墨子の研究
99L1086L 中国文化専攻 中野 希美


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目 次 

はじめに
 

第一章    墨子という人物について 

一、名前について

二、出身階層について

三、生国について

四、活動時期について
 

第二章『墨子』について

一、構成と成立について

二、主な思想について

三、墨家集団について
 

第三章 墨家思想と現代

一、墨家思想の滅び

二、墨家思想の復活

三、墨家思想と現代
 

引用文献
 
 

墨子の研究 

中野 希美
はじめに

 墨子は兼愛や非攻をはじめとした思想を展開し、分業のなされた強固な学団を作り上げようとした。また、墨子は実践を重んじ、その学団は守禦集団として活躍した。その思想活動は、天下全体の利益を考える、社会的視野に立ったものであった。しかし、儒家と並んで一時代を築いた墨家も、秦の天下統一と同時に、一気に姿を消した。墨家の主張は、儒家と相対するところもあり、異端とされてきたが、その思想は中国古代においては特異なものであり、先進的な思想であったと後代、再評価を受けることとなる。

テロが相次ぎ、国際関係も緊張がはしる現在、天下全体の利益を考えるその思想から、私たちは学ぶべきものがあるのではないだろうか。本稿では、墨子が作った墨家集団とその思想から学ぶべきものは何か、考察していくことを目的とする。

 なお、『墨子』からの引用文はすべて『全釈漢文大系第一八巻 墨子上』からのものとする。また、本稿で使用する漢字はJISコード文字にある常用漢字・人名用漢字を原則とし、それにない漢字は正字を使用した。
 

第一章 墨子という人物について

一、名前について

 墨家思想の創始者である墨子についての伝記は、『史記』孟子荀卿列伝に次のようにあるのみである。

蓋し墨翟は宋の大夫にして、善く守禦し、用を節するを為す。或ひと曰く、孔子の時に並ぶ、と。或ひと曰く、其の後に在り、と。[1]
『史記』についてもこれだけしか記録がないところをみると、その頃にはすでに墨子の伝記が不明になっていたと考えられる。

 墨子の本名は、「墨翟」という。古来は「墨」が姓で、「翟」が名という風に考えられていたが、先秦の諸子で始祖の姓を学派名とした例がないことや、「墨」という姓はほとんど例がないことから、墨子の姓は「墨」ではない、と民国初期に江 が『読子卮言』巻二で初めて論じた。「墨」は個人の姓ではなく、学風に対して名づけられたものだと考えたのである。墨子の学は倹約を第一とし、飲食をつつましくして体を酷使するため顔色が青くなる。荀子は礼論篇・楽論篇で墨家の学風をあざけって「瘠墨」(瘠せて青黒い)とよび、荘子は天下篇で墨子の学風を評して「縄墨をもって自ら矯む」(厳しい規律で自身を正す)と言っている。よって、墨子の方でも、自分の学風の特徴を「墨」という字で表現した可能性があるというのが理由である。そして、江 は「墨」が姓でない以上、「翟」が姓であるというのだ[2]。

 しかし、「儒墨」と並称されるとき、「儒」は姓ではなく学派の名称であり、学派と姓が並称されるのはおかしい、という説に対し、駒田氏は『孟子』の滕文公章句下や『呂氏春秋』に「楊墨」や「孔墨」と並称されていることを挙げ、「もし墨を姓でないとするならば、この場合は、楊(楊朱)も孔(孔子)も姓ではないことになろう。(中略)従って墨は、姓であるとともにまた学派の名称であると考えてよかろう」と述べている[3]。

 「翟を姓とする説は顧みられないが、墨が本姓でなく、他人から与えられたニックネームであろうということは、以後定説化した」と本田氏は述べているものの[4]、このように、墨子の名前については不明な点がとても多いのが現状である。
 

二、出身階層について

 墨子の出身階層についても諸説があり、決め手がない。主に唱えられているのは、奴隷説・工人説・武士説である。奴隷説が主張される理由は、「墨」の字には、「入れ墨の刑」の意味があるためである。墨子は入れ墨者つまり、刑徒や奴隷の身分だったのではないかと銭穆は考えた(このことから、そのような意味の字を姓に持つものはいないだろうと考えられ、「墨」は姓ではなく、「入れ墨者の翟」というあだ名だったのではないかとも考えられている)。しかし、「墨」が学派名になっていることを考えると、墨家の人間全員が入れ墨者ということになってしまい、「墨」の一字から奴隷の身分と考えるのは早計ではないかという指摘もある[5]。

 「墨」の字が持つ意味はそれだけではなく、「三つよりの縄」という意味(『説文解字』)もあり、このことから墨子は工人の階層、さらに、工人の首長であったと渡邊氏は考えている。他に、墨家集団は集団の統率者を「巨子」とよんでいるが、「巨」の字は「鉅」の字と同じであり、モノサシを握った人を示す工人用語であることも根拠としている。さらに、『墨子』の中に工人の知識が目立つことや、工人が墨家集団の主力であったこと、墨子の思想が士以上を本位とする儒家と質的にはかなり相違する思想を唱えていることも挙げている[6]。

 しかし、墨子は『詩経』や『書経』を自在に引用しており、儒家に学んだこともあるとされていることから教養人とも考えられ、さらに、大夫であったとされていることなどもあり、士の家柄だったと考えるべきだという説もある。しかし、渡邊氏も指摘していたように、大貴族の出身であれば、兼愛や節用などの思想は出てきにくいのではないかとし、士の中でも比較的貧しい家柄だったのではないかと考えられている[7]。

 主な説は今挙げてきたが、墨子については、思想が仏教に似ていることや弟子の名前に奇妙なものが多く、インド名の発音に漢字を当てたのではないか、などとも考えられ、インド人ではないかという説もあったようだ。しかし、どれも短絡的な見解として多くの反論が出た。

 決め手がないため、断定はできないが、教養が必要であったろうし、諸侯たちと面会したことがあるとすれば、ある程度の身分、つまり、士の身分であったと考えるのが自然ではなかろうか。
 

三、生国について

 生国については、主に三つの説がある。宋人説・魯人説・楚人説である。

 宋人説については、冒頭で見たように、『史記』に「宋の大夫」と明記されていることが一つの大きな根拠のようだ。また、『史記』の中に「魯は季孫の説を聴いて孔子を逐ひ、宋は子罕の計を信じて墨翟を囚へぬ」とあることから、墨翟を宋の人としているようである[8]。

 魯人説については、孫詒譲は次のようなことを根拠にしている。それは、『呂氏春秋』愛染篇のはじめに「墨子、名は翟、魯人なり」とあることや、『呂氏春秋』愛類篇・『淮南子』修務篇に交輸般が雲梯を作って宋を攻めようとしたとき、墨子が魯から楚の都へはせつけたとある点などである[9]。

 楚人説は、『墨子』の魯問篇と耕注篇に魯陽文君との問答が多く出てくるが、魯陽は楚の領内であることから考えられたようだ[10]。 

 これらの説に対して、渡邊氏は魯人説の根拠の一つとする貴義篇の中の「子墨子、魯より斉に着く」という表現は旅路の起点を示すだけのものとしている。そして、兼愛中篇で墨子が禹の治水の業績を讃えて、それにならって兼愛実践の決意を述べた部分に注目している。文中の水名・地名を手がかりに、墨子がどの地点に立っていた設定か考えていくと、それは黄河中流にあたり、地図中でも最も条件にかなうのは宋国としている。何か大きな意図があり、天下の中央に設定したとも考えられるが、宋国にあてはまる表現を細かく使う必要はなかったこと、同様の設定が非攻中篇に二つ、兼愛下篇や節葬下篇に一つずつみられること、魯問篇に宋国の授受を比喩とする対話の部分があることも併せて述べている。さらに、『史記』において司馬遷が「宋の大夫」と記したことも、説話の中の比喩を真に受けたためかもしれないと考えている[11]。浅野氏は、貴義篇の「子墨子、魯より斉に着く」や魯問篇の「以って子墨子を魯より迎へんとす」などの記述に注目し、墨子の学団の根拠地が魯の国内に存在したことだけは確実とし、また、『呂氏春秋』当染篇の周王室より礼を伝えにきた史角がそのまま魯に住みつき、その史角の子孫に墨子が学問を受けたとする伝承にも注目し、それらを合わせると墨子は魯の人でほぼ間違いないとしている[12]。

 近年は墨子が目夷の末裔であるとされ、目夷がいた場所が滕であるということや、天候条件・交通の便などが良く、経済や文化の中心であり、良い人材が育つ社会条件が他にないくらい良く整っていたこと、船や車を先がけて発明するほど高い科学技術があったこと、墨子に関する遺跡が多くあることなどから、現在の滕州が有力な説になっている[13]。
 

四、活動時期について

 冒頭で見たように、『史記』では、孔子の同時代とも孔子より後とも言っているし、『漢書』芸文志は孔子の後としているが、主に孔子と孟子の間の時期ということは通説となっている。

 墨子の生卒年については、墨子が関わった大事件や『墨子』中に出てくる人物名から年代を定めようとする方法で考えられた。『墨子』中の説話を全て生かそうとする畢沅の説に従えば、墨子は百五十年くらい生きていなければならないことになる。しかし、『墨子』中の説話などは、必ずしも確実ではない場合が多いともいわれている。孫詒譲は、墨子が楚による宋への攻撃を防いだことを、前四八八~前四四〇あたり、墨子が三十歳未満の時の事とし、非楽上篇に斉の康公(前三七九没)が舞楽にふけったことを記しているから、墨子の生卒年を前四六八~前三七六としている。説話をほとんど全て実話とみているものの、これに対し本田氏は、結論自体は納得のいく数字としている[14]。

 注目すべき出来事の一つに、孟勝という巨子の時の集団自殺がある。その出来事は前三八一年である。その頃には確実に墨子自身は死んでいたはずであり、さらに孟勝の前に禽滑釐が巨子になっていたと考えられる。よって、禽滑釐と孟勝の巨子としての活動期間を少なくとも二十年とみると、墨子の活動時期の下限は前四○○年頃に相当すると渡邊氏は考えている[15]。しかし、本田氏は墨子・禽滑釐・孟勝という系譜は渡邊氏の創見であるとしつつも、墨子の死を前三八一年以前とすべきという点には首肯できるとし、孫詒譲の説と合わせて考え、墨子の生卒年を前四六八~前三八六ぐらいであろうと述べている[16]。浅野氏は、『墨子』貴義篇に出てくる楚の恵王へ会見を申し込んだ話や、魯問篇にみられる斉の太公田和との会見の話と魯陽の文君が鄭を攻撃しようとしたのを止めようとした話に注目している。また、『墨子』以外の資料として、『呂氏春秋』に記されている巨子孟勝の時の集団自殺の話などを取り挙げ、墨子が盛んに遊説して思想活動をしていた時期を、前四五○頃から前三九○あたりまでとしている[17]。よって、墨子の生卒年としては、本田氏が述べていた時期と重なっている。

 渡邊氏も浅野氏も生卒年としては断言を避けており、墨子は前五世紀前半に生まれ、前四世紀初頭の没したとするのが妥当だろう。

 この頃は、春秋時代から戦国時代へと移る頃であり、封建制が崩壊しはじめていた。殷・周王室の血族連合体から分派し、領主中心の政治・経済体制からなっていた城邑国家は細分化されていった。そして、伝統や血縁による結びつきだったものが力関係に変わって、弱小の邑は強大な邑の支配下におかれていき、七つの国により中国統一の動きが出てくる時代である。
 

第二章『墨子』について

一、構成と成立について

 『墨子』は、諸子の文章でも最も早く書かれたと思われている。一つのテーマごとに構成されており、対立者や被説得者を意識して、修辞的工夫を凝らして作られた初めての書物とされている[18]。『墨子』については、『漢書』芸文志に記載がある。それによると前漢末に存在した墨家の文献は六種類、総計八十六篇が数えられる。『尹佚』二編、『田俅子』三篇、『我子』一篇、『随巣子』六篇、『胡非子』三篇、そして、『墨子』七十一篇である。しかし、『墨子』以外の五種類十五篇は散逸し、現存するのは『墨子』だけとなった。しかも、その『墨子』も、篇名だけが残り本文を欠くものが八篇、篇名・本文両方散逸するもの十篇であり、合計十八篇が失われ、現存するのは、五十三篇だけである[19]。

 『墨子』は古来の目録順に従って、その形式と内容から次のように大別されている(分ける単位として「類」・「組」・「群」などを用いているものや、特に単位を用いていないものもある。また、五つや六つや七つに分けているものもあるが、ここでは、全釈漢文大系に従って、「類」を用い、五つに分類する)。

 第一類・・・親士・修身・所染・法儀・七患・辞過・三弁

 第二類・・・尚賢(上・中・下)・尚同(上・中・下)・兼愛(上・中・下)・非攻(上・中・下)・節用(上・中)・節葬(下)・天志(上・中・下)・明鬼(下)・非楽(上)・非命(上・中・下)

 第三類・・・経(上・下)・経説(上・下)・大取・小取

 第四類・・・耕柱・貴儀・公孟・魯問・公輸・非儒(下)

 第五類・・・備城門・備高臨・備梯・備水・備突・備穴・備蛾傅・迎敵祠・旗幟・号令・雑守

 第一類は、墨子が儒家に学んだことがあるということから、思想が儒家に近いことに注目し、墨家の最も原初的な思想を伝えたものであり、著作年代も一番古いという説がある。そして、以下のように、各篇が第二類のいずれかの篇に発展していると考えられたのである。親士篇が賢士を側に置き親しむべきとした考えは、尚賢篇に発展したとされる。法儀篇については、天が万物を平等に愛し利したこと、昔の聖王は天に法って万民を治めたことなどが、天志・兼愛・明鬼の各篇に発展したと考えている。また、七患篇においては、昔の聖王が財の生産と節約に努めて民の生活を安らかにしたという話は、節用・節葬篇に発展したとしている。さらに、三弁篇で音楽は天下を治めるのにはたいして寄与しないという考えは、非楽篇に発展したものであるとされている[20]。

 しかし、これと全く反対の説がある。梁啓超や胡適がその説を唱えている。渡邊氏も同様であり、「戦国末における他学派とくに儒・道二派の影響を受け入れて著作された墨家の雑録であるとみなして大過あるまい」と述べている。具体的には次のような点である。親士篇は尚賢を強調はするものの、後半部分がほとんど道家の諸篇と類似する点があるとしている。また、法儀篇で説かれる天志説は、「仁」を媒介として兼愛説を根拠付けているのに対し、天志三篇では「義」と尚同の根拠としての天を説いているという差異がみられると指摘している。七患篇については、全体を開祖の言葉としたり、夏・殷・周の書を引用したりしており、戦国末期に書かれた特徴が少なくないとしている。さらに、三弁篇は、時代が降下する程音楽は技巧的になるが、政治は疎かになると説いて、道家の思想を導入させており、天下万民の利のために非楽を提唱した本来の論理は忘れられていると述べている[21]。

 第二類は、「十論」や「十大口号」と呼ばれ、『墨子』の中核的な思想とされている。これらは、各論がそれぞれ「上・中・下」の三篇からなっているという特徴がある。これらはそれぞれ独立しているが、その論旨はほとんどかわりはない。しかし、重複しながらも、論調や文体は少しずつ違っている。『韓非子』の顕学篇に

墨子の死してより、相里氏の墨有り、相夫氏の墨有り、鄧陵氏の墨有り。(中略)墨離れて三と為る。[22]
とあるように、墨子の死後、墨家は三派に分かれたとされている。そして、それぞれの三つの墨家がそれぞれ伝えたものを集めたため、「上・中・下」と分かれたのではないかと考えられた。この説に従う学者が多かった。

 しかし、これに対して、各論が時代と共に改修されていき、それが七十一篇を整理するときまでそのまま残っていたためではないかとする説がある。渡邊氏はこのことについて、『古代中国思想の研究』の中で述べている。まず、兼愛・非攻・非命については、「上・中・下」が著作順序を示すものとしている。上篇から下篇に従って論理構成の展開が自然かつ流暢であり、思想の展開からも著作順序を示していると考えられるとしている。尚同・天志・尚賢については、「上・中・下」が著作年代を表さないものとしている。これらは、上篇が最も早くでき、次いで下篇、そして、上篇の思想を受け継ぎ、下篇の表現や論証技術を踏まえて書かれた中篇という順になると考えている。これらのことから、渡邊氏は「墨家がはじめて興起した頃から終末までにおける主張の変遷や分派による思想の対立を語るもので、約二百年の歳月をかけ、多くの無名執筆者により次々に著作されたことと推測される」と述べている[23]。

 第三類は、主に論理学や物理学上の定義的な言葉を集めたもので、墨弁とも称されている。墨子の自筆と考えた説もあったが、詭弁派に触発されたとみえるものがあり、墨子の自著とみなすことはできないと駒田氏は述べている。その点について、恵施や公孫竜ら詭弁派によって書かれたものとする説や、彼らの時代の後か、もしくは直前とする説などがあり、定まったものはない[24]。第三類の中で、経説篇は、幾何学・物理(特に光学・土木力学)などに関する科学的な命題が混じっており、古代中国としては驚異的な記述としてみられている。これら六篇については、古代文献中で最も難解といわれる部分が多く、今後の研究を待たなければいけないようである[25]。

 第四類は、ほとんどが墨子の言行録であり、『論語』に相当するものである。史実は極めて少ないとされ、説話化されたものが多いようだ。全て後学の偽作とも推測されている[26]。しかし、時代性・地域性など、内容は間違いなく墨子の時代の記録であると考えられており[27]、近年は墨子の人間像の展開ならびに墨家の党風・学風などを考察するには不可欠な資料と考えられている[28]。本来、第二類の末尾に位置されている非儒篇の分類について、渡邊氏は、十大口号と肩を並べる程の主張ではない点、反儒宣伝を行うことに主な目的がある点から、第三類に位置付けている。非儒篇だけ別に分けたものもあるが、駒田氏は第四類を「詭弁めき、儒家に対する反発態度がいちじるしい」と特徴を述べている[29]ことからも、ここに位置付けることが適当でないかと思う。

 第五類は、守城の法を述べたものである。攻城法や攻城兵器に対する防禦に必要な戦術や兵器・器具・設備・資材などの制作や取り扱いなどについて説いている。朱希祖は、漢代の官名が多いこと、漢代の刑法制度がみえること、戦国末に秦漢の諸書を踏襲した点が少なくないことから、漢人による偽書としている。それに賛同する多くの学者もいたが、渡邊氏は墨家が守禦集団として世に立っていたのだから、これらの兵技巧書を固有し伝承していたことも当然といえるとしている[30]。また、一九七二年に前漢墓から大量の兵法書が出土しており、その中に『墨子』の第五類と一致する部分が数枚含まれていたことから、漢代以前にすでに存在していたことが確認されたとしている[31]。

 『墨子』については、自筆とする説もあったが、今では全て後学によって書かれたものとされている。また、各篇の成立年代についても、第一類でみた以外にも諸説あるが、渡辺氏の研究により一つの形が唱えられた。多くの学者がこの説に従っている[32]。
 

 二、主な思想について

 尚賢論は、賢者を尊び、充分に評価することを政治の根本として説いている。しかし、墨家だけにみられる主張ではない。儒家の尚賢論は、「賢者が治めればうまくいく」という、賢者の徳性に帰されがちな抽象的なものであった。しかし、墨家のそれは、運営のための実務能力のみを重視したもので、国家統治の強化策として具体性をもつものであった。尚賢論の目的は、国家内の価値基準の統一によって、大量の良民を創り出すことと、能力によって選抜された官僚のもたらす国内統治の安定であった。それらのことにより、社会秩序の確立と国家財政の充実を期待したのである[33]。この主張は、世襲的身分制を打破しようとする、機能的な合理性のある主張ともいえる。しかし、注目すべきは、儒家の尚賢論が賢者を他から自国へ招くタイプであるのに対し、墨家の尚賢論は、諸個人間に能力の相違があり、同一の個人においても能力が変化・向上し得ると考えたことである。つまり、「賢者」を創り出すタイプのものであったのだ[34]。これは、諸国家の安定確立を最終目標とするため、統治体制の改革をするには、当然、各国家内で自己完結する必要があったのである。

 尚同論は、上位者に同調して、一義を以て天下を一貫させる主張である。これは、天子は天に同じくするとはいっても、天は天子の影にすぎず、結局は天子の意志で天下の意志を統一する絶対王権の統治だとする評価もある[35]。しかし、尚同論において、墨家は天子と民との間に、実施権限を与えられた、自立性を持つ三公や諸侯などの中間機構を介在させている。天子や中間機構の統治者による権限の悪用については、それぞれ「賢者」であるゆえあり得ないとしている。最終的に天に尚同することによって、天子への制約が加えられており、専制主義にしようとしたものとはいえない[36]。

 兼愛論は墨家思想の中核である。孟子はこの兼愛論を、「墨氏は兼愛す、是れ父を無みするなり。父を無みし君を無みするは、是れ禽獣なり」(滕文公章句下)として批判する。これは、儒家が人を愛するには順番があり、家族愛を基調とし、それから他人への愛へと移るべきだと考えたからである。墨家は、世界の混乱の原因について、他者を犠牲にする手段で自己の利益を計ろうとする精神と行為にあると考えていたため、墨家の兼愛は次のようにいう。

子墨子言つて曰く、「人の国を視ること、其の国を視るが若く、人の家を視ること、其の家を視るが若く、人の身を視ること、其の身を視るが若し。是の故に諸侯相愛すれば、則ち野戦せず。家主相愛すれば、則ち相簒はず。人と人と相愛すれば、則ち相賊はず。君臣相愛すれば、則ち恵忠。父子相愛すれば、則ち慈孝。兄弟相愛すれば、則ち和調す。天下の人、皆相愛すれば、強きものは弱きものを執さず、衆きものは寡きものに劫らず、富めるものは貧しきものを侮らず、貴きものは賤しきものに敖らず、詐しきものは愚かなるものを欺かず。凡そ天下の禍簒怨恨、起る毋からしむ可きは、相愛するを以て生ずるなり。是を以て仁者は之を誉む」(兼愛中第十五)
 墨家の兼愛とは、他者を自らのことのようにみよというものであった。それは、相互扶助の精神に支えられることのよって、父子・兄弟・君臣間の孝慈の倫理が正しく完成する社会秩序の確立を期待したものである[37]。

 このような墨家の兼愛論は、一種の功利主義だとされる。倫理学上の功利説とは、その行為の善悪の基準が、その行為が幸福をもたらすか、不幸をもたらすかにあるもので、究極的には、社会一般の幸福を目標とするものとされる。墨家の「兼」とは、「ともに、みな」の意味であり、愛の相互性の関係が天下に広まることによって良く治まるとするものである[38]。つまり、兼愛する目的も同じであり、兼愛論も一種の功利主義だとされるのである[39]。

 兼愛論について渡邊氏は、上篇では、「利」を「自利」の意味において用い、「兼愛拒利」の思想を主張しているが、中篇になると、「利」を「他利」に限定し、全ての人間に利益の交換を勧める立場の「兼相愛・交相利」とした交利思想を導入し、画期的な転換を遂げたとしている。そして、下篇では、それらの論理をさらに発展させると共に、治者による賞罰を打ち出し、事大的傾向が現れていったとみている[40]。しかし、兼愛論には一貫した主張があったとみられる。中篇に登場する「交相利す」というのは、他者を犠牲にしての自利獲得を停止して、最終的に得られる天下の大利を万人が共に享受しようというものである。つまり、上篇の理論構造そのままである。すなわち、「兼ねて相愛す」ることは、最終的には「交相利す」る結果になるということを、上篇での主旨を中・下篇で表現を変えて、さらに詳しく述べているに過ぎないのである[41]。それどころか、三篇の兼愛論の主題は、「兼相愛」から「相愛」、そして「愛」そのものへと醇化しており、思想的には先鋭化しているという見方もある[42]。

 兼愛論から必然的に登場してくるのが、非攻論である。

今、一人有り。人の園圃に入つて、其の桃李を窃む。衆聞かば、則ち之を非とし、上の政を為す者得ば、則ち之を罰せん。此れ何ぞや。人に虧いて自ら利するを以てなり。(中略)苟も人に虧くこと愈多ければ、其の不仁茲甚しく、罪益厚し。此の当きは、天下の君子、皆知りて之を非とし、之を不義と謂ふ。今、大いに不義を為し国を攻むるに至つては、則ち非とするを知らず。従ひて之を誉めて、之を義と謂ふ。此れ義と不義との別を知ると謂ふ可けんや。(非攻上第十七)
 このように、非攻論は、戦争の不義を訴え、侵略戦争への反対を主張している。侵略戦争の本質は消耗戦であり、生産力も低下するため、多くの生命や利益に背くものであるとしている。墨家の真意には、惨害の除去と封建体制の維持があり、すなわち、恒久的な世界平和の確立にあったと浅野氏はみている。しかし、戦争は貴族達の存在証明であり、身分秩序に根ざしたものであるため、実際に、侵略戦争によって富国になった君主たちには、説得力をもたなかった[43]。しかし、非攻下篇に至ると、聖王の「誅」を認めており、兼愛同様に、事大的傾向が現れ、論理の純粋性が破綻したと渡邊氏は述べている。 

 節用論は、統治者階級の奢侈や装飾を抑制して、実用機能への富の質的転換を行うことで、実用富を増加させることを主張している。これは、墨家が国富に一定の限界枠を設定しており、今現在、富は不足しており、将来も不足するという認識をもっているからと考えられている。そのため、墨家は富の総量拡大について、早婚の奨励と非攻の主張による人口増加を打ち出している。それは、人間を、富を生産する労働力と捉えていたためである。これに対し荀子は、上位者に音楽や物などを与えることにより、他の人もそうなりたいと思い励むのであって、物質的に優遇することが難しそうな墨家の考えでは、人々は励まなくなり、天下は貧しくなっていくと批判する。これは、荀子が自然に対して楽観的な立場をとっているからである。また、人間の生産力に対しても信頼をもっているという、富の生産力に対する認識の差異が一つにあるとされる[44]。墨家が国富の総量に限界があるという認識であれば、総量を増やすためには、他国への侵略が必要になると考えられる。しかし、侵略戦争を行えば、労働力である人間が死ぬこととなるため、節用論は非攻論と密接な関係をもってくる。

 節葬論を説く動機や目的は、節用と同じである。その中でも、厚葬久喪を非難しているため、儒家の礼論と対立することになる。厚葬久喪は、多くの財物を死者に捧げ、長期に渡り喪に服するため、人々の体力を奪い、生産活動からも遠ざける。つまり、厚葬久喪は人々の利を害するものだとしている。そこで墨子は、次のような埋葬の決まりを作ったとされる。

子墨子葬埋の法を制為して、曰く、「棺は三寸、以て骨を朽ちしむるに足り、衣は、三領、以て肉を朽ちしむるに足る。掘地の深さは、下菹漏無く、気上に発洩する無し。壟は以て其の所と期すに足れば、則ち止む。往を哭し来を哭し、反つて衣食の財に従事し、祭祀を けて、以て孝を親に致せ」と。(節葬下第二十五)
 墨子は厚葬久喪を止め、このようにすることで、財政は充実し、人口も増加するとしている。それにより、治安がより維持され、自衛力が増強する効果があると主張される。墨家にとっての節葬は、個人の感情を超えた、重大な政治問題であったと思われる[45]。

 兼愛論や非攻論の正当性を根拠づけるために主張されたとするのが、天志論である。墨家の示すところの天は、明確な人格神であり、それは古い性格を残したものであったようだ[46]。墨家が絶対者に上帝をおいたのは、上帝信仰の形骸化により、規制力が現実的効力を弱めてきていたため、その回復を図ろうとしたことと、墨家の正当性を、天の権威を借りて論証しようとしたこととが考えられる。天志は尚同と共に、天子専制主義などといわれる。しかし、尚同でも述べたように、天子の恣意的支配を禁圧し、封建諸国家の保全を義務付ける方向に機能させようとしていたものと思われる[47]。また、墨家の宗教性を特に表すものとしても取り上げられる。久須本氏は、中国古代における天の観念や思想について、人々の生活に密着して深い関連をもち、宗教的な意義をもっていたと述べている[48]。よって、墨家の独自のものではない。

 天志論が主に天子などの上位者に向けての主張だったのに対し、明鬼論は、鬼神の権威を借りた個人的犯罪の禁圧に目的を置いたものとされる。鬼神は死者が変化してなったものとされているが、こうした鬼神は、生前の恨みをはらすという性格を有しており、普遍性を備えた倫理や道徳の監督者ではない。しかし、個人的復讐は、不正・邪悪を懲らすとも捉えられる。墨家は、この懲罰を降ろす対象を、私怨に絡んだ人物のみでなく、広く人間の犯罪行為一般にまで拡大して、改変している。天志論と明鬼論は対をなす思想であるが、天志論が天子、明鬼論が個人個人を対象として専門領域を分担しているのは、上帝と鬼神の差異に由来していると考えられている[49]。墨家の天や鬼神の思想について、宗教とみるか、方便と見るかということがあるが、全般的に実利主義の傾向や合理的に割り切った思考方法が見られることから、宗教的要素が含まれていたとはいえるが、あくまでも、方便として天と鬼神を用いたと考えられる[50]。それによって、人々を天や鬼神に従わせ、倫理的行動へと導こうとしていたのであろう。

 荀子から、音楽は人情から自然に発したもので、必要であると批判を受けたのが非楽論である。それは、墨家が音楽から一切の思想性を剥ぎ取り、単なる娯楽としてのみ捉えて音楽に反対したとされるからである。これは、節葬と同様に、墨家が人間の内面に対する思索がほとんど欠落しているといわれる一因でもある。しかし、飢えと寒さと患いが民の苦しみとしてあったという現実問題から発しているものと考えられる。

其の説将に必ず賤人と与にせんとす、不らざれば君子と与にす。君子と与に之を聴かば、君子の治を聴くを廃し、賤人と与に之を聴かば、賤人の事に従ふを廃せん。今、王公大人、惟毋楽を為し、民の衣食の財を虧奪し、以て拊楽すること此の如く多きなり。(非楽上第三十二)
 当時の人々は、このように、音楽に心を奪われて、王公大人は政務を怠り、農民たちは農業や紡績を怠ることになり、生活の困窮を来たしていたのである。だから、王公大人たちの音楽は、財が消費されるだけでなく、民を生産活動から引き離すものであり、実用的でないと考え、音楽に反対したのである[51]。

 非命論は、貧富・衆寡・治乱などは、それぞれ命として決定されているものだから脱しようとしても無駄だとする、儒家の有命論への批判だとされるものである。墨家は、有命論を人間の勤労を妨げるものであると考えるからである。つまり、勤労精神を民衆に呼びかけ、勤労を無視する時弊を排除しようとしたのである。そして、社会倫理を醸成させることにより、生産力を増強して国を富まし、民衆の福利を計ろうとしたと久須本氏は述べている[52]。墨家非命論は、古代中国の「命」の中で、全ての人に命が下されるとする宿命型を否定しながら、上帝が特定の人物を選抜して命を下すとする受命型は肯定している。これは、先に述べた目的のために、都合の良いように合わせているとされる。また、隠されていた必然的宿命が、ある時、偶然的結果を装って顕現する運命型について言及しないのは、天道に対する考察に乏しい思想体質であり、機能主義的世界観や人間観の限界を露呈しているという見方がある[53]。

 墨家の十論については、その間に矛盾が存在するとされたり、専制君主に迎合するような面が見られるとされたりする。しかし、根底では、いずれも、墨家の主張に沿ったものと解釈できるのではないだろうか。

 墨家思想の本質を、渡邊氏は、①救世の精神、②弱者支持の精神、③体制是認の精神、④理論的精神、⑤勤労の精神と捉えている[54]。また、高田氏は、墨家の独自の思想として、賤人階級の立場から、君子階級を非難する精神がみられることを挙げている。また、労働と行動性を重んじ、人々にも全体の中での分業を説く、全体的秩序の世界観を有していることも指摘し、これらは、中国思想全体の中でも極めて特異なものと述べている[55]。しかし、浅野氏は、墨家が説得の対象を王公大人だけでなく、庶民も含めている点を指摘し、墨家の思想活動の目的は、天下全体を救済せんとするものだとしている[56]。よって、墨家の活動の目的は、天下全体を視野に入れたものと考えるのがよいのではないだろうか。
 

三、墨家集団について

 『墨子』が墨子の弟子たちによって書かれたものと述べたように、思想活動も墨子一人ではなく、弟子たちによっても行われた。高田氏が、「墨子の思想行動を墨家のそれと区別なく取り込むような、全体としての思想活動があったのであり、その思惟の実体は集団としての墨家であったことに注意すればよい」と述べているように、墨子と墨家集団は切り離せないのである[57]。

 墨子が魯に楽団を設立し、墨家集団が誕生したとされる。しかし、『墨子』の説話類からは、高級官僚への仕官が目的で入門する弟子たちが多く、団員に対する教化が大変だった様子が窺える。また、集団の人員・組織を整えていく中で、それぞれの入門の時期・出自・能力の相違が、団員としての意識にも相違を生じさせ、その表面化により、集団の横の結びつきが粗になってきたため、集団の和合と結束を図るために兼愛を説いたという説もある[58]。このことからも、墨子が弟子たちの教育に苦労していたことは確かなようだ。

 墨家集団は、主に三つの部署からなる組織とされる。諸国を遊説して布教活動を行う談弁という班、学団内で典籍・教本を著作・整備し、門人の教育を担当したとされる説書という班、そして、築城や防禦、守城兵器の制作、食糧の生産など様々な仕事を行う従事という班である。この他に、団員たちを諸国に派遣して、仕官させることにより、官僚の立場から布教活動を行わせようとした。派遣された者は、各地を遊説して歩く団員たちの食事や宿などの世話をする役目を担っていたとされる。このように、墨家はそれぞれに分業して活動していた。その組織の一番上に立つのが、「巨子」であった。

 孟勝や田襄子、腹 の名前が見える頃には、巨子への団員たちの忠誠心もしっかりしており、巨子の権威も強固なものとなっている。『墨子』の中に「子墨子」とあるのは、「巨子墨子」の略であると考えられ、墨子の頃から「巨子」と言う名称と立場が存在し、墨子が初代の巨子であろうという見方がある[59]。しかし、墨子には、孟勝たちのような権威があったようには見えない。墨家集団は、二代目の巨子であったと推測されている、禽滑釐の時代に強固な集団へと変化していったと考えられている。禽滑釐は墨子から守禦の術を伝授され、非攻活動に力を入れた弟子として知られている。戦闘になれば、自然と集団内も統率がとられていき、巨子の権限も強化されていく。そうして次第により分業体制の整えられた、強固な集団が作られていったと考えられている[60]。

 民も統治者も自分の役割を果たすことが全体の利になるという、墨家の分業論は、尚賢論や節葬論など十論の中の様々な所でみえる。しかし、これは、自分たちの集団内で行っていたことを、そのまま社会全般に当てはめようとしており、無理があるという指摘もある[64]。この分業論からは、すでに述べたように、墨家が人間を財の生産者と捉えていることが窺える。また、墨家の弟子たちは没個性的だといわれるが、墨家が実利にはしりすぎ、人間の内面をよく理解していない一面が現れているといえるのではないだろうか。
 

第三章  墨家思想と現代

一、墨家思想の滅び

 墨家は墨子の死後、戦国末期に三派に分裂したと伝えられているが、なぜ、墨家は分裂したのか。その内部事情を伝える資料はないといわれているが、戦国時代末期の中国全土の動きと墨家集団の状況から推測されている。

 渡邊氏は、墨家の活動の根拠地を斉・魯陽を中心とする楚の北域・宋の三地と想定している[62]。勢力の拡大と共に根拠地は拡大していったと考えられる。しかし、それぞれの墨家が根拠地を別にしてそれぞれに活動したことが、分裂の一要因と考えられる。

 墨家集団は、巨子の下に、厳罰厚賞な独自の法によって、秩序を維持し、強固な集団を作っていた。巨子は私情を捨てて法を断行するため、法の下では団員は皆平等である。しかし、墨家においても人間関係が大きくはたらいていたのではないかと河崎氏は指摘している。巨子孟勝が自殺をはかるときに、宋の田襄子に巨子を引き渡すことを伝えた二人の墨者が、新巨子田襄子が止めるのも聞かずに、他の多くの墨者と同様に、孟勝の後を追って自殺した話がある。このことから、孟勝と二人の墨者の間には、墨家の法よりも強い両者の人的結合があり、そちらが優先されたと考えることができるのではないかというのである。

 孟勝が約束の不履行に対して死ぬと言ったことは、人間関係において「信」に価値を置いていたものである。そして、これを認め多くの団員が後を追って自殺したことは、「信」を紐帯とした人的結合によるものであったと考えられる。また、これは同時に、旧巨子の下にいた団員と新巨子との間には「信」による人的結合がまだ確立していないことを意味している。この両者の間には、ただ「法」の力だけが結びつけるものとして働いていたのである。となると、新巨子が止めるのをきかなかったということは、新巨子との唯一の結びつきであった「法」が破られたことになる。それはすなわち、両者は分裂に瀕することなのである。つまり、この出来事は、人的結合のためには分裂をも辞さなかったことと、田襄子の巨子としての無力さを物語っているといえるのではないかと考えられる。このことから、旧巨子との結合が強ければそれだけ新巨子への拒否反応もあったのではないだろうか。

 渡邊氏も述べていたように、墨家は各地に拡散して活動していたと考えられ、その日常の活動における地理上の制約が、統率者に対して近い者と遠い者、親しいものと疎い者とが出てきてしまい、無視できないものにとなってしまったのだろう。次第に団員を増やしていったが、墨家の巨子制自体に分裂の要因を含んでいたため、それは同時に分裂の速度を加速させることとなったと考えられている[63]。統率者との人的結合が大きな力を持ち、活動地域ごとに団結しているとなれば、巨子の座をめぐる争いもなかったとはいえないであろう。

 また、末期墨家においては、思想上の対立もあったとの見方がある。初期墨家の兼愛思想が愛の思想であったのに対し、末期墨家のそれは利の思想であるというものである。しかし、末期墨家において全てが利の思想を唱えたのではなく、初期の主張を引き継ぎ、愛の思想を重視するものもいたとされる。また、利の思想を重視するものの中にも、賞罰権に訴えても兼愛説を主張するものと、尚同体制確立のための手段として兼愛を主張するものがいたとされる。つまり、兼愛説において愛を重視する一派と利を重視しながらも兼愛を目的として主張する一派、利を重視し手段として兼愛を述べる一派の三つが存在したと考えられるのである[64]。また、非攻においても、同様のことが考えられる。末期墨家は、誅や義戦を積極的に提唱するようになった。しかし、初期の主張を引き継ぎ主張する一派もいたと考えられるのである。酒井氏は戦闘を誅・義戦なのか、侵略戦争なのかと判断することは難しいため、この「義・不義」の判断の相違が墨家の分裂抗争に拍車をかけたとしている[65]。

 いくつかに分かれた集団の中には、強大になりつつあった秦に入り込んだ「秦墨」がいたとされている。秦の天下統一が進む中では、弱小の国を守るにも、自分たちが生き残るにも限界がある。また、秦が天下を統一することによって、世界に安定がもたらされるし、墨家の思想も広める機会が出てくるという側面もあるため、秦に入り込むことが起きても不思議ではない。秦としても、墨家の守城の技術を高くかっていたと思われる[66]。秦などの強国とのつながりができれば、誅や義戦を認めるなどの思想の変化も起こり得ることであり、このように各国の状況に左右されるところもあったといえる。

 このようにみてくると、墨家の思想を主張・実現しようとする上での対立、巨子の座をめぐる争い、強国の抗争関係との絡み合いなどの結果分裂していったものと考えられる。

 初期の頃の主張を引き継いでいた集団は、弱小国の守禦をしていたであろうから、秦の天下統一の前に、守りきれずに敗れていき、弱小国と運命を共にしたと考えられる。また、秦に入り込んだ秦墨も、現実主義に徹した秦の下では、墨家の本来の思想活動は行えるはずもなく、思想生命を自ら絶ったか、秦によって絶たれたかして、兵士としてしか存在し得なかったかもしれない[67]。

 秦の始皇帝は焚書を実施し、弾圧を行っていったが、当然墨家もその対象になったと考えられる。墨家としては、一切の思想活動を停止するか、死罪や強制労働を覚悟の上で、なお自己の信念を貫き通すかということを迫られる。墨家は後者をとって消滅していったのではないかと浅野氏は考えている。また、秦墨も、その思想内容や、巨子腹 が自分の子の殺人罪を赦すとした恵王の申し出よりも、墨家の法を優先させたことなどから窺える、秦に従わないその独自さが弾圧の対象になり得たとも考えられる。いずれにせよ、墨家は、その集団性・組織性が災いして、大きな被害を受け、一網打尽にされたと考えられるのである。

 また、漢の時代になり、思想の自由が回復されたが、武帝が五経博士を置いたため、儒教が国教のようになった。また、墨家自身が治外法権的集団を必要とし、常に全世界的視野にのみ立って活動する特有の社会性を有していたことから、漢代以降も諸子の中で墨家のみが復活することなく、絶学の道を辿ったと考えられている[68]。 
 

二、墨家思想の復活

 『墨子』は漢代以降読まれずに清代にまで至る。その間、わずかに、晋の時代に魯勝という人物と、唐の時代に楽台という人物が注釈書を作ったといわれているようであるが、共に現存していない。明の時代には、道教の経典を集めた『正統道蔵』に『墨子』が収められた。茅坤の校訂本が刊行されてから流布しはじめ、このテキストが日本にも輸入され、和刻本として通行した[69]。

 しかし、『墨子』が本格的に研究されるようになったのは清代になってからである。清代には、学者の畢沅が『正統道蔵』を底本として校訂した『墨子』によって、人の目に触れやすくなった[70]。『墨子』は、まずは、考証学の立場から注目された。元々は、いかに儒教の経典を正確に読むかという動機から発していた。だが、しだいに文献考証学の技量を振るう対象として、広く諸子のテキストを見直そうとする気風が興り、異端とされて排斥されてきた『墨子』にも目を向けられるようになった。畢沅の校注と諸研究者の校注をふまえて著述された、孫詒譲の『墨子間詁』によって読解可能となったとされる[71]。

 清末になると、『墨子』は別の角度からも注目されるようになった。アヘン戦争の敗北である。アヘン戦争以後、中国は西欧列強の力に敵わず、さまざまな条件をのまざるを得ない状況が続き、植民地の観を呈するまでに至った。西欧の力を認めざるを得なくなった中で、「中体西用」を掲げ、思想や制度は中国伝統のものをそのまま尊重し、西欧の学問(工業や技術)のみを採用して富国強兵を図ろうと試みた。しかし、それらは表面的なものでしかなかったために、結局は失敗に終わった。西欧との本質的な違いを突きつけられ、自信をなくしていく中で、中国の知識人たちは、西欧との違いや中国がいつから弱くなってしまったのかということなどを解き明かそうとする。また、西欧にしかないと思っていたものは、実は中国にもあって、ただ忘れていただけなのだと考える風潮も興ってくる。そうして、戦国時代の諸子に目が向けられていったのである。その中で、異端といわれていた墨家思想も、兼愛の思想はキリスト教の博愛主義であり、尚同論はルソーの社会契約論と同じであり、墨弁はアリストテレスの論理学に近いなどと見直されていったのである。また、明治維新の成功や日清戦争の勝利から、日本の急成長にも注目すると、武士道があったからの成功とする日本に対し、中国にも武士道を見つけようとする。その結果、梁啓超は巨子孟勝のときの集団自決を特筆し、中国の武士道と顕彰したとされる[72]。このように、墨子及び墨家は、発見・発掘されたともいえるように研究がなされていったのである。このことについて、高田氏は、儒家思想を正統思想とした思考の反動というべき傾向がみられるとしている。また、儒家思想にはない、西欧近代のもつ思想的要因を墨子に求めようとする傾向ともしている[73]。つまり、墨家思想は中国の自信を回復させる恰好のものであった。
 

三、墨家思想と現代

 墨家は世界の平和を願って活動していたが、現代はどうであろうか。自分たちの足元を見ても、企業をはじめとする、組織ぐるみの不正や偽装が世間を賑わせている。国を動かしていく立場にいる人たちの不祥事も後を絶たない。自分の悪事を暴かれては、次から次へと辞めていく。将棋面氏は、日本は「暴政」への道を歩んでいるのではないかと指摘する。一部の権力者などにひいきにされ、特定の集団が利益を得ることを目的とする、「共通善」に反する政治を行っているのではないかというのだ[74]。権力によるひいきがなくとも、自分の利益を考えるあまりの嘘が今日ではそこら中にあるといっても過言ではない。将棋面氏は、「共通善」というものを、「社会や国家など政治共同体全体にとっての善のこと」としているが、墨家のいうところの「利」と通ずるのではないだろうか。墨家における「利」は、「利他」の「利」であり、私利ではなく、他者の利益、ひいては天下全体の利益として捉えている。その「利」を考えて行動すべき者として、また、民衆の指導役とも言うべき者として、賢者を必要としたのである。墨家の提唱する尚同体制は、次のように達成するとしている。

是の故に子墨子曰く、「凡そ民をして尚同せしむる者は、民を愛すること疾めずんば、民使ふ可き無し。曰く、必ず愛に疾めて之を使ひ、信を致して之を持し、富貴以て其の前に導き、明罰以て其の後に率ゐる。政を為すこと此の若くんば、我と同じきもの毋からんと欲すと唯も、将に得可からざらんとす」と。是を以て子墨子曰く、「今、天下の王公大人・士君子、中情に将に仁義を為めんと欲せんとし、上士為らんことを求め、上は聖王の道に中らんことを欲し、下は国家百姓の利に中らんことを欲せば、故当ち尚同の説、察せざる可からず。尚同は政を為すの本にして治の要なり」と。(尚同下第三十)
 上の引用では、尚同を達成しようとする者、つまり、賢者にとって、第一に必要なのは民への愛であると述べている。人々が賢者に価値意識を同一にする理想的状態の達成には、「民を愛する」ことをはじめとする賢者の心的態度が必要条件だとしている。また、尚賢論とは、兼愛・非攻の実践者としての賢者を中心とする人的結合の論理である。その個別的人的結合を、中心となる賢者を媒介としてタテに積み上げていったものが、尚同論において構成された世界の構造と柴田氏は述べている[75]。あくまでも、上位者が下の者を正すとされている。それは「賢者」であるということが、君子専制の動きへの歯止めとなるとされており、また、そこには、上位者への「信頼」というものがあるのだろう。つまり、賢者の民への心的態度とそれを受けての民の信頼があってはじめて成り立つのである。「信頼」が揺らいでいる今、改めて、人の上に立つ人の質について見直されるべきではないだろうか。

 また、組織というものも現代は切り離せないものである。それぞれの役割を担い、目的を達成するために有言実行する墨家のその強固な集団性は、純粋で真っ直ぐにもみえ、現代に足りない一面を持っているように思う。しかし、それゆえ、分裂・崩壊を招いたのもまた事実である。巨子と団員の人的結合の強固さは、純粋に「賢者」の下に集まったものであるとは思う。しかし、根拠地を別にする墨家集団と互いに補い合えず、権力の争いをしたならば、それは無益な派閥争いでしかない。また、巨子との一対一の結合ばかりが強くても、その人がいなくなれば、一気に崩れてしまう脆さもある。墨子の弟子たちは、没個性的であったが、墨家思想が衰退した要因の一つとして、蔵原氏は墨子以後、個性的な思想家が現れなかったために、思想が教条化され、組織が固定化されて、時代の変化に対応することができなかったとみている[76]。つまり、忠実すぎたゆえに行き詰まったと考えられる。これからは、さらに変化が激しく、個性というものもより求められてくるであろう。この墨家の分裂・衰退から、集団内での人的結合のあり方や、一人一人のあり様、組織としての柔軟性について考えることができるのではないだろうか。 

 また、世界に目を向けても墨家思想に通じるものがあるように思う。趙氏は、今の世界は、常に大量の「別相悪、交相賊」的現象があり、国際平和と安全の破壊や、集団や個人の人権侵害の現象は深刻であるとしている。墨子の「兼愛非攻」という国際法的な思想は、重大な現代価値を有しており、現在の国際社会はまさにその思想を必要としているとしていると述べている[77]。

 2001年9月11日の同時多発テロ以降、テロへの恐怖心と報復という攻撃的雰囲気が強まっている。テロリズムに対しては、暴君放伐とどう識別されるべきなのかが難しい問題とされる。それは、何らかの公的利益のために自己犠牲を払ってなすものであるからだ。しかし、テロリズムは、「ある特定集団にとっての「共通善」を追求するものであって、その集団以外の人間の利益は考慮の対象としない」という考え方もある。それはつまり、テロリストの暴力行為は他者を強制し、自己権力を追求するものであるから、それ自体が「暴政」といえると将棋面氏は述べている[78]。また、「暴君」とみなされる統治者の存在する国もある。世界全体でみても、「暴君」や「暴政」は存在するのである。だがしかし、「暴政」であるならば、全て「誅」として討伐して良いものなのであろうか。

 墨子の非攻は、反戦論ではないことを忘れてはならないと指摘される。墨家は自衛を認め、そのための多くの技術や戦術を書き残している。守禦集団であった彼らは、自らも命をかけて弱国の守禦に当たっている。また、侵略を防ぐには、その国の全民衆を兵士として導入する。そこに、男女は関係ない。女・子ども・老人までをも戦いに就かせるのである。戦いに勝つためには、集団の規律を乱さないために、規則が設けられ、厳しい賞罰が行われた。自衛を認め、武力によって侵略を防ぐとなれば、私達も同じように戦いに就くことは起こり得るであろう。それを私達は受け入れられるだろうか。軍隊訓練を受け、戦って自国を守ると宣言している人たちも、本心を言えば戦争は望んではいないのである。

 非攻論は、兼愛の思想から生まれたものであり、兼愛論では次のように述べている。

若し天下をして兼ねて相愛し、人を愛すること、其の身を愛するが若くならしめんに、猶ほ不孝の者有るか。父兄と君とを視ること、其の身の若くんば、悪ぞ不孝を施さん。猶ほ不慈の者有るか。子弟と臣とを視ること、其の身の若くんば、悪ぞ不慈を施さん。故に不孝・不慈有ること亡し。(中略)若し天下をして兼ねて相愛せしめば、国と国と相攻めず、家と家と相乱さず、盗賊有ること無く、君臣父子も、皆能く孝慈ならん。此の若くんば、則ち天下は治まらん。故に聖人の天下を治むるを以て事と為す者は、悪んぞ悪を禁じて愛を勧めざるを得んや。(兼愛上第十四)
このように、兼愛論では、天下中の人々が互いに愛すれば、国同士や家同士で争うことはなく、天下が治まるとしている。

 しかし、現状はどうであろうか。趙氏は、現在の国際社会は、主に自分の国・自分の身だけを愛し、偏狭的な民族主義・愛国主義を実行していると指摘している[79]。経済をはじめとして、いかに自国の利益を増やすかということにはしるため、国同士の間での摩擦もしばしばである。また、難民問題もその一つではないだろうか。

 世界では、依然として紛争は絶えず、難民問題は今も世界的な問題になっている。各国が難民を受け入れている。しかし、パキスタンでは、難民の保護政策として、経済的自立を促す援助をするものの、貧窮状態にある地域住民から反発を受けた。空爆などの被害を受けると、その矛先は難民に向けられてしまった。また、ドイツなどでも、受け入れ制度を乱用する難民が増え、彼らに対する流血事件が頻発した。これらのことを受けて、その国の住民の安全を危うくする程大量である場合、難民の追い出しを行うこともあり得るとするような宣言が、国連総会で、全会一致で採択されたことがある。大多数の国は、大量の難民を受け入れる責任に対して冷ややかだと本間氏は述べている。現在も、難民の人々の人権を大切にしようとする動きと、異民を排斥すべきだという動きとがあるようである。頭ではわかっていても、実際はなかなか「人の身を視ること、其の身を視るが若く」できない一面がみえる。

 しかし、大量の難民受け入れによる、受け入れ国の経済的負担は大きくなり、その他にも、受け入れ国に新たな害などが生じてしまうのは当然のことである。難民が生じるということは、当人たちばかりでなく、その祖国にとってもダメージは大きく、近隣諸国も不安定な状態を引き起こしてしまう。つまり、それは、国際社会の平和と安定に関係してくることなのである。本間氏は、内政干渉などの問題から、国際平和の維持を第一義的任務とする国連を通しての解決を期待している。それと共に、日本人一人一人も、難民の人たちも自分たちと同じく、基本的人権などを有しているという意識をしっかり持ち、日本に受け入れる社会環境を作っていかなければならないと訴えている[80]。つまり、各国、各国の国民一人一人が考えていかなければならないのである。

 交通手段も情報技術も発達し、国境の壁はどんどん低くなり、「グローバル化」といわれる現代、ますます物事は世界レベルで考える時代になっている。その中で、自国のことのみを考えているだけでは済まされず、現在だけを考えてもいられない。

今、夫の攻城野戦、身を殺すを名と為すが若きは、此れ天下百姓の皆難しとする所なり。苟も君之を説べば、則ち士衆能く之を為す。況や兼相愛・交相利に於けるは、則ち此と異なるをや。夫れ人を愛する者は、人必ず従つて之を愛し、人を利する者は、人必ず従つて之を利す。人を悪む者は、人必ず従つて之を悪み、人を害する者は、人必ず従つて之を害す。此れ何の難きことか之れ有らん。特上以て政と為さず、士以て行ひと為さざるが故なり。(兼愛中第十五)
 墨家はこのように、愛の満ちた世界を創り上げるために、人々の心的状態を変動させる役割を「君」に期待している。つまり、人格的優越者たる君主は、天下を「兼相愛」させる力を持っていたとされるのである。

 今や、「天下」は「地球全体」「国際社会」であり、「天子」は各国の統治者一人一人なのである。つまり、各国の統治者たちが、「兼相愛」に満ちた世界を創り上げることを期待されているのである。中でも、現在世界をリードしている先進国によせられる期待は絶大であろう。「天子」が向けるべき視点は、国際社会全体であり、また、未来に対しても向けられるべきである。

 趙氏は、墨子は愛利と不可侵を後代の人にも要求しており、将来への充分な見通しを有している点を指摘し、現在の国際的な環境保護についての指導的な思想として重要視している。よって、環境の保護や資源の節約をして、持続発展できる条件を作り、後の世代の権益を気にかけることは、墨子の唱えるところの後世の人を愛利する行為であると指摘している[81]。

 墨家は、国家の富に一定の限界があると考えていた。それは、財を生産する工夫を考えていないとの批判もある。しかし、発展途上国の人口は増え続け、地球全体の人口も増加し続けている。そして、世界はどの国も、どの人々もよりよい生活を求めるであろうから、世界が全体的に豊かになろうとすることとなる。当然、自国・自分の利益のみを考えるならば、確実に他国・他人の利を害することが起こり、大きな争いの種になるであろう。現代の私たちは、限りある資源に対し、新たなエネルギーを生み出したり、新たな食糧生産の方法を開発したりして、財の生産をしている。しかし、それは、私たちが生き延びるためのものである。今までのような己の富の追及にのみはしった生活には、やがて限界がやってくるのではないだろうか。つまり、節用でいうところの、富の質的転換を迫られる時がくるであろう。その時のためにも、自分たちの生活を見直しておくべきだと思うのである。

今、吾将に正に天下の利を興して之を取むるを求めんとせば、兼を以て正と為す。是を以て聡耳明目は相為に視聴するかな。是を以て股肱畢強にして相為に動宰するかな。而して有道は肆めて相教誨す。是を以て老いて妻子無き者、侍養する所有りて、以て其の寿を終へ、幼弱弧童の父母無き者、放依する所有りて、以て其の身を長ず。今、唯毋兼を以て正と為す。即ち若れ其の利なり。(兼愛下第十六)
 このように、互いに助け合うことは、それによって、天下に利がもたらされるとしている。

 とある英国歴史学者が、現代世界は、技術上はすでに統一されているが、精神的な面では統一されていないと述べたという[82]。今こそ、先進国をはじめとする各国の統治者、また、国際社会に生きる私たち一人一人が、「人の国を視ること、其の国を視るが若く、人の家を視ること、其の家を視るが若く、人の身を視ること、其の身を視るが若く」して、「天下」の平和と安定のために、行動すべきではないだろうか。
 

引用文献

[1]吉田賢抗『新釈漢文大系第八九巻 史記九(列伝二)』18頁、東京、明治書院、1993年

[2]本田済『人類の知的遺産六 墨子』61頁、東京、講談社、1978年

[3]駒田信二『墨子を読む』44頁、東京、勁草書房、1982年

[4]前掲文献[2]62頁

[5]前掲文献[2]63頁

[6]渡邊卓『古代中国思想の研究』709~710頁、東京、創文社、1973年

[7]前掲文献[2]63~64頁

[8]前掲文献[6]702頁

[9]前掲文献[2]57頁

[10]前掲文献[3]43頁

[11]前掲文献[6]703頁

[12]浅野裕一『墨子』251頁、東京、講談社、1998年

[13]張知寒「再談墨子里籍応在今之滕州」(『文史哲』1991年第二期)

[14]前掲文献[2]59~60頁

[15]前掲文献[6]705~708頁

[16]前掲文献[2]61頁

[17]前掲文献[12]249~251頁

[18]今鷹真『中国詩文選五 諸子百家』36頁、東京、筑摩書房、1975年

[19]渡邊卓『全釈漢文大系第一八巻 墨子上』6頁、東京、集英社、1974年

[20]前掲文献[3]49頁

[21]前掲文献[6]525~532頁

[22]竹内照夫『新釈漢文大系第一二巻 韓非子(下)』860頁、東京、明治書院、1978年

[23]前掲文献[19]9頁

[24]前掲文献[3]52~53頁

[25]前掲文献[19]10頁

[26]前掲文献[19]10頁

[27]前掲文献[12]284頁

[28]前掲文献[19]10頁

[29]前掲文献[3]53頁

[30]前掲文献[6]451頁

[31]前掲文献[12]286頁

[32]前掲文献[6]545頁

[33]前掲文献[12]29~33頁

[34]岡本光生「墨家の人間観―尚賢論と兼愛論を中心に―」(『中国関係論説資料』18、1976年)

[35]郭沫若『中国古代の思想家たち十批判書上』165頁、東京、岩波書店、1953年

[36]前掲文献[12]42~48頁

[37]高田淳『中国古典新書 墨子』63~65頁、東京、明徳出版社、1967年

[38]吉永慎二郎「墨翟兼愛を説かず―『墨子』兼愛論の論理と構造―」(『集刊東洋学』67、1992年)

[39]前掲文献[2]24頁

[40]前掲文献[6]655~657頁

[41]前掲文献[12]59頁

[42]橋元純也「『墨子』兼愛論とその周辺(上)―兼愛三篇の「相愛」と「兼」―」(『東洋古典学研究』第10集、2000年)

[43]前掲文献[12]66~81頁

[44]前掲文献[12]89~93頁

[45]前掲文献[12]110~113頁

[46]前掲文献[2]35頁

[47]前掲文献[12]130~134頁

[48]久須本弘熙「墨子の社会思想Ⅲ―天の価値的類型・宗教思想・政治思想―」(『中京学院大学経営学会研究紀要』第八巻第一号、2000年)

[49]前掲文献[12]150~152頁

[50]金谷治『世界の名著10 諸子百家』26頁、東京、中央公論社、1966年

[51]久須本弘熙「墨子の社会思想Ⅱ―「非楽論」・「非攻論」・「非命論」及び『祭政論』に見られる倫理思想―」(『中京学院大学経営学会研究

紀要』第七巻第一号、1999年)

[52]前掲文献[51]

[53]前掲文献[12]200~205頁

[54]前掲文献[6]669~674頁

[55]前掲文献[37]75頁

[56]前掲文献[12]254頁

[57]前掲文献[37]55~56頁

[58]河崎孝治「墨翟と兼愛」(『中国関係論説資料』18、1976年)

[59]前掲文献[50]22頁

[60]前掲文献[12]274~276頁

[61]重沢俊郎『中国歴史に生きる思想』56~57頁、東京、日中出版、1975年

[62]前掲文献[6]572~573頁

[63]河崎孝治「戦国時代後半に於ける墨家の展開」(『日本中国学会』第二十七集、1975年)

[64]酒井和孝「末期墨家の兼愛思想―『呂氏春秋』を媒介として―」(『哲学』32、1980年)

[65]酒井和孝「末期墨家の非攻思想―『呂氏春秋』における其の展開―」(『佐賀大国文』7、1979年)

[66]前掲文献[6]596頁

[67]前掲文献[6]572頁

[68]前掲文献[12]277頁

[69]前掲文献[12]286頁

[70]前掲文献[2]14頁

[71]前掲文献[12]287頁

[72]前掲文献[12]293~295頁

[73]前掲文献[37]19頁

[74]将棋面貴巳『反「暴君」の思想史』10~11頁、東京、平凡社、2002年

[75]柴田昇「墨家集団論序説―墨家思想の再構成―」(『名古屋大学東洋史研究報告』23号、1999年)

[76]蔵原惟人「中国古代の平等博愛・反戦平和論―墨子の思想とその方法―」(『季刊科学と思想』47、1983年)

[77]趙建文「墨子関于兼愛非攻的国際法思想及其現代価値」(『法学研究』第一八巻第二期、1996年)

[78]前掲文献[74]211頁

[79]前掲文献[77]

[80]本間浩『難民問題とは何か』188~224頁、東京、岩波書店、1990年

[81]前掲文献[77]

[82]前掲文献[77]