埤雅の研究>釈草篇(4)

【芍薬】

 『韓詩』に曰く、「芍薬は離草なり」(1)と。『詩』に曰く、「伊れ其れ相謔れ、之を贈るに芍薬を以てす」(2)と。 「牛 亨問ひて曰く、将に離れんとして相贈るに芍薬を以てするは何ぞやと。董子答へて曰く、芍薬は一名、可離。将に別れんとして故に之を贈る。亦た猶ほ相招き之 を贈るに文無を以てす。故に文無は一名、当帰」(3)。芍薬は仲春に栄え、孟夏に華さく。『伝』に曰く、「驚蟄の節後、二十有五 日、芍薬栄ゆ」(4)とは 是れなり。華、千葉に至る者有り。俗に小牡丹と呼ぶ。今、羣芳中、牡丹の品は第一、芍薬は第二。故に世に謂ふ、牡丹は華王と為し、芍薬は華相と為し、又た 或は以て華王の副と為すなりと。

 華釈名に曰く、「牡丹の名は、或は姓を以てし、或は州を以てし、或は色を以てし、或は地を以てし、或は其の異とする所の者を旌はして之を志す。姚 黄、牛黄(ⅰ)、左華、魏華は姓を以て箸す。青州、丹州、延州紅は州を以て箸す。細葉、麤葉、寿安、濳渓緋は地を以て箸す。一擫 紅、鶴翎紅、朱砂紅 (ⅱ)、甘草黄は色を以て箸す。献来紅(ⅲ)、九蘂真珠(ⅳ)紅、鹿胎紅(ⅴ)、 倒暈檀心、蓮華萼、一百五、葉底紫、皆な其の異を志す者。姚黄は千葉黄 華、民の姚氏の家に出づ。此の華の出は今(ⅵ)に於いて未だ十年ならず。姚氏は白司馬坂(ⅶ)に居る。其の 地、河陽に属す。然れども華、河陽に伝はらず、 洛陽に伝ふ。洛陽も亦た甚だしくは多からず。一歳、数朶に過ぎず。牛黄も亦た千葉、民の牛氏の家に出づ。姚黄に比して差や小さし。真宗、汾陰に祀(ⅷ) り、還りて洛陽を過ぎりて、燕淑景亭(ⅸ)に留まる。牛氏、此の華を献ず。魏華は千葉肉紅、華は魏相仁溥(ⅹ)の 家に出づ。始めて樵る者、寿安の山中に之 を見る。断ちて以て売る。魏氏の池館、甚だ大いなり。伝ふる者云ふ、「此の華、初出の時、人、之を欲する者有り。人、十数銭、乃ち舟に登り池を渡るを得、 華の所に至る。魏氏、日に十数緡を収む。其の後、破亡し、其の園宅を鬻ぐ。今、普明寺の後の林池は乃ち其の地なり。僧、之を耕し以て桑棗を植う。華の民家 に伝ふるは甚だ多し。人、其の葉を数ふる者有り。七百葉に至ると云ふ。銭思公嘗て曰く、「人、牡丹は華王と謂ふ。今、姚黄を真に王為り、而して魏は乃ち后 なり。鞓紅は単葉深紅、華は青州に出づ。亦た青紅と曰ふ。故に張僕射斉賢(ⅹⅰ)、第有り。西京の某坊(ⅹⅱ)、 青州より馲駝を以て其の種を駄し、遂に洛 陽中に伝ふ。其の色、腰帯に類す。故に之を鞓紅と謂ふ。献来紅は華大きく多葉、浅紅の華。張僕射、相を罷め洛陽に居る。人、此の華を献ずる者有り。因りて 名づけて献来紅と曰ふ。添色紅は多葉、華始めて開きて白し。日を経て漸く紅し。其の落つるに至りて乃ち深紅に類す。此れ造化の尤も巧なる者なり。鶴翎紅は 多葉。華、其の末は白くして本は肉紅なること鴻鵠の羽毛の如し。細葉、麤葉、寿安は皆な千葉肉紅、華は寿安県錦屏山に出づ。細葉は尤も佳し。倒暈檀心は葉 紅し。凡そ華は萼に近ければ色深く、其の末に至れば漸く浅し。此の華は外より色を深くし、萼に近ければ反て浅白なり。而して檀を深くし其の心を点ず。此れ 尤も愛すべし。一擫紅は多葉浅紅、華葉杪は深紅の一点、人の十指を以て之を擫ふが如し。九蘂真珠紅は千葉、紅華。葉上に一白点、珠の如き有り。其の葉を密 にし、其の蘂を蹙め、九叢と為す。一百五は多葉白華、洛の華は穀雨を以て開候と為す。而して此の華は常に一百五日に至りて開く。丹州、延州華は皆な千葉紅 華、其の洛に至るの因を知らず。蓮華萼は多葉紅華、青趺の三重なること蓮華の萼の如し。左華は千葉紫華、民の左氏の家に出づ。葉は密にして斉しきこと截る が如し。亦た之を平頭紫と謂ふ。朱砂紅は多葉紅華、出づる所を知らず。民の氏子なる者を聞く有り。善く華を接ぎ以て生と為す。地を崇真寺の前に買ひ、華圃 を治めて此有り。洛陽の豪家、尚ほ未だ有らず。故に其の名、未だ甚だしくは著(ⅹⅲ)しからず。華葉は甚だ鮮やかなり。日に向かひ 之を視れば、猩血の如 し。葉底紫は千葉紫、華は其の色墨の如し。亦た之を墨紫華と謂ふ。叢中に在り、旁心に一大枝を生ず。葉を引きて其の上を覆ふ。其の開くや、他華に比して十 日の久を延ぶべし。ああ造物なる者は亦た之を惜しむか。此の華の出づるは他に比して最も遠し。『伝』に曰く、唐の中宗に宦官の軍観容使と為る者有り。華、 其の家に出づ。亦た之を軍容紫と謂ふ。歳久しくして其の姓氏を失ふ。玉板白は単葉、長きこと拍板の状の如く、色玉の如し。深檀心は洛陽の人家に亦た少しく 有り。予嘗て思公に従ひ福厳院に至りて之を見る。寺の僧に問ひて其の名を得。後未だ見ざるなり。濳渓緋華は葉緋く、華は濳渓寺に出づ。寺は龍門山の後に在 り。本、唐相利藩の別墅。今、寺中已に此の華無くして、人家に或は之有り。本是れ紫華なり。忽ち叢中に於いて特に緋を出す者は、一両朶に過ぎず。明年移り て他の枝に在り。洛人、之を転枝華と謂ふ。故に其の頭を接ぐは尤も得難し。鹿胎華は多葉紫華、白点有ること鹿胎の紋の如し。故に蘇相禹珪(ⅹⅳ)の 宅に今 之有り。初め姚黄未だ出でざる時、牛黄を第一と為す。牛黄未だ出でざる時、魏華を第一と為す。魏華未だ出でざる時、左華を第一と為す。左華の前は惟だ蘇家 紅、賀家紅、林家紅の類有り。皆な単葉の華、当時第一と為す。多葉千葉華(ⅹⅴ)の出でたるより後、華黜く。今人、復た種ゑざるな り。牡丹、初めは文字を 載せず、惟だ薬を以て本草に載す。然るに華中に於いて高第と為さず。大抵、丹延已西及び褒斜道中尤も多し。荊棘と異なる無し。土中に皆な取り以て薪と為 す。則天より已後、洛陽の牡丹、始めて盛んなり。然れども未だ名を以て著(ⅹⅵ)す者有るを聞かず。沈宋元白の流の如きは皆な善く 華を詠む。当時一華の異 なる者有れば、彼必ず篇什に形はす。而るに寂として伝はる無し。惟だ劉夢得に魚朝恩宅の牡丹を詠む詩有り。但だ一叢千朶と云ふのみ。亦た其の美にして且つ 異なるを云はざるなり。謝霊運言く、永嘉、竹間水際に牡丹多し。今、越華は洛陽に及ばざること甚だ遠し。是れ洛の華、古より未だ今の盛の若き有らざるな り」(5)と。

[校記]

(ⅰ)『洛陽牡丹記』、「牛黄」の二字無し。(ⅱ)『洛陽牡丹記』、「朱砂紅」の下に「玉板白、多葉紫」の六字有り。(ⅲ)『洛陽牡丹記』、「献来紅」の 下に「添色紅」の三字有り。(ⅳ)『洛陽牡丹記』、真珠に作る。五雅本、真硃に作る。(ⅴ)『洛陽牡丹記』、鹿胎花に作る。(ⅵ)『洛陽牡丹記』、本に作 る。(ⅶ)『洛陽牡丹記』、白司馬坡に作る。(ⅷ)五雅本。祠に作る。(ⅸ)『洛陽牡丹記』、宴淑景亭に作る。(ⅹ)『洛陽牡丹記』、「仁溥」二字は細 字。(ⅹⅰ)『洛陽牡丹記』、「斉賢」二字は細字。(ⅹⅱ)『洛陽牡丹記』、「坊」を「賢相」に作る。 (ⅹⅲ)五雅本、箸に作る。(ⅹⅳ)『洛陽牡丹記』、「禹珪」二字は割注。(ⅹⅴ)『埤雅』諸版本、「千葉」二字無し。今、『洛陽牡丹記』に依る。(ⅹ ⅵ)『埤雅』諸版本、「著」一字無し。今、『洛陽牡丹記』に依る。

[注釈]

(1)    今本『韓詩外伝』に見えず。『佩文韻府』『古今図書集成』等が引く『韓詩外伝』に「芍薬、離草也。言将離別贈此草」とある。
(2)    『詩経』国風・鄭風・溱洧の第一スタンザ。
(3)    『古今注』問答釈義。
(4)    『伝』未詳。
(5)    宋・欧陽修『洛陽牡丹記』花釈名第二。

[考察]

 形式上、訓読を二つの段落に分けた。第一段落では「芍薬」について述べられている。第二段落は全文が『洛陽牡丹記』花釈名からの引用である。ただ し『埤雅』では節略・脱字が多く読みにくいので叢書集成初編本『洛陽牡丹記』で必要最低限の校勘をした。

 古くは「芍薬」は調味料として用いられていて、「芍薬之醤」(『文選』枚乗七発)や「芍薬之和」(『漢書』司馬相如伝)といった記載がよく見受け られる。毛伝に「芍薬、香草」とあるように、古くは味・香りを利用していたようである。しかし陸機『草木鳥獣蟲魚疏』に「今薬草芍薬無香気。非是也」とあ るように、今のシャクヤク(芍薬 Paeonia lactifora) にはそれほどの香りはない。『詩経』の「勺薬」にトウキ(当帰)、センキュウ(川芎)、コブシ又はモクレン(辛夷)といった香草、香木を当てる説もあ る。。

 水上静夫氏は字形の面から考証し、『説文』『爾雅』に「芍、鳧茈也」とあることを手がかりに、『詩経』の「勺薬」をクログワイ(Eleocharis plantaginea)と同定している(『中国古代の植物学の研究』)。

 「芍薬」に対する音韻面の考証もある。李時珍は「芍薬猶婥約也。婥約美好貌。此草花容婥約。故以為名」という(『本草綱目』)。「婥約」とは美し いさまのこと。森立之は「勺薬二字畳音、謂其花色勺薬然也」とし、音韻面の傍証(「焯爚」「綽爍」「灼爍」「爚爚」などの語)からあかるいさまであると解 釈した(『本草経攷注』)。『辞通』「灼薬」の項によると、「薬同爍。灼薬、沸貌」とあり、「薬」と「爍」の字が通じる例もあることがわかる。森立之は 「芍」の字について、『医心方』『詩経』では「勺薬」に作り、「芍」は俗字であるとする。「勺」と「薬」の二字を連ねくさかんむりを付けてしまい、遂に 「鳧茈」の意味を持つ「芍」の字と同じになってしまったのだという(『本草経攷注』)。

 『埤雅』には「芍薬」の項であるにも関わらず「牡丹」の記載が多い。現在では、草本のものを「芍薬」、木本のものを「牡丹」として区別する。この 分類は『古今注』に「芍薬有二種。有草芍薬木芍薬。木者花大而色深。俗呼為牡丹非也」とあるのが明確な記載として最も早いものと思われる。これによれば、 もともとは「牡丹」という名称は俗言であり、雅言では木本、草本を区別せず「芍薬」と呼んでいたとようである。(野口)

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