記号学から見た漢字

加納喜光(茨城大学教授) (漢文教育学会講演、『新しい漢文教育』25、1997.11 に収録)

 私が日ごろ興味を抱いている漢字の分野に三つあります。一番目は博物学的な分野、二番目は現代日本の漢字状況、三番目は漢字の記号学といった領域です。

 最初の博物学ですが、これは中国の古典、特に『詩経』の研究から、その方面へ入っていきました。『詩経』にはたくさんの動植物が出てきます。この漢字で書かれている動物、あるいは植物は、現在の何であろうと、突き詰めていきますと、伝統的な本草学にぶつかります。また、同じく伝統のある詩経名物学も追跡する必要があります。こういった分野は辞書の歴史とも深い関係があり、特に日本の古代辞書も眼が離せません。

 この方面の研究はかつて青木正児氏がやっておりましたが、最近は研究者が少ないようで、私は若い人たちにも是非奨めたいと思っております。博物学方面の漢字研究は古典の正確な理解を助けるだけでなく、辞書の編纂という方面にも役立つのではないかと考えております。(資料1)

 次に、現代日本の漢字状況については、遊びと病気という両面から観察をしています。私は遊びも病気も漢字本来の性格ではないかと考えております。漢字はアナグラム的要素があり、遊びに適した文字だと思います。アナグラムというのは、私の定義では、「テキスト(文章、言葉、文字、図形)の背後に隠れているもう一つ別のテキスト」ということです。中国古代から文字遊びは盛んで、古典にもよく登場します。現代日本では特に新聞や雑誌で流行しているようです。しかし遊びが遊びでなくなると病気になります。病気というのは要するに漢字の間違った使い方です。コンピュ−タ−時代になりまして、逆に誤字誤植が増えたということが指摘されています。もちろん漢字の学習や教育の足りない側面に原因があるかもしれません。しかし漢字自体にも問題があることは確かです。私は現象面から漢字の誤りをいくつかにパタ−ン化しました。こういった観察も漢字研究あるいは漢字教育に役立つのではないかと思っております。(資料2)

 三番目の漢字の記号学、現在はこれにもっとも興味をもっておりますので、やや詳しく私の考えを述べまして、皆様のご批判を仰ぎたいと思います。
 

 漢字は長期間にわたり多くの人の手を経て生まれたに違いありませんが、漢字発生のドラマというものがあったのではないかと想定することもできます。つまり、最初は偉大なある人間の発明で、それ以後その手法をまねて漢字を作り出したと考えるのです。だから漢字の原理は最初に定まったのであると。

 最初に定まった原理はこういうものではなかったか。始めに言葉があった。これは聴覚記号です。それを視覚記号に変換する必要が生じた。そこで漢字が発明された。つまり聴覚記号を前提しなければ視覚記号はなかった。漢字は絵でも符号(言葉と対応しない)でもなかったということです。以上を仮定して漢字誕生のドラマを考えてみたい。

 ここでF・ド・ソシュ−ルの記号学の見方を導入します。記号学は日本語にも中国語にも、現代語にも古代語にも当てはまります。言葉(記号)のあるところに記号学の原理が当てはまります。

 記号というのは(ここでは言語記号を念頭に置きます)、ソシュ−ルによると、能記(シニフィアン、意味するもの)と所記(シニフィエ、意味されるもの)とがしっかり結合したものです(資料3)。別の言い方では能記は聴覚心像、所記は概念、イメ−ジです。だから記号は現れる形としては聴覚的なものですが、「精神= 物理的結合体」とでも呼ぶべきものです。

 さて、この記号学の原理からわかることは、聴覚的なものを視覚的なものに変換するには二つの方法がある(あるいは、二つの方法しかない)ということです。一つは能記のレベルで視覚記号に変換する方法です。これは記号素の読みを音に分析し、線条的に綴り合わせるやり方です。たとえば人間を意味するマンをm,a,nに分析しmanと綴る。もう一つは所記のレベルで視覚記号に変換する方法です。これは概念やイメ−ジ(意味と考えてよい)を図形に表すやり方です。たとえば古代の漢語では人間を意味する記号素はnienであったが、音に分析せず、人間の図形を書きました。これが「人」という漢字ですが、これは発音記号ではありません。nienという記号素と対応し、代替する図形素です。

 以上が漢字誕生のドラマです。中国古代のある人が記号の所記を図形化する方法を発明した(二者択一だから本当は「選択」というべきでしょうが)瞬間から、以後四千年間動かすことのできない原理となったのです。
 

 記号学の観点から漢字の性格を考えてみます。

 まず漢字は表意文字といわれます。ある学者は「日」や「月」は楷書化以後形が崩れ、太陽とも月とも似ていないから表意文字とは言えないと言っていますが、とんでもない誤解です。所記を図形化したからこそ表意文字というのです。

 表意文字の表意文字たるところはこれだけではありません。私は「一対一対応の原理」で表意文字の性格付けをしています。これはどういうことかと言いますと、物(を表す言葉)が一つあると文字が一つ対応するということです。これは表意文字の大きな特徴です。原理的には物があるだけ文字が必要です。漢字が多いのはこのためです。漢字の制限がいつも問題になるのは、表意文字の宿命です。現在漢字の総数は5万字といわれていますが、原理上から言うとむしろ少ないというべきでしょう。

 「一対一対応の原理」を別の言葉で言えば、「非互換性」ということです。例を挙げますと、日本語の「あめ」の「あ」は「あき」の「あ」にも使えます。しかし漢字の「雨」は「宇宙」の「宇」に換えることはできません。あたりまえのようですが、これはきわめて重要な点です。その理由を考えますと、漢字は記号素のレベルで視覚記号化された文字だからです。

 さきほどから「記号素」という用語を使いましたが、これは言語記号において意味をもつ最小単位と定義されています。漢字を理解するためには記号素という概念は欠かせません。記号素の読みの部分はもっと小さな音のレベルに分析できます。これを音素といいます。しかし文字の創造に関係した中国人は漢語の記号素を音素に分析しなかったのです。だからこそ記号素の所記のレベルで視覚記号化する方法を思いついたのです。

 さてここで漢字を構成するいくつかの操作概念に記号学的な定義を与えたいと思います。漢字には「形音義」の三要素があるといわれますが、形・音・義を記号学から見ると何でしょうか。

 まず始めに言っておきたいことは、繰り返すようですが、一つの漢字は一つの記号素に対応、代替する図形素だということです。だから漢字の「形」というのは記号素の所記を視覚記号化した図形です。「音」は記号素の能記(聴覚心像、読み)そのものです。「義」は記号素の所記(概念、意味)ということになります。

 ここで重要なことは音と意味の問題です。音には二通りの意味があります。一つは記号素の能記の読み方です。もう一つは記号素の能記を構成する音素です。この二つを混同するために漢字研究者の間で往々混乱が見られるようです。

 次に意味の問題ですが、意味はどこにあるのでしょうか。きわめて常識的であるとともに根本的な問題です。古来の漢字学者は常識的に意味は漢字にあると考えてきたと思います。私はこれが間違いだと思います。さきほど定義したように、「義」は記号素の所記のことです。漢字は記号素の代替記号です。だから意味は漢字そのものではなく、言葉(記号素)にあると言えます。

 このことは大変重要なことです。なぜこれを強調するかと言いますと、漢字の形の解釈と意味とは必ずしも一致しないからです。簡単な例を挙げますと、「犬」の字形をイヌの形と解釈して、だからイヌの意味だとするのは一致しています。しかし「大」の字形を「大きく立つ人」と解釈しても、「大」はそんな意味ではありません。単に「おおきい」という意味です。正確に言うと(漢字誕生のドラマに立ち返って言うと)、大きいという所記と、tai(*d'ad[Karlgren],*dad[藤堂])という能記をもつ記号素を、「大」という図形を用いて、その所記を暗示させた、と見るべきでしょう。

 以上、漢字を記号学的にどう捉えるかということに関して、若干の私見を述べました。

 私は漢字はコンピュ−タ−時代に合った文字体系であり、今後も維持していくことが大切だと考えておりますが、さきほども申しましたように、学習や教育の面でいささか問題があると思います。その点に関しては我々中国研究者も拱手傍観してはいられないでしょう。したがって今後漢字の理論面を確立させて、漢字教育に資する責務がありはしないかと思います。
 

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