中国には事実上、曹操、劉備、孫権の三人の皇帝が同時に存在していたことになる。曹操は魏、劉備は蜀、孫権は呉と、三国はそれぞれ別の国家であり、それぞれ固有の年号を用いていた。ここに、正統性の問題が生まれる。竹内康浩氏の言葉を以下に引用する。

中国には古くから、「天に二日なく、地に二王なし」という言わば信念があって、同時に三人の皇帝が存在するなど、本来あってはならないことであった。一方、たとえ国が分裂していようと、開闢以来、脈々と伝えられて来た由緒正しい「天下人」たる資格は誰かに必ず受け継がれているはずである、というこれまた信念もある。となると、魏・呉・蜀の三人の皇帝のうち、誰か一人は正しい皇帝であり、残る二人は偽の皇帝ということになる[19]。
 このような考えによって、三国のうちのひとつを正統とする必要があった。『三国志』において、著者である陳寿は、曹操の魏を正統であるとした。その理由を竹内氏は、時代的制約と個人的制約によると指摘している。
陳寿は晋の時代の人である。その晋は司馬氏が魏王朝から位を奪って建てた王朝である。陳寿にとっては、その中に自分が生きている(そして仕えている)晋王朝が正統なものであるとする必要があり、そのためには先立つ魏(晋はその後を継いだ)が当然、正統でなければならない、という理屈に当然なる[20]。
 一方、『三国志演義』は劉備の蜀を正統としている。これは、蜀の初代皇帝劉備が漢王室の末裔であるということを根拠としている[20]。

 中国語の「悪」には二つ意味があり、一つは悪い、もう一つは強いであるという[21]。「善」にも二つ意味があり、こちらは一つは良い、もう一つは弱いであるという[22]。『三国志演義』での曹操は、これに従ってまさに強く悪い英雄として誇張され、劉備は弱く優しい英雄として誇張されている。劉備が弱さを、蜀の武将たちが補う形がとられており、そのぶん魏や呉の武将は損な役回りをさせられることが多い。本稿において、以降このように蜀を贔屓し、魏や呉を貶めることを、『三国志演義』の武将、謎について研究した『三国大観』に倣って、「揚劉抑曹」という言葉で表現することとする[22]。

 于吉の話に戻れば、市川氏の主張は、孫策に于吉を殺したという汚名を着せることによって、孫策のイメージを悪くし、それによる「揚劉抑曹」効果を狙ったということになる。
 一方、朱華氏は次のように考察している。

至于孫策之死、即肯定同于吉无関。史書対此有明確的記載。(中略)大概因為這个情節很有戯劇性、≪捜神記≫等書便在這面鏡子中平空加進了于吉的鬼臉。這≪捜神記≫等書便在這面鏡子中平空加進了于吉的鬼臉。樣、残殺道士的孫策便得到了報應、而道教的法力无辺、也由此得到了進一歩的験証[23]。
 孫策の死と于吉の死は関係がない。しかし、孫策が鏡を見て、自分を嘆き、傷口が裂ける場面は非常にドラマ性がある。そこで『捜神記』などの書は、そこになんの拠り所もなく、鏡に于吉の顔を加えた。これによって、孫策は道士を惨殺した報いを受けることとなり、方術のすさまじさを明らかにするのである。

 もともとドラマチックであった孫策の死を、さらに劇的に変えるとともに、身をもって方術の威力を示してみせたというのである。

 朱華氏は孫策について、以下のように考察する。

不幸的是、可能因為対江東的開拓太順利了。這位少師逐漸養成了極度唯我独尊的杯脾気[24]。

不幸にも、彼は江東の地の恵みを受け、若くして父、孫堅の位を継いだので、唯我独尊的な気性に育ってしまった。わがままで短気な気性を孫策の欠点としているのである。

 同様に、『三国志演義』第二十九回において、曹操の謀士、郭嘉も孫策のこのような性格について、「軽率で無謀、短期で計画性はなく、いわゆる、匹夫の勇にすぎない。将来、きっとつまらない人間の手によって殺されるだろう」と評している。

 『三国志演義』第十五回で、劉{謠-言+系}の軍と交戦中、孫策は敵の陣営を探りに行くことを提案する。武将たちはそれはまずいと反対したが、孫策は聞かない。この場面には、孫策の無用心で自分勝手な一面がうかがい知れる。

 母親や配下の将たちの制止も聞かずに于吉を殺してしまったことは、このような気性による過ちであろう。感情に流されて于吉を殺したことで、孫策はその未熟さを露呈してしまった。一方、于吉は怨念ともいうべき不思議な力で孫策を精神的に追いつめた。于吉の登場は、その軍事的才能から「小覇王」とまで称された孫策の短所である唯我独尊的な気質を強調し、読者の彼に対するイメージをダウンさせるとともに、仙人、道士の術の強大なる力を示している。

ところで、『後漢書・襄楷伝』には干吉という名が登場する。

順帝時、琅邪宮崇詣闕上其師干吉於曲陽泉水上所得神書百七十巻、(中略)號太平精領書[25]。

順帝のとき、琅邪の宮崇が宮廷に参内し、師である于吉が曲陽の泉のほとりで手に入れた、『太平清領書』という百七十巻の神書を献上した。

 ただし、この『太平清領書』を弟子に与えた干吉(于吉)が『三国志演義』で孫策に殺される于吉と同一人物であるかどうかは疑問視されている。林田慎之助氏は以下のように考察する。
于吉が殺された建安五年に隔たること七十五年まえが順帝の治世にあたる。そうすれば于吉は百歳にちかい寿命を保っていたことになる。それで、これは別人の于吉だとするだという説もあるが、江南の地方で于吉という同姓同名の人物が符水をつくって人の病を治していたとあるから、山東の于吉と同一人物であったか、あるいはその術を受け継いだ者が于吉と称して同じやり方で信者を集めていたのだろう[26]。


第三章 左慈と曹操

 左慈が登場するのは第六十八回である。

その頃曹操は「魏王」に昇進し、魏王宮が建てられ、後継ぎも曹丕に決まり、まさに絶頂期を迎えていた。そこに水をさすように登場するのが左慈である。曹操は全国各地から珍しい花や果物を集めさせた。これを受け、孫権は大きな蜜柑を献上することした。運搬人が荷を運んでいると、左慈が現れ、これを手伝った。不思議なことに左慈が担いだ荷物は軽くなっていた。曹操が蜜柑を剥いてみると、なぜか中の果肉がない。だが左慈が剥いてみると中身はある。曹操は驚き、肉と酒でもてなしたが、左慈は酒五斗飲んでも酔わず、羊一頭分の肉を食べても満腹にならない。左慈の話によると、彼は嘉陵郡の峨嵋山で三十年の修行の末、『天遁』、『地遁』、『人遁』の三巻からなる『遁甲天書』を得たという。上巻『天遁』には雲に乗り風にまたがって空中を飛行する術、中巻『地遁』には山をくぐり岩を突き抜ける術、下巻『人遁』には身を隠したり変身する術、剣をとばし刀を投げて、人の首をとる術について書かれているそうだ。左慈は曹操に後は劉備に任せて自分の弟子になるよう説く。曹操は激怒し、左慈を劉備の使者だと疑い、捕らえて拷問にかけるが、左慈は痛がる様子はまったくなく熟睡している。枷も鎖も外されてしまい、七日間飲食させなかったが平気であった。曹操が官僚たちと宴をしていると、そこに悠然と左慈が現れる。宴の席に足りないものはなんでも揃えると言うと、曹操の要求に応えて、白い壁に筆で一頭の龍を描き、その腹から龍の肝を取り出したり、植木鉢に水をかけ、二輪の牡丹の花を開かせたり、釣竿で正堂の下の池から松江の鱸魚を釣り上げたり、金の鉢に蜀の紫芽薑でいっぱいにしてみせたりと次々と驚くべき術をしてみせた。さらに盃の水を二つに仕切り、その半分だけ飲んだり、盃を鳩に変えたりした。左慈がこの隙に出て行ったので、曹操は左慈を殺すよう配下の許{衿-今+者}に命じるが、歩いている左慈にどうしても追いつけない。羊の群れに紛れたので許{衿-今+者}は羊を全て殺し、あきらめて立ち去った。羊飼いの少年が泣いていると、左慈が現れ、死んだ羊をすべて生き返らせて姿を消した。曹操が左慈の似顔絵を描かせ指名手配すると、このような姿の老人が三、四百人も逮捕された。曹操が彼ら全てを斬殺すると、斬りおとされた首から青い煙が立ち、大空で集まって左慈の姿になった。曹操は左慈に向けて矢を射させたが、突風が起き、すべての死体が自分の頭を手に曹操に襲いかかってきた。曹操が気絶すると屍は消えた。結局、左慈は曹操を散々弄んだあげく、さっそうと姿を消してしまうのである。


 これらがすべて羅貫中による創作であるかといえば、そうではない。正史を見ると、『後漢書・方術伝』には左慈の伝があり、その方術が記されている。曹操の要望に応えて松江の鱸を銅の水盤から釣り上げて献上したり、蜀の生薑を短時間で持ち帰ったり、羊の群れに紛れ、羊に姿を変えていたりと、『三国志演義』のものとよく似た、不思議な術の数々を披露している。[27]

 では、『三国志演義』での左慈の登場は何を意図したものであったのか。市川氏はその理由を、次のように考察している。

左慈の登場は、曹操の不吉な死を予感させる。迷信などの非合理的なものを嫌った、それを信じなかった奸雄・曹操の死に、左慈を登場させ、翻弄したかったのではないか[28]。
 左慈によって、曹操は翻弄され、体調を悪くするのだが、続く第六十九回、占い師の管輅によってそれは快方に向かう。つまり、左慈は曹操の死の直接的な原因としては描かれていない。迷信を嫌う、合理主義者の曹操が、非合理的な方術に打ち負かされたということは、なんとも皮肉である。『三国志演義』での曹操の死は、梨の木の精の呪い、英雄、関羽の死、神医、華佗の死などと関連付けられている。今回、左慈の前で曹操が無力であったことは、いかに軍事の才がある曹操であっても、方術という超常現象にはまったくかなわないということを明らかにしている。以上の点からいえば、非合理的な妖術を使う左慈の登場は、非合理的な理由付けによって、それらを嫌った曹操が死ぬという皮肉的な運命の伏線となっているという考え方は、決して間違いではないだろう。

 一方、趙剣敏氏は、その理由を次のように考察する。

左慈的出場、正是曹操功業輝煌、最躊躇満志的時候、他挟制漢献帝封他為魏王、建立王宮、議立世子、完完全全地構造曹氏朝廷権力延続系統。他這完完全全地構造曹氏朝廷権力延続系統。他這樣作、天下輿論拿他没辯法、劉備拿他没辯法、孫権拿他没辯法、他自己陣営的反対者也拿他没辯法、大臣荀{或+彡}反対被殺、崔{王+炎}反対被殺。曹操這樣作、人神共憤、人拿他没辯法、神出現了、這个神就是左慈[29]。

左慈が登場するのは、曹操の事業の最盛期であり、天下には彼を悩ませるものはなかった。劉備にも孫権にも、彼を倒す程の力はない。曹操は自分に反対するものは配下であろうと処分した。このような曹操に、人も神も憤ったが、彼を困らせる方法がない。そこで神である左慈を登場させた。

 この時、曹操の事業は最盛期にあったというが、本当だろうか。

 この頃、曹操は魏王となり、王宮を建て、跡継ぎも決まり、政治は万事うまくいっていたようだ。また、第六十七回で張魯を破り、漢中を平定したことで、軍事面においても曹操の勢いはとどまるところを知らない。その上、曹操の残酷な一面が顕著に見られる頃でもある。第六十一回で、曹操を魏公に就けようとした家臣たちに対して反対した荀{或+彡}は、曹操に疎んじられ、自殺に追いやられた。荀{或+彡}はかつて曹操に、高祖の謀臣、張良に例えられたほどの人物であった。それと同様に、第六十六回、曹操を魏王にしようという動きに反対して処罰されたのが崔{王+炎}であった。荀{或+彡}の甥、荀攸もまた優秀な人物であったが、やはり曹操が魏王になることに反対し、曹操の反感を買ったことで病を患い、病死してしまう。同じ第六十六回で、献帝は伏后とその父、伏完とともに曹操を倒そうとクーデターを計画するが、未然に露見してしまい、伏后、伏完およびその家族は殺されてしまった。もはや配下だけではなく皇帝ですら、曹操を止めることはできなくなっていた。

 以上を見れば、曹操が最盛期であったというのも納得できる。しかも、注目すべきことは、そのような状況にあったためか、あれほど良い人材を好んで集めた曹操であったのに、名参謀の荀{或+彡}までも殺してしまっていることである。ここにおいて、曹操の残忍性が、広い視野で損得を考える現実主義的性質を凌駕してしまったのかもしれない。

 このような背景を見れば、趙剣敏氏が述べる、曹操を苦しめることができるのは仙人である左慈しかいなかったという考察も、充分に的を得ているといえよう。やりたい放題であった曹操が、左慈の登場によってさんざん弄ばれる。これはまさに、「揚劉抑曹」の顕著な例であるといえよう。

 また、趙剣敏氏は、次のようにも述べる。

作者最着力的筆触、是写左慈遭到曹操通緝。通緝令上写着:捉拿一个一眼瞎的、一足跛的、戴白藤冠、穿青懶衣、登木履的先生模樣的人。三日之中、竟然出現了三四百个這樣的人。曹操将他們全部斬首、結果尸首的頸腔内冒出青気、化為左慈、痛驚他;尸首提着頭、来打他。這是作者的伏筆:反対奸雄曹操的不僅是左慈、而是晋天下之人;殺了一个左慈、還会冒出更多的左慈;左慈是殺不完的、天下人也是殺不完的[30]。

作者が最も描写に力を入れたのは、左慈が曹操に指名手配されるところである。三、四百人もの左慈の分身は、斬首されても復活する。奸雄、曹操に反対しているのは左慈だけではなく、晋代の人たちでさえもそうであった。一人の左慈を殺したとしても、左慈が完全に死ぬことがないように、天下の人を一人殺したとしても、天下の人々を完全に殺すことはできない。

 曹操はこれまで、民衆から配下、后、義父をも含むたくさんの人々を自らの判断基準によって殺してきた。

 このように、自分の思い通りにならない人間は排除することで、人々を支配してきた。しかし、このような支配の仕方では、人心を掴めないことは明らかである。不死身の左慈は、曹操に反感を抱く民衆を根絶することはできないという象徴であり、読者に希望を与え、善行を勧めているのである。
 

第四章 管輅

 管輅は『三国志演義』の第六十九回に登場する。

 管輅は『易』に通暁した占いの名手で、第六十八回で左慈に翻弄され、体調を崩していた曹操は、管輅を招き、得意の占いで左慈について占わせた。管輅が「これはたんなる幻術ですから、ご心配にはおよびません」と答えると、曹操の体調はそれ以降快方に向かっていった。管輅はまた、呉軍の魯粛の死(呉の将の一人が死ぬとだけ言っており、個人名は挙げていない)、蜀軍の侵攻、許都での火事、魏軍の夏侯淵の死(個人名は挙げていない)も予見している。

 また、許芝という人物が曹操に管輅を紹介するのであるが、そこで管輅の数々の方術が挙げられる。

 郭恩という者の兄弟三人がそろって足が動かなくなる病気にかかった。管輅はこれを占い、それが伯母もしくは叔母の霊によるものだと判断した。
 信都県(河北省冀県)の県令の妻がいつも頭痛に悩まされ、息子も胸痛に悩まされていたが、占いによって座敷の西に二人の男の死体があるためだと分かり、病気は全快した。
館陶(河北省館陶県)の県令の諸葛原が新興(山西省忻州市)太守に栄転したとき、管輅はその歓送会に出席した。燕の卵、蜂の巣、蜘蛛の三つが別々に三つの箱に入っているのを、管輅はすべて言い当てた。
 郷里の老婆が牛をなくした。管輅が占うと、「北の谷川の岸辺で、七人の者が料理している」と言い当てた。老婆は本郡(平原郡)の太守の劉{分+郁-有}に訴えたので、男たちは処罰された。劉{分+郁-有}は管輅の占いを信用せず、彼を役所に呼び寄せ、印嚢(印章を入れる袋)と山鶏の羽根を箱の中に隠して、占わせた。管輅はこれも言い当てたので、感心して上賓としてもてなした。
 ある日、管輅が郊外を歩いていると、趙顔という若者が田を耕していた。管輅は趙顔をしばらく眺めてから、立ち止まり、「眉間に死気があり、三日以内に必ず死ぬ」と忠告した。趙顔が父とともに禍を祓ってもらえるよう懇願すると、管輅は「明日、酒一瓶と鹿の乾し肉一塊を持って南の山へ行くと、二人の人物が碁を打っている。彼らの碁の勝負が佳境に入った隙に、跪いて酒と鹿の乾し肉を進めなさい。飲食が終わってから泣きながら平伏して寿命がほしいと懇願すれば、きっと寿命を延ばすことができる」と説明した。管輅の言に従うと、はたして二人の人物がおり、帳簿の十九という数字を上から九十九に書き加えると、白鶴と化し、大空へ飛んでいった。管輅の話によると、この二人の人物とは、北斗と南斗であったという。
 第百六回において、管輅は何晏に招かれた際、占いによって彼の没落を予知し、注意を促すが、嘲笑されてしまう。はたして管輅の言うとおり、その日の晩に、何晏は司馬懿のクーデターによって命を落とす。

 以上が『三国志演義』に見られる管輅の方術の記載であるが、こちらにもたくさんの伝記が記されている[31]。 同様に、『三国志』においても、管輅に関するエピソードはたくさん紹介されている。

  一方、『捜神記』にも管輅の名前は連ねられている。ここには、顔超の延命、県令の妻子、郭恩三兄弟のエピソード、が綴られているので、羅貫中はこれを採り入れたと思われる[32]。

 さて、方術に注目すれば、管輅の方術は、占いとは言っても、1未来を予見するもの、2現在時においての真実を言い当てるもの、3原因を過去に究明するものの三つに大別することができる。例えば現代社会でよく見られる星占いや手相占いは、たいてい1に分類されるといってよい。未来について占うことが一般的である。これは、過去、現在、未来を比較したときに、未来は占われる当人にとってもまだわからないものであるから、占い師にとって、最もリスクが少ないという考え方からではないかと思われる。一方、管輅は未来について占う1だけでなく、現在を占う2、過去を占う3をも行い、その上それらはすべて的中している。

 具体的に見ると、1に該当するものは、魯粛の死、蜀軍の侵攻、許都での火事、夏侯淵の死の予見、趙顔の寿命の予知、北斗、南斗がいることの予知、何晏の死の予知、2に該当するものは、諸葛原の三つの箱の中身の透視、老婆の牛の所在を当てる、劉{分+郁-有}の箱の中身の透視、3に該当するものは、曹操の病状の診断、郭恩三兄弟の診断、県令の妻子の診断が相当する。

 管輅の方術は、左慈のそれのように、非常に多く『三国志演義』に登場する。方士の管輅が『三国志演義』でこれほどまでに数多いエピソードを残す理由について考察したい。
王維堤氏と唐書文氏は、以下のように考察する。

他主要活動是在曹丕称帝之後、从未与曹操打過交道、也从未作過上述両个預言。羅貫中信手把彼拈来、譲他在曹操面前大顯本領、又妙筆生花地加進了両个預言、和当時的政治事件巧妙地配合起来、譲読者読得津津有味[33]。

管輅の主要な活動は曹丕が皇帝を名乗った後であり、曹操との交流はなく、二つの予言(許都の火事と夏侯淵の死)ともなかった。羅貫中は彼を曹操のもとで大いに活躍させ、二つの予言を加え、巧みに当時の政治事件を交えることで、読者の興味を引いた。

 羅貫中の狙いは、管輅に活躍の場を与えることで、読者の興味を引くことであったと考察している。管輅の方術に関しては、これまでと異なり、「揚劉抑曹」の効果は見られない。曹操が管輅を自軍に引き入れようとする、有能な人材を好む一面が見られるのみである。

 神仙である左慈によって体調を悪くした曹操を回復させるには、どうしても道士の力によらなければならなかったのかもしれない。そうでなければ、神仙、神仙術の崇高さが失われてしまうからだ。後の第百六回で、管輅という占いのスペシャリストが登場するという好材料を得て、羅貫中は彼を巧みに利用する。管輅は、左慈の登場によって正史から少しずれた物語を、見事に軌道修正する役割を果たしたのである。

 こうして物語の修正をすべく管輅が登場するのであるが、これまでを見てもわかるように、羅貫中は裴松之の注に引く文献から異聞を取り入れることを非常に好む傾向がある。許芝が曹操に管輅を紹介する場面で、この好材料を使わないのはもったいないと考え、ふんだんに異聞を採り入れたのであろう。
 

第五章 華佗

一.正史における華佗

 華佗は方術を使う仙人や方士ではなく、医者である。それにもかかわらず、彼は『後漢書』において、仙人である左慈同様、『方術伝』にその名が挙げられている。また、『三国志・魏書・方技伝』にも列伝が立てられている。

 医術も仙人にとって大切な要因の一つである。ただし、ここでいう医術とは、疾病の治療を直接の目的としたものではない。道士の修行法である、辟穀、服餌、調息、導引、房中などを指している。華佗は治療に長けていただけでなく、導引術にも詳しかった。これが華佗を方士として扱う理由の一つであろう。
『後漢書・華佗伝』では華佗と彼の医術を次のように紹介する。

華佗は沛国{言+焦}県(安徽省亳県)の人で、徐州(江蘇省徐州府から山東・安徽にかけて)遊学した。数種類の方術に通じ、不老長生の法に精しい。年は百歳近いが、容貌はまだ壮者と変わらない。時の人は仙人だと思った。沛国の相陳珪は老廉に推挙し、大尉の黄{王+宛}も招聘したが、いずれにも就職しなかった。薬の処方に精通し、目方をそらで見分けて、秤を用いる要はない。針や灸は、数ヶ所だけ。もし病原が内臓にあり、針でも薬でも届かぬとなれば、まず酒で麻沸散(大麻から取った麻酔薬)を服用させ、酔って知覚がなくなったところで、腹または背を切開し、病根を切除する。病原が腸や胃にあれば、切断し、洗滌して、悪い部分を除去する。そのあと縫合して、よく効く膏薬を塗る。四、五日で傷口は治り、一月でみな本復する[34]。
 これを見るに、華佗はその医術の技量や導引術の知識によってだけでなく、その年相応に思えない容貌からも仙人だと思われていたことがわかる。その神がかりな診断、治療は『後漢書・華佗伝』、『魏書・華佗伝』に数多く記されている。

 以下は、『後漢書・方術伝』に見られる、弟子に運動の有意性を説く部分である。

華佗は彼について学んだ呉普に対して、「運動することによって穀物の気は消化され、血脈はよく流通し、病気は起こりようがない。ちょうど戸の枢がいつまでも錆びつかないのと同じである。」と、実に道理にかなった説明によって、運動の重要性を説いている。また、五禽の戯という術を勧めている。詳しい記載はないが、昔の導引に当たるもので、病気をなくし、足を達者にするものであるようだ。これを実行した呉普は、年九十余りで、耳も目もはっきりしており、歯も揃って丈夫であったという[35]。
二.華佗と周泰

 『三国志演義』において、華佗は周泰、関羽、曹操らの治療に当たっている。
周泰の治療は第十五回にある。

孫策軍の将、周泰は宣城を守っていたところ、山賊の奇襲を受け、身に十二箇所もの刀傷を負い、傷口が腫れ上がって、瀕死の状態に陥った。虞翻の紹介でやってきた華佗は、周泰の傷の診察を了承すると、薬を投与し、一ヶ月で完治させた。孫策は大いに喜び、華佗に厚く謝礼を与えた。
 この周泰の治療は、『三国志演義』の創作である。ここでの華佗に関する描写は、非常に簡単なものにすぎない。周泰は、後の第六十八回でも身を挺して孫権を庇い、体中に傷を負っている。今回の華佗の登場は、重体の周泰を治すことで読者に華佗という存在を印象付けることと、周泰の二度目の負傷に対しての伏線の意味合いが強いと考えられる。

三.華佗と関羽

 関羽の治療は第七十五回である。

関羽は樊城をめぐる曹仁との戦いで右腕を負傷してしまった。そこに華佗が現れ、治療法をこのように説明する。静かな場所に柱を一本立て、上に大きな輪を釘付けにする。その輪に関羽の腕を通し、縄でしっかりとくくりつけ、関羽には布団をかぶってもらう。小刀で皮と肉を切り裂いていき、骨まで達したところで、骨の矢毒を削り取り、薬を塗りつけてから、糸で傷口を縫い合わせ、終了とする。華佗は関羽が怖がるのではないかと心配するが、柱や輪など要らないと言って、酒宴の席を用意させ、酒を飲み、肉を食らい、碁を指しながら治療を受けた。周囲の者たちはみな真っ青になって顔を手で覆ったが、関羽は談笑しながらまったく苦痛の色を見せなかった。治療の後、関羽は華佗を真の神医だと称賛すると、華佗も関羽を真の天神だと称賛した。
 『三国志・関羽伝』には確かに腕の治療に関する記載があるのだが、治療した医者の名前は登場しない[36]。しかし、それが華佗ではないということは確かである。正史において、曹操は息子の曹沖が危篤に陥った時、華佗を殺してしまったのを悔やんでいる[37]。曹沖の死が二百八年であるから、華佗の死はそれよりも早い時点であることがわかる。一方、関羽が腕を負傷する樊城の戦いは二百十九年。つまり、関羽が腕を負傷した時点では、既に華佗はこの世にいなかったのだ。

 では、羅貫中はなぜ華佗に関羽の治療をさせる必要があったのか。章義和氏は、次のように説明している。

羅貫中請来死人為活人看病、是有其用意的。華佗是東漢末年的名医、有很多疑難雑症、験之若神他都能妙手回春験之若神。譲他給関羽作這樣復雑的手術、増加了作品的合理性。更重要的是作者想借華佗的身{イ+分}来{火+共}托関羽的英雄形象。関羽是深受天下人仰慕的人物、他的受傷為世人所関注、所以神医華佗自動从江東{走+干}来為他医治、不肯収取分文報酬。当華佗刮骨時発出声響、周囲人皆掩面失色、関羽却飲酒{亦+升}棋、談笑風生。這種鋼鉄般堅強的意志、令華佗也驚嘆不已[37]。

関羽に対しての治療は、とても複雑で困難なものであった。そこで神医と称される程の腕を持つ華佗を登場させることによって、作品の合理性を増しているのである。また、関羽は人々に深く敬われている人物であるため、彼が腕に負った傷も、必然的に注目が集まってしまう。そこで当代一の名医であった華佗に関羽を治療させる。痛々しい手術の描写に対して、関羽は痛がるそぶりも見せず、堂々とした態度で酒を飲み、碁を打ちながら笑っている。これによって関羽の英雄像はより輝きを増すのである。

 困難な手術であったため、華佗を登場させたと考察に関して、先に紹介したように、『後漢書』、『三国志演義』には、華佗の神医と称されるにふさわしいだけの医術の腕が著されている。彼の医術は当時、一番であると考えられていたのだから、彼が治療することによって、困難な手術の成功を合理化しているという考察は、正しいと考えられる。

 次に、華佗が治療に当たったことで、関羽の英雄像をより際立たせるという考察について。当代最高の医者が治療に当たるということで、関羽に対する読者の注目度も増す。その上、神医と称される華佗に、天神だと評されたのだから、最高の賛辞といってもいいだろう。よって、こちらもまた説得力のある考察である。

 また、関羽の治療は第七十五回であったが、関羽は第七十六回で曹軍の徐晃に敗れ、第七十七回では孫権の軍に生け捕りにされ、殺されてしまう。実は、これは羅貫中によって、華佗による関羽の治療が関羽の死の直前へと時代を移して描かれているのであり、正史とは異なる。これについても、章義和氏は次のように説明している。

人們很容易想到、関羽抵{手+當}不住徐晃的進攻、不是関羽斗不過徐晃、乃是臂傷未癒所至。這樣、関羽尽管吃了敗仗、但他所向无敵的本領、併不会受到任何懐疑[38]。

関羽は手術から間もなく、腕の傷は完治せず、本来の力が出しきれなかったため、徐晃に勝つことができなかった。このように読者に思わせることで、羅貫中は死んでしまってもなお、関羽の向かうところ敵なしという屈強な豪傑であるイメージを守った。

 「揚劉抑曹」の影響もあってか、関羽は義を重んじ、情けに弱いというキャラクターが確立され、中国での人気も高かった。関羽の人気が高かったことの根拠として、関羽の社会的地位の変遷に触れた、二階堂善弘氏の言葉を取り上げる。
多くの英雄たちが活躍する三国物語の中でも、関羽はその圧倒的な武勇と無比ともいえる忠誠で、ひときわ目立っていて、関羽の活躍する場面は数多くあります。『39』三国の時には蜀漢の皇帝後主(劉禅)によって「壮繆侯」に封じられ、その後は何百年も追贈がなかった関羽ですが、宋代には「崇寧真君」という地位に封じられます。さらに元の時代には関羽は安王安王安王「義勇武」と呼ばれます。(中略)ここに来て、関羽は「王」の地位に昇ったわけです。さらに明の時代になると、関羽への信仰はどんどん強まっていきます。このころから、「関公の神助により」という記録も多くなってきます[40]。
 明代には神という言葉も使われていた関羽であったから、すでに彼の地位は相当なものであった。これ程までに人気のあった関羽であるから、羅貫中も彼に対して、死の際まで気を配らなければならなかったに違いない。その点において、羅貫中の処理は非常に効果的である。

四.華佗と曹操

 華佗と曹操の話は第七十八回にある。

関羽の死後、曹操は度々関羽を夢で見るようになっていた。その上、宮殿を建てるために切り倒した梨の木の精の夢にもうなされる。それ以来、曹操は治すことのできない頭痛を患うようになった。配下の薦めで華佗が招かれ、治療法を次のように説明した。曹操に麻肺湯を飲んでもらい、鋭利な斧で頭を切開し、風涎を取り出すことで病根を取り除く。これを聞いた曹操は激怒し、華佗を劉備の刺客と考え、拷問した。華佗は獄中にて死亡した。これ以降、曹操の病状はますます悪化した。
 しかし、正史での華佗の死因はこのようではない。『後漢書・華佗伝』には次のように記されている。
曹操は頭がしびれ、めまいがする病気を患っていたが、華佗が針を打つと一時的に良くなったので、いつも華佗を側に置いた。だが、華佗は生まれつき不自由な境涯を嫌っおり、医者として自分の術を現すことを恥じていたようだ。その上、郷里を遠く離れており、帰りたいとも感じていた。そこで曹操に、家へ帰って処方箋を取ってきたい、と願い出た。帰ったついでに、妻が病気だと称して、数年間戻らなかった。曹操は何度も手紙をやってよび、所轄の郡県に華佗を送り出すよう命じた。華佗は腕に自信があるので、曹操に仕えることを嫌い、戻ろうとしない。曹操は激怒した。使者に調べさせると、華佗の妻は仮病だとわかった。そこで華佗を逮捕して訊問すると、動かぬ証拠があり、白状した。曹操の参謀格、荀{或+彡}の制止も聞かず、結局、曹操は華佗を殺した[41]。
 では、華佗の死因をこのように書き換えた意図はどのようなものであったのか。章義和氏は次のように説明する。
羅貫中之所以這樣写、是有其用意的。華佗那个時代、医学還没有発展到開顱治病的地歩、就是在羅貫中生活的那个時候、也没有達到這个水平。言下之意、曹操是位奸雄、殺了不少好人、理應受到{石+欠}頭的懲罰。利斧開顱、這不就是殺不得的![42]

後漢時代、医学はさほど発展しておらず、頭蓋を開けるという治療法に関していえば、羅貫中の時代でさえもこの水準に達していなかった。曹操はたくさんの人々を殺してきているから、その報いを受けるべきであり、斧で頭を切開するとはまさに首をはねるということと同意である。

 つまり、今まで曹操がたくさんの人々の首をはねてきたことの対比させるため、曹操は頭を切開されることになるというのだ。

 曹操は治療を拒み、華佗を投獄し死亡させたが、それ以降、曹操の病状はさらに悪化し、同じく第七十八回で死亡する。これは華佗を殺した報いである、とも言えよう。

 また、ここに関羽の治療を比較材料として挙げれば、その意図が容易に想像できる。関羽と曹操、どちらに対しても華佗はまず治療法を説明する。それを受け、華佗を完全に信頼し、道具さえも必要ないと言う関羽。それに対して、自分を殺そうと謀っていると疑念を抱き、殺してしまう曹操。これによって、関羽の英雄像を引き立たせるとともに、曹操の他人を信頼せず、残酷な一面をより際立たせていると考えられる。

 ただし、もちろん曹操の態度を慎重だと見る視点もあるだろう。『三国志演義』第二十三回で、医者である吉平が、曹操を毒で殺そうと謀るが、計画がもれ、殺されてしまう。この点を考慮すれば、曹操の疑念は至極当然であり、イメージダウンにはならない。

 周泰、関羽、曹操、『三国志演義』において、三人とも同じ華佗という名医が治療にあたったからこそ比較の対象となり得るのである。この点において、羅貫中の工夫が果たした役割はとても大きい。
 

おわりに

 『三国志演義』において、作者とされる羅貫中は、『三国志』の大筋は変えることなく、裴松之の注に引く文献を積極的に利用することで、小説中においてさまざまな効果を与えようとしている。怪奇小説の中に、三国志の人物の異聞が多かったことは、その姿勢を助長している。

 私ははじめて『三国志演義』に触れたとき、その志怪的要素の強さに驚いた。序文で述べたようにリアリティを削り落としてまで、神仙という神秘的要素を加えたことに関して否定的にさえ感じたのだが、それは間違いであったのかもしれない。中国では、神仙や方術とは、広く庶民にまで普及した観念であった。そこには中国民族固有の考え方が基盤にあった。三国志物語は、民間の講談、芝居、戯曲などの大衆文化に起源を持つため、羅貫中は読者の目を無視できなかった。『三国志演義』を著す際、様々な異聞を取捨選択し、独自の改編を加えることは、さぞかし大変な作業であったに違いない。

 全体を通して見れば、やはり蜀を贔屓するために仙人、方士を採り入れている感が強い。しかし、左慈が現れたのが曹操の全盛時だったことが示すように、羅貫中は読者の目を強く意識している。そのため、後の伏線を張ったり、作品の合理性を高めたりといった工夫も怠らない。管輅のエピソードが数多く描かれていることは、羅貫中ができる限り多く異聞を採り入れようという態度の表れである。
 

[1]新村出 編『広辞苑 第五版』1385頁 岩波出版 1988

[2]前掲文献[1] 1529頁

[3]本田済、沢田瑞穂、高馬三良 訳『抱朴子・列仙伝・神仙伝・山海経』389〜391頁 平凡社 1969

[4]吉田賢抗『史記一』341〜342頁  明治書院 1973

[5]吉田賢抗『史記二』693〜694頁  明治書院 1973

[6]尾崎正治、平木康平、大形徹『抱朴子・列仙伝』148頁 角川書店 1988

[7]前掲文献[6] 148頁

[8]前掲文献[6] 148頁

[9]市川宏 監修『三国志 神仙と妖術の謎』14〜15頁 青春出版社 2001

[10]前掲文献[6] 150頁

[11]前掲文献[6] 157〜159頁

[12]前掲文献[6] 167〜169頁

[13]今鷹真、井波律子 訳『三国志3』24頁  筑摩書店 1977

[14]前掲文献[13] 25〜26頁

[15]長澤規矩也『和刻本漢籍随筆集』47〜48頁 汲古書店 1988

[16]前掲文献[13] 24〜25頁

[17]今鷹真、井波律子 訳『三国志1』235頁  筑摩書店 1977

[18]前掲文献[9] 138頁

[19]竹内康浩『「正史」はいかに書かれてきたか』89頁 大修館書店 2002

[20]前掲文献[19] 96頁

[21]金文京『三国志演義の世界』163頁 東方書店 1993

[21]前掲文献[21] 163頁

[22]何満子、趙剣敏、王維堤、唐書文、東雨、願静、江建忠、賀游、朱華、李殿元、章義和、完顔紹元、谷玉 著、金良年 主編

『三国大観』382頁  上海古籍出版社 1994

[23]前掲文献[22] 276〜277頁

[24]前掲文献[22]  125頁

[25]長澤規矩也『後漢書(二)』716頁  汲古書店 1972

[26]林田慎之助『人間三国志/民衆の反乱』149〜150頁  集英社 1990

[27]本田済 訳『漢書・後漢書・三国志列伝選』283〜284頁 平凡社  1968

[28]前掲文献[9] 116頁

[29]前掲文献[22] 88〜89頁

[30]前掲文献[22]  89〜90頁

[31]今鷹真、井波律子 訳『三国志2』259〜282頁  筑摩書店 1977

[32]前掲文献[15]  56〜58頁

[33]前掲文献[22]  81頁

[34]前掲文献[27]  277頁

[35]前掲文献[27]  279頁

[36]前掲文献[31] 378頁

[37]前掲文献[22] 327〜328頁

[38]前掲文献[22]  328頁

[39]二階堂善弘『中国の神さま』24頁 平凡社新書 2002

[40]前掲文献[39]  35頁

[41]前掲文献[27]  278頁

[42]前掲文献[22]  333頁