【鷄】

 『塩鉄論』に曰く、「鷄は廉、狼は呑」と(1)。鷄は跑りて之れを食らはんとすれど、毎に擇ぶ所有り。故に曰く小廉(ⅰ)なる こと鷄の如し。『爾雅』に云 ふ、「鷄の大なる者は蜀、蜀の子は雓なり」と(2)。郭璞(3)曰く、「鷄大なる者蜀とは、今の蜀鷄なり。鷄、蜀魯荊越の諸種有り。越鷄は小、蜀鷄は大。 魯鷄は又其の大なる者なり」と。『荘子』に曰く、「越鷄は鵠卵を伏する能はざるも、魯鷄固より能くす」と(4)。成玄英(5)曰く、「越鷄は荊鷄なり。魯 鷄は今の蜀鷄なり」と。案ずるに韓子曰く、「魯鷄の期せざるは、蜀鷄にも支へず」と(6)。則ち玄英の所謂「魯鷄は今の蜀鷄なり」とは是に非ず。舊説に、 日中鷄有り、月中兔有り。按ずるに、鷄は正に西方の物なり。兔は正に東方の物なり。大明東より生ず。故に鷄之に入る。月西より生ず。故に兔之に入る。此れ 猶ほ鏡燈のごとし。西は東鏡に入るを象り、東は西鏡に入るを象ると爾云ふ。風雨の詩に曰く「風雨凄凄たり、鷄鳴喈喈たり」、「風雨瀟瀟たり、鷄鳴膠膠た り」、「風雨晦きが如し、鷄鳴已まず」と(7)。鷄の信度此の如きを言ふなり。秋氣惨にして凄凄たり、風雨此の如しは、則ち和する能はざるに疑ひ、秋物脱 して瀟瀟たり、風雨此の如しは、則ち能く固からざるに疑ふ。晦に嚮へば則ち君子入りて以て宴息するの時なり(8)。風雨此の如しは、則ち又已むに疑ふ。今 曰く、風雨凄凄たり、鷄鳴喈喈たり、風雨瀟瀟たり、鷄鳴膠膠たり、風雨晦きが如し、鷄鳴已まずと、則ち亂世の君子其の度を改めざるの譬ひなり。喈喈は、鳴 きて其の和を失はざるを言ひ、膠膠は、鳴きて其の固を失はざるを言ふ。『易』に曰く、「巽を鷄と為す」と(9)。兌見はれ巽伏す。故に鷄と為す。鷄時を知 りて善く伏するが故なり。故に曰く、「乳狗虎を噬らひ、伏鷄狸を搏つ」と(10)。又曰く、「伏鷄日に其の卵を抱く。伏して未だ孚らず、始めて化するの 時、之を涅と謂ふ」と(11)。王褒曰く、「魚は瞰し鷄は睨す」と(12)。李善以為へらく、魚目瞑せず、鷄邪視を好む(13)とは、此れ是を言ふなり。 『禽経』に曰く、「陸鳥は棲と曰ひ、水鳥は宿と曰ひ、獨鳥は止と曰ひ、衆鳥は集と曰ふ。水鳥は林棲より晩し。故に宿と曰ふ」と(14)。『説文』に云ふ、 「日西方に在りて鳥棲む。因りて以て東西の西と為す」と(15)。詩に曰く、「鷄は塒に棲む。日の夕べ」と(16)。鷄棲むを言ふなり。日是に於いて夕、 夕是に於いて月見はる。故に夕(ⅱ)は半月を象る。未だ蟾桂有らざるの状なり。月滿ちて則ち夜見はれ、半ばならば則ち夕に見はるるが故なり。故に曰く、朝 見を朝と曰ひ、暮見を夕と曰ふ。夕は曛晦の時に非らざるは明らかなり。呉均(17)曰く、「鷄は羣(ⅲ)を呼ぶの徳有り、鹿は苹を食らふの美有り」と。傳 に曰く、鷄食を見て相告ぐる者は仁なり。

  [校記]
(ⅰ)五雅本、「知」に作る。
(ⅱ)五雅本、叢書本「夕」の字なし。
(ⅲ)五雅本、「群」に作る。

   [注釈]
(1)『塩鉄論』褒賢第十九。
(2)『爾雅』釈畜第十九。
(3)郭璞は東晋の文学者。訓詁学者。陰陽卜筮の学を好んだ。東晋の初め著作侍郎となり、のち王敦に記室参軍に任じられた。「遊仙詩」「山海経注」「爾雅 注」などがある。
(4)『荘子』、桑楚第二十三。
(5)成玄英は、唐陝州の人。東海に隠居した。貞観五年、召されて京師に至り、永徽中、幽州に流される。『荘子』の注釈がある。
(6)韓愈『守戒』の文。
(7)『詩経』鄭風・風雨にの一~三スタンザ冒頭各二句。
(8)『易経』随の象伝に「沢中に雷あるは随なり。君子晦(ひぐれ)に嚮ふを以て、入りて宴息す」とある。
(9)『易経』説卦傳。
(10)『淮南子』巻十七説林訓に「乳狗の虎を噬むや、伏鷄の狸(ねこ)を搏つや、恩の加はる所、其の力を量らず」とある。
(11)『方言』巻三に似た文がある。
(12)『文選』王褒・洞簫賦の句。
(13)『文選』王褒・洞簫賦の李善注に「魚を瞑せず、鷄邪視を好む。故に喩を取る。瞰は視なり、睨は邪視なり」とある。
(14)『禽経』詩曠の著、張華の注とされるが、唐宗の間に彼らに仮託した書であろうという。本条は今本(『生活と博物叢書』所収)には見えない。
(15)『説文解字』巻十二上の西の条。
(16)『詩経』王風・君子于役の第一スタンザ。
(17)呉均は南朝梁の文学者。官は奉朝請にいたったが、勅許を得ずに『斉春秋』を著したため、梁の武帝の怒りに触れて罷免された。のちの勅命によって 『通史』を書いたが、未完のまま死んだ。文章は恬淡で古の風があり、「呉均体」としてまねる人もあった。

  [考察] 
 鷄の学名はGallus gallusである。中国名は鷄ji、和名はニワトリである。燭夜、鳩七咤といった異名がある。鷄の原種はセキショクヤケイであり、ヒマラヤ、インド、中 国、ミャンマー、タイなどの密林に生息する(『世界大博物図鑑―鳥類』)。中国では主に雲南省、広西省の西南部および海南島に分布する。

 セキショクヤケイは全長約60センチ。頭部にとさか、顎に肉垂を持つ。顔も喉も等しく赤色、頭と首の羽毛は鋭く、色は赤。上背、中背、下背を覆う羽はそ れぞれ金属光沢のある黒色、濃い暗紅色、紅橙色であり、下背を覆う羽は長く、矛のような形をしている。尾羽は紫色と緑色、飛羽は黒褐色、下体は黒色であ る。熱帯及び亜熱帯の密林の中と林境の田野の間に棲む。雑食で様々な植物の種や虫、小型動物などを食べる。鳴き声は「茶花両朶」と聞こえそのことから「茶 花鷄」とも呼ばれる。繁殖期になると地面の凹んだところに巣を作り、常にわずかな落ち葉や雑草などを敷き詰める。野生の鷄は家鷄の遠い祖先であり、そこに 人類が飼いならした野禽の一例を見ることができる(『中国動物図譜―鳥類』p.58)。

 中国における養鷄の歴史は古い。河北省武安県滋山で鷄の足の骨が、河南省新鄭県や西安半坡村でそれぞれわずかな鷄骨が出土している。これらの文化遺跡は 新石器中期のもの(今から六~七千年前)で、すでにこの頃から北方では養鷄が行われていた可能性がある。しかしその可能性を裏付ける鷄の頭蓋骨が発見され ていないため、確証されていない。考古学者や歴史学者によると、三千年以上前には養鷄が始まっていた。甲骨文字に見られる「彝」の字は一羽の鷄を両手で奉 げる形である。また鷄という字の「奚」は、爪と物を何かにつなぐことを表す二つの部分からできている。これは当時鷄の腿と爪を、縄を用いてくくりつけた状 態で飼育していたことを表す。当時の鷄はよく飛んだので、逃げるのをおそれたためであるようだ。これらのことが三千年以上前から鷄が飼いならされてきたこ とを示しているが、それはまだ馴化の初期段階である。また、出土品からも養鷄の事実を見ることができる。漢代の古墓から出土した銅製の酒壺の鷄は闘鷄のよ うである。先秦時代の歴史文献にも鷄に関する記述が多く、六畜の一つに挙げられている。養鷄の目的は、食肉のためだけでなく、『周礼』春官に鷄が時を告げ る道具として用いられていたことが分かる記載がある。また、闘鷄にも用いられた。闘鷄の歴史も長く、今から二千八百年前には闘鷄の飼育が始まっていた。 『列子』黄帝篇には周の宣王が闘鶏を養い四十日間訓練をさせたことが、『左伝』昭公二十五年にも闘鷄に関する記載が見られ、春秋時代、魯の国では闘鷄が権 勢を顕示するために用いられたことを示す。鷄は非常に古くから各地に様々な種類のものがいた。山東省の軍鶏、主に南方で産出する長鳴鷄、朝鮮半島からもた らされた長尾鷄などがある。(『中国養鷄史』p.8,19)

 野生の鷄は非常に臆病で人間を怖がる。特に視覚と聴覚に優れ、逃げる時に有利である(『中国経済動物誌 鳥類』p.192)。「鷄、邪視を好む」という 表現は鷄のこのような性質に由来するのかもしれない。また人間にだけでなく、自然現象にも敏感で、風が吹いて枝葉がざわついただけで鳴く。その性質は『詩 経』風雨の詩にも表れている。また、鷄(雄鷄)は木の上で休息を取る前に鳴く習性があり、それは「晦に嚮へば則ち君子入りて以て宴息するときなり」という 表現と関係があるのかもしれない。古より鷄は「時を告げる鳥」として重宝されてきた。

 「乳狗虎を噬らひ、伏鷄狸(ねこ)を搏つ」について、狸はやまねこのこと。鷄と狸に関しては漢の王褒『四子講徳論』に「是を以て鷄を養ふ者貍を畜せず」 という記載があり、少なくとも漢代には、狸が鷄の天敵であるということが分かっていたようだ。

 「日中鷄有り、月中兔有り…」は不明。ただし鷄は太陽信仰と結ばれて、赤い雄鷄を太陽に捧げる風習も行われていた(『世界大博物図鑑―鳥類』 p.124)のであるいはこの記載も太陽信仰にかかわるものであるかもしれない。

 鷄と方向の関係については、『易経』説卦伝に「鷄を巽と為す」とある。その意味について赤塚忠氏は、「「巽」は、あるいは風であって、風の変化は季節に 応じており、時を誤らないこと鷄鳴に似ているのによる(九家易説)といい、あるいは、彖・象伝によれば、「巽」は命令を宣布することであるから、その時を 知る鷄になぞらえる(孔疏説)というが、むしろ「巽」は東南であり、木であって、夜明けを象徴するので、その時を知る鷄を具象すると解すべきである」と、 述べている(『書経・易経(抄)』平凡社)。『風俗通』祀典には「鷄は東方の牲なり」という記載がある。

 『玉篇』にも「鷄は晨を司る鳥なり」という記載が見られ、それと夜が明けるとともに鳴く鷄の習性から朝を司る=太陽の昇る方向を司る=東の物、という考 え が生まれたのだろうか。(青柳)

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