【鵜】
釈鳥に云ふ、「鵜は{夸+鳥}{睪+鳥}なり」と(1)。郭璞曰く、「今の鵜鶘なり。好んで群飛し、水に沈みて魚を食らふ。故に洿沢と名づく」と(2)。鵜は形鶚に似て大、人の足、其の鳴くや自ら呼ぶ(3)。頷下の胡大いさ数升の嚢の如し(4)。因りて以水を盛り魚を貯ふ。『淮南子』の所謂「鵜鶘は水を飲むこと数斗にして足らず、鱣鮪は口に入ること露の若くして死す」(5)とは是なり。蓋し魚は水中に生じて口水を納れず。顔之推曰く、「魚は水を咽まず」と。一名は淘河、一名は洿沢。『荘子』曰く、「魚は網を畏れずして鵜鶘を畏る」(6)と。鵜は智力を以て魚を取るを言ふ。故に魚は網を畏れずして之を畏るるなり。『詩』に曰く、「維れ鵜梁に在り、其の翼を濡らさず」「維れ鵜梁に在り、其の咮を濡らさず」(7)と。蓋し鵜の性群飛し、水に沈みて魚を食らふ。若し小沢に魚有るに遇はば、便ち各胡を以て水を去り、水をして竭くし、魚をして露にせしめ、乃ち共に之を食す。故に淘河、洿沢と号す(8)。則ち其の咮翼を濡らすは宜なり。今反て飽を梁に取り、其の翼を濡らさず。特に其の翼を濡らさざるのみに非ず、又且つ其の咮を濡らさず。故に詩以て小人其の力を食まず、功無くして禄を受くるを刺るなり。
[注釈]
(1)『爾雅』釈鳥。
(2)『爾雅』郭璞注の文。
(3)『山海経』東山経に「沙水、其の中{犂-牛+鳥}鶘多し。其の状鴛鴦の如くして人の足、其の鳴くや自ら{言+叫-口}ぶ」とある。
(4)陸璣の『毛詩草木鳥獣虫魚疏』に「頷下の胡大いさ数升の嚢の如し」(四庫全書本)とある。
(5)『淮南子』斉俗訓。諸子集成本では{鳥+弟}胡に作る。
(6)『荘子』外物篇。
(7)『詩経』国風・曹風・候人篇、第二、三スタンザの冒頭の二句。
(8)陸璣『詩疏』に「若し小沢中に魚有らば、便ち群して共に水を抒み、其の胡を満たして之を棄て、水を竭くし魚を尽さしめ、陸地に在りて乃ち共に之を食す。故に淘河と曰ふ」(四庫全書本)とある。
[考察]
鵜は日本では『新撰字鏡』以来ウと読み習わされているが、実はぺリカンである。リード(1932)は三種を記述している。すなわちPelecanus
onocrotalus roseus(モモイロペリカン)、P.crispus(ダルマチアンペリカン)、P.philippensis(ハイイロペリカン)である。鄭作新は中国で常見のものをP.philippensis(斑嘴鵜鶘)とする(『中国経済動物志―鳥類』)。
本文に語源の記載はないが、胡という言葉が使われている。胡はあごの下に垂れた肉の意味があり、ペリカンの場合はくちばしの下の袋を指している。また「弟」は「上から下に垂れ下がる」というイメージを示す記号(漢字の構成要素)に使われる。したがって鵜鶘はペリカンの形体的特徴をとらえた命名といってよい。またペリカンの異名に習性をとらえたものが多い。洿(=汚)澤は水たまりの意味で、餌を採る場所にちなむ。ペリカンは沿海のほか河川や湖泊に棲息する。陸璣によると、水をくみあげて袋に満たし、陸地で水を吐き出して魚を食うところから、淘河と呼ばれる。淘は「さらう、すくう」の意味である。
「魚は網を畏れず鵜鶘を畏る」という『荘子』の言葉が引用されているが、ペリカンは集団で魚を追い詰めて捕るというハンティングの習性があり、陸佃が「智力を以て魚を捕る」と言うのはこのことを指すのであろう。
『詩経』の解釈では、翼や嘴を濡らして魚を捕るのが当然なのに濡らさないのは、小人が功績もないのに俸禄を受けるのを風刺したものと、陸佃は見た。これは「小人を近づけるのを刺る」という序の説を敷衍するものである
『詩経』の候人篇は曹風に入っている。曹国は山東省の西南部にあった。鄭作新によると、現在ペリカンは北部には見られないという。しかし歴史的には華北から華南まで広範囲に棲息したといわれる(何業恒『中国珍稀鳥類的歴史的変遷』)。(加納)