【鳶】
釈鳥に云ふ、「鳶は烏の醜ひ、其の飛ぶや翔なり」と(1)。高く飛ぶを翺と曰ひ、翼を布きて動かさざるを翔と曰ふ。鳶は鴟なり。風を摩し回翔す。故に其の飛ぶや翔なり。曲礼に曰く、「前に塵埃有れば、則ち鳴鳶を載つ」と(2)。鳶鳴けば則ち将に風ふかんとする故なり。『禽経』に曰く、「暮れに鳩鳴けば即ち(@)小雨あり、朝に鳶鳴けば即ち(A)大風あり」と(3)。『詩』に曰く(B)、「鳶飛びて天に戻り、魚は淵に躍る」と(4)。鳶は鈍なる者なり。而して風に乗りて、風を以て之を作せば、則ち高く飛ぶ。魚は潜む者なり。而して気に乗りて、気を以て之を作せば、則ち深く躍る。故に『詩』、以て君子、人(C)の盛を作すに況す。昔、墨子が木鳶を作りて飛ばす。三日集まらず(5)。列子の所謂班輸の雲梯、墨翟の飛鳶、是なり(6)。今人、風に乗りて紙鳶を放つ。鳶は輙ち絲を引きて上る。小児をして口を張り、望視せしめ、以て内熱を洩らす。蓋し此に放ふ。旧説に、魚翼を観て櫓を創り、鴟尾を視て柂を製る。古の人仰観俯察するを言ふ。材を物に取り、以て舟楫の利を成すこと此くの如し。庚(D)桑子曰く、「人は実に鴟義(7)にして其の(E)国を有す」(8)と。鴟は貪殘の鳥(9)にして、善く人を抄盗す。『詩』に曰く、「梟為り、鴟為り」と(10)。『説文』に曰く、「鳶、屰に从ふ」と(11)。上に于いて屰と為す。鳶飛びて天に戻る。故に屰に从ふなり。『易』に曰く、「飛鳥、之の音を遺す。上るに宜しからず。下るに宜し。大いに吉なり。上るは逆にして、下るは順なり」と(12)。
[校紀]
(@)叢書本、則に作る。(A)叢書本、則に作る。(B)五雅本、云に作る。(C)五雅本、大に作る。(D)五雅本、叢書本、{广+曳}に作る。(E)五雅本、叢書本、其の字なし。
[注釈]
(1)『爾雅』釈鳥
(2)『礼記』曲礼上。この注に「鳶鳴けば則ち将に風ふかんとす」とある。
(3)今本の『禽經』には見えない。
(4)『詩経』大雅・文王之什・旱麓の第三スタンザ。
(5)『淮南子』斉俗訓に「魯般、墨子、木に作りて鳶を為し、而して之を飛ばす。三日集まらず」とある。また『列子』巻五・湯問の「墨翟の飛鳶」に対する張湛の注に「墨子木鳶を作りて飛ばす。三日集まらず」とある。
(6)『列子』湯問篇に「夫れの班輸の雲梯、墨翟の飛鳶は、自ら能く之を極むと謂へり」とある。
(7)『尚書』呂刑に「寇賊、鴟義、姦宄、奪攘、矯虔せざる罔し」とあり、鴟義とはよくない行いをすること言う。孫星衍疏によると鴟義は消義のこととしている。
(8)『亢倉子』用道篇第二。
(9)『詩経』小雅・四月の「鶉に匪ず鳶に匪ず」に対する毛伝に、「鶉はGなり。G鳶は貪殘の鳥なり」とある。
(11)『詩経』大雅・蕩之什・瞻卬の第三スタンザ。
(12)『説文解字』四篇上・に{屰+鳥}「鷙鳥なり。鳥に从ひ、屰の声」とある。また注に「夏小正、弋に作る」とある。
(13)『易経』小過の象伝。
[考察]
鳶、学名はMilvus migrans、中国名は鳶以外に老鷹、岩鷹、鷂鷹(北名)など、和名はトビである。鴟、鵄とも書く。
日本はもちろん、ユーラシア、アフリカやオーストラリアなど世界各地で見られ、人間にとって、馴染み深い鳥の一つであろう。全長約60p、翼を広げれば1mを越す。全身ほぼ茶褐色、いわゆる鳶色で、眼光鋭く、大きな嘴の先端が鉤状に湾曲しているところなどは、いかにもワシタカ類らしい姿である。
鳶は上昇気流に乗って空高く上り、翼を動かさず円を描くように飛ぶ。「翼を布きて動かさざる」「風を摩し回翔す」とは、この姿を指している。
「故に詩、以て君子、人の盛を作すに況す」とは、君子の徳が空の鳶や水の中の魚といった隅々にまで影響することを言っている。
「木鳶」については、『墨子』魯問では、「公輸子、竹木を削って、以て鵲を為り、成りて之を飛ばす、三日下らず」とある。これによると作者は公輸子であり、鳶でもない。また『韓非子』外儲説篇には「墨子木鳶を為り、三年にして成り、蜚ぶこと一日にして敗る」とあり、話が異なっている。話の真偽はともかくとして、陸佃がこれに続いて「紙鳶」を挙げ「蓋し之に放ふ」としているところを見ると、「木鳶」を「紙鳶」の原形と考えていたのだろう。ベルトルト・ラウファー『飛行の歴史』では、何らかのからくりを持ったものであるとこれを否定し、制作者も公輸子としている。「木鳶」が「紙鳶」の原形でないのなら、「紙鳶」の始まりはいつなのか。これについては明らかでない。宋の高承『事物紀原』によると、漢の韓信が未央宮までトンネルを掘るため、その距離を測るのに用いたのが最初とされている。この時代には紙がないため「紙鳶」とは言えないだろうが、皮や帛を用いたとも考えられるから一概に否定できない。正史では『南史』侯景伝において、後に梁の武帝となる簡文のいる都市が侯景によって包囲された時(549年)、「紙鴉」を作って飛ばし援軍を求めたと記載されている。これは侯景側に見つかり射落とされたそうであるが、成功の例としては、『新唐書』田悦伝に、唐の将軍・張伾が田悦から臨{氵+名}の町を守った時(781年)、同じように「風鳶」を作って援軍を求め、これを打ち破ったとある。幸田露伴は「日本の遊戯上の飛行の器」のなかで、これらの記載を並べ挙げ、「支那の子史においては、木鳶の語、紙鳶に先立って見ゆることおよそ八百年である。木鳶すでに出でて、而かも紙鳶のなほいまだ出でざる事、あに真に八百余年の久しきならんや」と述べているが、確かにそのとおりであろう。ともかくも、こうした軍事利用としてではなく、陸佃の頃(1042〜1102)には、「見上げることで口が開くから、体内の熱を追い出せる」という子供の健康的な遊戯となっていたようである。
「鴟義」「貪殘の鳥」と言われるのは、鳶が生餌ばかりではなく、死肉をあさることが関係しているのだろう。冒頭で、姿形が違うというのに「鳶は烏の醜い」と言われるのも、このことが要因になっていると考えられる。また「トンビに油揚さらわれる」ではないが、筆者は、鳶が人間の手に持ったパンを、人間に怪我させることなく掠め取って行くのを何度か見たことがあり、「善く人を抄盗す」はこのことを思い出させる。こうした人を恐れない態度も、悪く言われる理由となったのかもしれない。
「梟為り、鴟為り」とは、詩箋に「梟鴟、悪声の鳥なり」とあり、婦人の言が政治を乱すことを言っている。ちなみに鳶は「ピーヒョロロー」(童謡「とんび」では「ピンヨロー」)と高い声で鳴くが、果たして悪声であろうか。鴟はミミズクを指すこともあり、『詩経』では鳶以外の意で使っている可能性もある。(吉野)