「漢字の語源」といっても怪しむ人はいないだろう。しかし考えると妙である。「漢語の語源」なら問題はない。問題は漢字から語源を説くことである。
昔、語源を記した国語辞書があった。大槻文彦の『大言海』はその一つ。現在も『日本国語大辞典』(小学館)には従来の語源説を網羅している。私はある雑誌で「花の語源」を連載しているが、この二書の裨益を受けることが多い。
漢語の語源の場合は、日本語と全く様相が違う。漢語(ここでは一音節の記号素とする)は活用変化がないため、語構造から語源を解くことが難しい。そのため字源から語源を解く方法が伝統になっている。日本のたいていの漢和辞典には「解字」の項目があり、意味を記述する前に字源的説明が来る。
しかしここに問題がある。字源と語源は別ものだからである。漢字の専門家すら大混乱に陥っているのが実情である。現行の漢和辞典には眉に唾をつけて臨んだほうがよい。
何が問題か。これは言葉と文字の関係の本質に触れることである。文字の前に言葉があったことはいうまでもない。漢語(古代中国語)は何万年も前からあった。これを再現する記号が漢字である。
漢字誕生のドラマに立ち返ってみよう。古代中国人は記号素の所記(概念)を視覚記号化する方法を発明した。これが表意文字たる漢字である。表意文字の本質は言葉と物が一対一に対応し、互いに他と取り換えがきかないところにある。これが漢字の数が多い理由でもある。
表意文字の欠点は、しかし、数が多いことにあるのではなく、言葉の再現が緩いところにある。つまり図形は所記を暗示するだけなのである。意味は漢字の形にあるのではなく、あくまでも言葉(記号素)にある。そういうことで字源と語源は違う。字源から語源を解くのは常に落とし穴があることに気づく必要がある。
ここで漢字の「形音義」の記号学的定義を試みる。形とは「記号素の所記を暗示する図形」、音とは「記号素の能記(聴覚映像)」、義とは「記号素の所記(概念)」のことである。そうすると字音、字義は間違った用語ということになる。
「漢字の語源」について(二)
加納喜光
(『本の窓』1997.5)
漢字を歴史的にさかのぼることが語源研究だと勘違いしている人が多い。漢字の古い形は甲骨文字だから、甲骨文字での意味が漢字の「原初義」だと唱える人がいる。
私は漢字は共時的に研究すべきであり、論理的な意味構造を捉えるべきだと考えている。時間を軸にする「原初義」ではなく、論理的な第一義を捉えればよい。ところが第一義が文献に現れなければ、これは文字通りの無意味である。意味というものは文脈にしかないからである。
文献が登場し、豊富な文例が出現するのは周代、特に春秋戦国時代で、それ以前は特殊な分野に偏っている。したがって漢字の研究は春秋戦国時代のいわゆる古文を共時的に扱えばよいことである。甲骨・金文は補助的なものでしかない。
「家」という漢字を例に取る。ある辞典には「宀(いえ)と豕(ぶた)とで、もと、ぶたを飼う小屋、転じて、人の住む‘いえ’を表す」とある。また、別の辞典では「犠牲を埋めて地鎮を行った建物の意。・みたまや」とある。
ここに二つの大きな問題点がある。一つは、形から意味を引き出し、形の意味を言葉の意味にスライドしていることである。もう一つは、「豚小屋」や「みたまや」を原初義と定めていることである。
前に述べたように漢字は記号素を再現する図形である。意味は図形にあるわけではなく、あくまで記号素にある。「家」を考えてみよう。周代、人の住む場所を意味する言葉に*kagがあった。これを再現するために「家」という図形を用いた。これは殷代に存在した図形だが、「豚小屋」だろうと「みたまや」だろうと預かり知らぬことである。こんな意味は古典の用例にない。周人の意識では、「豚に屋根をかぶせた」図形でもって、広く「すまい」を暗示させたものである。なぜ豚かということは二義的なことであって、これを重要視すると袋小路に陥ってしまう。
図形から意味を説くのは全くの間違いであり、文脈から意味を捉えるのが正しいことは、言語学の常識であろう。