【鳲鳩】


鳲鳩は秸鞠、一名摶黍、今の布穀なり。江東は呼びて郭公と為す。牝牡は飛びて鳴き、翼を以て相払(ⅰ)ふ。自ら巣を為らず、鵲の成巣に居る(1)。均一の徳有り(2)。蓋し其の子を哺するに、朝は上自り下り、暮は下自り上る者は均なり(3)。其の子梅に在り、棘に在り、榛に在り、而して己は則ち常に桑に在る者は一なり(4)。『詩』に曰く、「維れ鵲に巣有り、維れ鳩之に居る」(5)と。序する者以為らく、「国君行を積み、功を累ね、以て爵位を致す。夫人家より起りて、如(ⅱ)して之れを居有す。徳鳲鳩の如ければ、乃ち以て配すべし」(6)と。蓋し一は婦の道なり、妻の道なり。均は母の道なり、小君の道なり。均は節を制する所以、一は度を謹しむ所以なり。故に『詩』は以て夫人を況す。『周官』羅氏に、「中春、鳩を献じ以て国老を養ふ」(7)とは、鳩の性は噎せずして、之を食して且つ復た気を助くるが故なり。『続礼儀志』に曰く、「仲秋戸を案じ、年老を校(ⅲ)する者は、之に授くるに杖を以てす。其の端に鳩形を刻す。鳩なる者、噎せざるの鳥なればなり」(8)と。故に曰く、「鯁を祝するは前に在り、噎を祝するは後に在り」と。『禽経』に曰く、「一鳥を隹と曰ひ、二鳥を{隹+隹}と曰ひ、三鳥を朋と曰ひ、四鳥を乗と曰ひ、五鳥を雇と曰ひ、六鳥を{兒+鳥}と曰ひ、七鳥を{鳥+匕}と曰ひ、八鳥を鸞と曰ひ、九鳥を鳩と曰ひ、十鳥を{章+鳥}と曰ふ」(10)と。九鳥を鳩と曰ふは、其の字九に从ふ、之を以ての故か。馮衍の『逐婦書』に曰く、「口は布穀の如し」(11)とは、其の多声を言ふなり。


  [校記]

(ⅰ)叢書本、排に作る。(ⅱ)叢書本、而に作る。(ⅲ)五雅本、{禾+交}に作る。


 [注釈]

(1)「自ら」から「成巣に居る」まで、『詩経』召南・鵲巣の毛伝の文。

(2)『詩経』召南・鵲巣の鄭箋の文。

(3)『詩経』曹風・鳲鳩の毛伝に「朝は上従り下り、莫(=暮)は下従り上る。平均なること一の如し」とある。

(4)『詩経』曹風・鳲鳩の第二スタンザに「鳲鳩桑に在り、其の子梅に在り」、第三スタンザに「鳲鳩桑に在り、其の子棘に在り」、第四スタンザに「鳲鳩桑に在り、其の子榛に在り」とある。

(5)『詩経』召南・鵲巣の第一スタンザ。

(6)『詩経』召南・鵲巣の序は、如を而に作る。

(7)『周礼』夏官・司馬・羅氏に「中春に春鳥を羅し、鳩を献じ以て國老を養ふ」とある。

(8)『続礼儀志』 『後漢書』礼儀志に「仲秋の月、 縣道皆戸を案じ民を比し、年始に七十となる者、之に授くるに王杖を以てす、(…)端に鳩鳥を以て飾と為す、鳩なる者、噎せざるの鳥なればなり」とある。

(9)『東觀漢記』では、鯁を哽に作る。

(10)今本の『禽経』に見えない。

(11)『逐婦書』 不詳。


 [考察]

 鳲鳩は、和名カッコウ(学名Cuculus canorus、中国名大杜鵑da du juan)である。本文に記されている秸鞠、摶黍、布穀、郭公以外にも{吉+鳥}{匊+鳥}、勃姑、撥穀、獲穀、撃穀、結誥、桑鳩、戴勝、戴紝などの異名がある。布穀は現在の中国でも使われている呼び名である。名前の音を見ると、多くは布穀buguのように「カッコー」という鳴き声に由来するものと考えられる。また、布穀・獲穀といった漢字が当てられたのには、カッコウの声を聞けるのが春から初夏といった農耕期であることが関係しているだろう。カッコウと季節の関係は「臣、布穀は孟夏に鳴き、蟋蟀は始秋に吟ずと聞く」(『後漢書』襄楷伝)といった記載からも知ることができ、杜甫『洗兵行』では「布穀、処処に春種を催す」とあり農作業との結びつきを見せている。このことは種蒔きとカッコウの声とを同じ季節の風物詩として捉えていることを示している。

 「自ら巣を為らず、鵲の成巣に居り」から「故に『詩』は以て夫人を況す」までは、『詩経』の解釈を論じている。鵲巣や桑にいる鳲鳩を他家へ嫁いだ女性に譬え、夫人の徳を述べたものである。「其の子を哺み、朝は上自り下り、暮は下自り上る者は均なり」とは、『詩経』曹風・鳲鳩に「其の子七つ」とあり、鳲鳩が七羽の雛を等しく養育することを指している。陸佃は、これを均の徳と言い、子を等しく育てることが母の道としている。また「其の子梅に在り、棘に在り、榛に在り。而して己は則ち常に桑に在る者一なり」や詩序は、女性が家を守り、貞淑であることを言っているのだろう。これを一の徳と言い、婦の道としている。

 さて、鳲鳩にはこの均一の徳があると言っているが、果たしてそうだろうか。

 『詩経』の解釈には、カッコウの托卵という習性が関係している。托卵とは、自分の巣を作らず、他種の鳥の巣に卵を生み、自分の子を育てさせる習性である。他種の鳥の巣の中で、発育の早いカッコウの卵は一足先に孵化し、雛は生まれてすぐ他の卵を巣から落とす。そうすることで仮親からの餌を独占するのである。こうして見ると、カッコウには徳があるどころか、他種の鳥に取っては非常に迷惑な鳥である。カッコウが卵を生みつける鳥は、カッコウよりも小さい種のため、仮親よりもずっと大きな雛(この時はもうカッコウと分かる)が巣の中で餌を待っていることになり、この姿を見た人が、夫を待っているものと勘違いしたために、カッコウに徳があるということになったのだろうか。

 ここでは、鵲(カササギ)の巣にカッコウがいることになっているが、実際のカッコウの主な托卵先としては、オオヨシキリ、ダルマエナガ、タヒバリ、ノビタキなど(『中国経済動物志・鳥類』)の小型の鳥類が知られている。

 『周官』の「鳩の性は噎せず」とは、喉に物がつかえないの意であり、声が通ることを指すと考えられる。『周官』や『続礼儀志』は鳩の声にあやかって鳩の肉を食べ、鳩をかたどった杖を持つことで、声がしゃがれるのを防ぐことができるというのだろう。(『周官』や『続礼儀志』で言う鳩が、鳲鳩であるかどうかははっきりしない。ただ陸佃は鳩を鳲鳩として扱っている)。『逐婦書』でも声のことを言っており、カッコウの声が大きな印象を与えていたことが分かる。(吉野)


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