【鷹】

陶弘景曰く、「虎は声を聞きて深く伏し、鷹は形を見て高く飛ぶ」と。鷹は鷙鳥なり。一名鷙鳩。『左伝』に曰く、「鷞鳩氏寇を司る」と()。蓋し鷹は鷙なり。故に司寇と為す。一歳を黄鷹と曰ひ、二歳を鴘鷹と曰ひ、三歳を鶬鷹と曰ふ()。鴘は次赤なり。『埤倉』()に「音は披免の切」と。鷹鷂は二年の色なり。頂に毛角有り、微かに起つ。今通じて之を角鷹と謂ふ。『詩』に曰く、「維れ師尚父、時れ維れ鷹揚す」と()。其の武の奮揚すること此の如きを言ふ。『楽記』の所謂、「発揚蹈厲は、太公の志なり」()。旧説に、「凡そ鷙鳥の雛は生まれながらにして慧有り、殻を出づるの後、即ち巣外に於いて條を放つ。大鷙其の墜ちて、及び日の曝す所と為りて、熱暍()損を致すを恐る。乃ち取りて葉枝を帯び、其の巣畔に挿し、其の外に墜つるを防ぎ、及び陰涼を作すなり。雛の大小を験せんと欲せば、挿す所の枝葉を以て候と為す。一日二日の若きは、其の葉萎すると雖も、尚青色を帯ぶ。六日七日に至りては其の葉微黄なり。十日の後枯悴す。此の時雛大にして取るべし」と()。『説文』に曰く、「{+}は瘖の省に从ふ」と()。蓋し{+}は疾の省に从ふ。隹の疾捷なる者、故に疾の省に从ふ。人の指蹤する所に随ふ。故に人に从ふ。『禽経』に曰く、「鷹は伏を撃たず、鶻は妊を撃たず」と()。蓋し其の義性此の如し。『裴氏新書』に曰く、「虎豹事無く行歩する者は、将に其の躯に勝へざらんとするが若し。鷹は衆鳥の間に在りて睡寐するが如く然り。故に怒積して後全剛生ず」と()。然らば則ち越の呉を滅ぼす所以は此の道を用ふるなり。『蔡邕月令』に云ふ、「鷹は化して鳩と為る」と(10)。鷹は鳩の属なり。鳩は凡そ五種、鷹を鷞鳩と為す。陽に応じて変ずれば則ち喙柔仁にして鷙ならず。「夏小正」に曰く、「鷹は其の殺の時なり。鳩は其の殺の時に非ざるなり。善く其れ変じて之れ仁なり。中秋、鳩は化して鷹と為る。変じて之れ不仁、故に記さず」と(11)。『字説』(12)に曰く、「應()は心に从ひ{+}に从ふ。心の物に応ずるは疾ならずして速やかなり、行かずして至る。{+}の物に応ずるは人或いは之れ()をして能く疾ならしむるのみ。行かず至らず」と。今三館の書、{+}漱三巻有り。皆鷹鸇を養ひ及び医療の術なり。

[校記]

()五雅本、「熱暍」を「日暍」に作る。()叢書本・五雅本、「之」の字なし。

[注釈]

()『春秋左氏伝』昭公十七年。

()『芸文類聚』鳥部中・鷹が引く『広志』にほぼ同文が見られる。

()『埤倉』 魏・張揖撰。

()『詩経』大雅・大明の第八スタンザの二句。

()『礼記』楽記。

()『酉陽雑俎』肉攫部。

()『説文解字』四篇上に「隹に从ひ、人に从ふ。瘖の省声」とある。

()『禽経』 師曠の著、張華注とされるが、唐宋の間に彼らに仮託した書であろうとされる。本条は今本(『生活与博物叢書』所収)の『禽経』に見えない。

()『裴氏新書』 未詳。裴玄(三国、呉の人)の著という『裴氏新言』(『玉函山房房揖佚書』所収)と同一か。

(10)『蔡邕月令』 『蔡氏月令』ともいう。正式名称は『月令章句』。蔡邕は後漢末の古典学者。

(11)『大戴礼』夏小正第四十七。

(12)『字説』 宋・王安石撰。

[考察]

鷹はaccipiter gentilis(中国名は蒼鷹、和名はタカ)に同定される。中国での異名には、征鳥、爽鳩、決雲児、凌霄君、葛里朶合、猛鳥、冠鳥、黒漫君、断那夜、迅羽、剛虫、大蒼などがある。オスの体長は約50センチ。上体は暗く青みがかった灰色で、胸部には非常に紬かい暗灰色の斑紋がある。下体は白く、黒色の細かい横斑が一面に見られる。体長はメスがオスよりも大きい。鷹は針葉樹林、広葉樹林、雑木林などのある山麓に棲み、平常は単独生活を行う。鷹の主な獲物はキツツキ、キジ、カモなどといった鳥類だけでなく、ネズミやリスなどといった哺乳類も含まれる。鷹の狩りの方法には二種類あり、一つはハヤブサのように、上空から急降下して獲物を襲う方法で、もう一つは、樹の枝に止まって獲物を待ち伏せし、背後から急襲する方法である。陶弘景の「鷹は形を見て高く飛ぶ」は前者を、『裴氏新書』の「鷹は衆鳥の間に在りて睡寐するが如く然り。故に怒積して後全剛生ず」は後者を、それぞれ指しているものと思われる。

また、鷹を含め、ワシタカ科やハヤブサ科の仲間の中には老鳥・成鳥・亜成鳥によって羽毛の特徴の異なるものがある。本文で「二歳を黄鷹と曰ひ、二歳を鴘鷹と曰ひ、三歳を鶬鷹と曰ふ」とあるのは、おそらくそのような個体変異を示しているのであろう。

旧説の「凡そ鷙鳥は…」以下は不明。ただしこの記載は、鷹の雛を取る頃合いを示していることから、鷹狩りに用いるために雛を採取していた可能性がある。なお中国における鷹狩りは、紀元前二千年頃から始まったと考えられている。(青柳)

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